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■2002年4月1日〜4月15日


4月14日(日)
 古処誠二ルール』読了。ミステリではなく、戦争を題材にした人間ドラマ。必ずしも全面的な肯定の意味ではないんだけど、この作品で「直木賞」をとったとしても驚かない。いや、本当に。

ジェレミー・ドロンフィールド(越前敏弥・訳)『飛蝗の農場』★★★
 寓話っぽいタイトルに惹かれて手に取ったら、本当にバッタを飼育している農場が舞台で驚いた。

 荒れ野の農場に現れ、一夜の宿を乞う男に、キャロルはショットガンで傷を負わせてしまう。看護婦としての過去を持つキャロルの看護により意識を取り戻した男は、自分が何者なのか思い出せないと言う。この2人の奇妙な共同生活を語るパートが、この小説の本筋になる。
 そして、その幕間に挿入される形で、正体不明の追跡者〈汚水溝の渉猟者〉に追われる男の逃走劇が、章が進むごとにエピソード単位で過去へと時系列をさかのぼって語られる。この部分は、それぞれ舞台も登場人物もばらばらで、独立した短編のような体裁をとりつつ、エピソードの終わりに至って、逃走劇の物語を構成するピースのひとつであることがわかるという仕組みになっている。逃亡者である男は、名前も職業も行く先々で変えており、物語は主にエピソードごとに登場する第三者の視点から語られるので、テレビの連続ドラマにでもありそうな設定ながら、時系列が逆転している構成も手伝って、小説ならではの独自性を出すことに成功しているといえる。
 交互に語られる2つの物語がどう結びつくのか、という点に関しては、それなりに工夫されてはいるものの(逢坂剛の某作品を思わせる)、あまり驚きはない。結末に至っては、どういうことなのかさっぱりわからなかった(わかった方、教えてください)。
 個人的に一番気になったのは、ヒロインであるキャロルの行動がひどく突発的で、物語の進行に都合のいいように動かされていると感じる点だろうか。

 余談だけど、「訳者あとがき」で紹介されている第二長編の『Resurrecting Salvador』のあらすじは、ちょっと日本の〈新本格〉作品と作風の共通性が感じられておもしろそう。
世界的なギタリストとその妻が相次いで不思議な死をとげた事件の謎を解明すべく、ふたりの住んでいた古城風の建物を妻の大学時代の女友達三人が訪れ、つぎつぎと奇怪な事件に巻き込まれていくゴシックホラー風の物語」(中略)「現在と過去が入り乱れ、手記や日記、さらには作中小説やコンピューターゲームのプロットや大学の試験問題文までもが挿入される構成」(後略) 
 訳出されたら、ぜひ読んでみたい。

4月13日(土)
 昨日の日記に書いた高橋源一郎「『名探偵』小林秀雄」の記述にネタバレがあったので文字の色を変えました。わりとすぐに明かされてしまうとはいえ、ちょっとしたサプライズを意図して書かれていることは明白なのに、迂闊でした。申し訳ありません。

4月12日(金)
メフィスト」を購入。なんと、高橋源一郎の短編(というか長編のプロローグ?)「『名探偵』小林秀雄」が掲載されている。大岡昇平がワトソン役にして語り手、小林秀雄が文学作品、および文学史に隠された謎を発見し、解き明かす探偵役。少なくとも今回掲載されている部分にかんしては、驚くほどまじめに物語を語っている。しかし、このまままっとうに物語が進むとは思えないんだけど。
 高橋源一郎が「あり」なら、次は三浦俊彦あたりに「可能世界」を題材にした形而上ミステリでも書いてほしいなぁ。

OK's Book Case」で知った高橋源一郎による書評「世界が終わった後に」を読んで、J・G・バラード『コカイン・ナイト』を購入。とはいえ、経験からいうと、高橋源一郎が褒める小説とはいまいち相性が良くない気がしている。とりあえず、古処誠二『ルール』読了後に読む予定。

 高橋源一郎といえば、有栖川有栖『双頭の悪魔』(だったかな?)で有馬麻里亜が「高橋源一郎の未読の小説」を手に取るシーンがあったと思うんだけど、どの作品なのか非常に気になる。

4月11日(木)
 読了からすでに一週間が経過していますが、ようやく感想をアップ。

リチャード・マシスン(尾之上浩司・訳)『ある日どこかで』★★★
 脳腫瘍であと半年の命だと宣告された脚本家は、行くあてのない旅の途中、偶然投宿することになったホテルでひとりの女優のポートレイトを目にし、一目惚れする。恋愛物語に「障害」はつきものだが、この作品の場合は「時間」がまず(文字どおり)越えるべき「壁」となって主人公の行く手をさえぎる。その女優は過去の人物で、彼女に会うためには時を越えなくてはならないのだ。
 この物語は主人公である脚本家の書き残した手記を、その兄がまとめて出版したという体裁をとっており、この恋愛物語そのものが主人公の妄想の産物であるという可能性が「序文」においてほのめかされている。実際、物語は実に都合よく展開する。主人公が恋する女優に会うために時間を過去へと遡る手段は、「
いま、自分は(女優がかつてそのホテルで公演を行った)1896年にいる」と「思い込む」ことによって実現されるし(一応、理論的な裏づけは語られる)、突然、目の前にあらわれた主人公の存在を、当の女優は「占いによって予言されていた運命の人」としてあっさりと受け入れる(ちなみにこの「占い」は時間旅行とはまったく無関係)。このへんの展開は、ご都合主義であるがゆえに「妄想の可能性」をより強調するという効果があることは理解できるんだけど、やっぱり安直だよなぁ、と思ってしまう。
 主人公をこころよく思わない女優の母親やマネージャーといった「悪役」の存在、ラブシーンのクライマックス直前で邪魔が入るといった展開、そして、2人が結ばれるために主人公が通過しなくてはならない「試練」としての事件など、恋愛物語としての約束事はしっかりおさえられている。しかし、正直なところ、どれも定型を超えるものではないと感じた。
 前述のように、この物語は「妄想の可能性」をほのめかし、物語の構成もそれを補強するかのように安直とも受け取れる展開を見せる。しかし、「あとがき」において主人公の兄が「妄想である」と断じたところで、それを信じる読者は皆無だろう。虚構/現実の揺らぎは、この物語においては有効に機能しているとは言い難い。むしろ、「序文」の存在によって結末の展開を読者に予想させてしまうという意味において、マイナスにしか作用していないのではないだろうか。
 何より、この決して成功しているとは言い難い趣向を導入することによって、ヒロインである女優は「他者性」を決定的に欠くことになる。

4月9日(火)
 舞城王太郎世界は密室でできている。』読了。
 こういう馬鹿馬鹿しくも感傷的な小説は大好き。いいぞ、もっとやれ!
 とりあえず、「メフィスト賞は舞城王太郎を発掘するためにあったと言っても過言ではない」に激しく同意。

4月8日(月)
 ジェレミー・ドロンフィールド飛蝗(ばった)の農場』読了。なかなかおもしろかったけど、期待していたほどではなかった。2つの筋が交互に語られるという構成で、なんだか最近、そんな小説ばかり読んでいるような気がする。例によって詳細な感想はまた後日。
 リチャード・マシスンある日どこかで』の感想も、それまでにはアップする予定。

 さて、次は舞城王太郎世界は密室でできている。』と古処誠二ルール』のどちらを先に読もうかな。

★特に断り書きがない限り、このサイトで感想を書いている小説は、一般書店にて自費で購入したものです。

4月7日(日)
※上記の文章は冗談です(内容に嘘はありませんけど)。「遺伝子組換え大豆は使用していません」みたいなものだと思ってください。そのうちはずします。

梅津裕一アザゼルの鎖』★★★
『太陽を盗んだ男』で沢田研二が演じるテロリストがラジオを通じて政府への要求を募ったように、この物語の「アザゼル」を名乗る殺人鬼は「2ちゃんねる」を思わせる匿名掲示板で犯行声明を出し、犯罪のリクエストを募る。という、ちょっとおもしろそうなネタをふりながらも、そこは〈スニーカー・ミステリー倶楽部〉というレーベルの限界なのか、大した展開もなく終わってしまうのは残念。これが講談社ノベルスあたりから出ていれば、もっとおもしろくなっていただろうに、と惜しまれる。
 警察の捜査や組織内の軋轢の描写など手慣れている。基本的に、私が苦手なタイプの主題を扱った物語なのだが、むしろそこはテーマ性よりはプロットの構造が優先されており、加えて主人公の存在がたくみにそういった主題を脱臼させるように機能しているので、あまり反感を抱かずに読み進むことができた。このへんの匙加減は非常に好み。まったく救いのない結末もいい。

4月5日(金)
 市川尚吾さんの「錦通信」が閉鎖。愛読していたので非常に残念です。
 ……しかし。
ちなみに、ネット上のどこかに『錦通信』のコンテンツが複写されて残っている可能性もありますが、その著作権はすべて市川尚吾が有しています。不当な引用等はなされないよう、お願いいたします。
 これも不当な引用なのかな。

4月3日(水)
 1日に書いた日記を起点として、フォントや文字コードについて書こうと思ったんだけど、いろいろと調べているうちに改めて自分の勉強不足を痛感し、結局、途中でやめてしまった。とりあえず、以前に拾い読みしただけで満足してしまった『漢字問題と文字コード』(太田出版)をきちんと読もうと思う。

 と書きつつ、あくまでネタとして、個人的に「この字は欲しい」「この字は不要」というのをあげてみよう。本気で怒らないように。

 まずは使えるといいと思う文字から。
●すが秀実の「すが」
●草なぎ剛の「なぎ」
●内田百けんの「けん」
●森鴎外の「鴎」の正字
●「掴む」の正字
●顛末の「顛」の正字
●立崎

 続いて、別にいらないんじゃないの? という文字。
●土吉
●梯子高
●蓮實重彦の「彦」

 念のため書き添えておくと「立崎」が必要で「土吉」と「梯子高」が不要というのは、別に「立崎」だけが単独でコードを割り振られているからというわけではなく、感覚的に別の文字だと認識しているということ。しかし、この手の主観による要・不要の議論というのが不毛だということは充分承知している。
 蛇足ながらもうひとつ書き加えておくと、もし私の姓に含まれている文字が正字(あるいは俗字)しか使えなくなったとしても、私としては特に文句を言う気はない。

 リチャード・マシスンある日どこかで』読了。残念ながら、今ひとつのれなかった。詳細な感想はまた後日。

4月1日(月)
 私の姓は、初対面の人に正しく読まれることはまったくといっていいほどなくて、ちなみに「そらけい」というハンドルは本名の誤った読み方に由来しているんだけど、子供のころから名前の読み方を間違われることには慣れている。だから、例えば何かの手続きで窓口に書類を提出して名前を呼ばれるのを待っているとき、「そらけい」をはじめ、他にもいくつか典型的な誤読のバリエーションがあるのだけど、間違った読み方で呼び出されても、それが自分を呼んでいるのだときちんと認識することができる。
 しかし、その認識は当然のことながら、自分の姓が誤読される頻度が高いと自覚しているからこそ可能なわけで、小学校の入学式の日に、上級生に教室の自分の机に案内されたとき、机に貼ってあった「そらけい」という名前を見て、ここは自分の席ではないと主張したのは、その認識が芽生える前だったからだろう。

 ついでに記しておくと、漢字2字で構成されている私の姓のうち、1字は正字と俗字が存在する文字で、戸籍上では正字の表記だけど、私自身は俗字を好んで使っている。その字は正字も俗字もJISの第二水準までに入っているのでPC上で使用するうえで苦労したことはない(余談だけど、『ATOK13』では辞書登録しないと姓が変換できなかったのだが、『ATOK14』からはデフォルトで変換できるようになっていて驚いた。『ATOK13』を購入してユーザー登録したからだろうか。ユーザー辞書を引き継いだからではないのは確認している。念のため)。

 私個人としては、どちらかといえば間違われることのほうが多いせいか、名前を間違えるとか表記が正確でないということにかんして、結構、寛大というか、いいかげんだと思う。要は、誤読にしろ誤記にしろ、名前と特定の個人が結びつけばそれでOKという立場だ。ところが、仕事となるとそうはいかなくて、やはり正確な表記を要求される。「高」と「梯子高」の違いなんてどうでもいいじゃん、とは思っても言えない。DTPで使用するフォントにかんしていえば、実は「梯子高」程度は大した問題ではなくて、ほとんどの場合、市販の外字セットで解決できるし、いざとなったらパーツを組み合わせて自作するという手段もある。
 そういう意味では、アップルがMac OS XのOpenTypeフォントでヒラギノに2万字もの独自規格も含めたフォントセットを作り出しているのは、正直なところ、よくわからない。というか、無駄な労力という気がしなくもない。まあ、はじめからあるに越したことはないし、2万字という数字にインパクトがあるのは否定できないから、それはそれでいいのかもしれないけど。

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