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■2002年4月16日〜4月31日


4月30日(火)
 本の内容以外について筆を費やしすぎ! と自分でも思うし、後半に向かうにつれ文章が弛緩していくのが目に余りますが、一応、乙一暗いところで待ち合わせ』の感想です。

乙一暗いところで待ち合わせ』★★★★
「伏線」を、とりあえず「情報を分割して提示する技術」と考えてみる。Aという情報を、要素Bと要素Cに分割し、物語の序盤でBを提示しておいてから、終盤でCを提示することによって、Aの全体像を明らかにするという図式だ。当然、分割する数は2つに限った話ではなく、書き手(あるいは読み手)の恣意によっていくらでも細分することは可能で、Aを小説全体、B以下を小説の文章と考えれば、物語を語ることそのものがこの構造を内包しているといえるだろう。が、ここではもっと大きな単位、物語を構成するエピソードやシーン、あるいは小道具や台詞といった範囲に絞って話を進める。
 特にミステリと呼ばれるジャンルにおいてごく一般的に用いられるのは、表層と意味を分離するという手法だろう。冒頭において意味を欠いた表層である「謎」を提示し、結末において「解決」という形で「謎」に意味を与えることによって、「事件」の全体像を示す。もっとも、通常このような場合は「伏線」とは表現しないが、要はこの構造を縮小し、物語に分散して配置されたものが「伏線」と呼ばれるわけで、基本的には同じだと考えることができる。
 例えば、解読不能なダイイング・メッセージなどはこの表層と意味の分離の典型だろうし、何げない室内の描写に犯人特定の手がかりがある、というような場合は、それが意味を持つ表層であることが隠されているという意味で、相対的に高度な技法だといえるだろう(通常「伏線」といわれるのはこのあたりか)。あるいは、ミステリに限らずとも、物語の前半部に名前だけ出ていた人物が、後半部に至って登場して重要な役割を担う、というような物語の構成も同様のバリエーションと見なすことができる。
 これは、手法としては割と初歩的な部類に属すると思うのだけど、少なくともミステリに限っていえば、作品から排除することはほとんど不可能だ。もちろん、初歩的とはいえ(初歩的であるがゆえに?)演出の善し悪しというのは大きいわけで、個人的に最悪だと思うのは、伏線の存在をあからさまに強調し、謎を宙づりにすることだけで読者の興味をひこうとする類の小説で、これは以前にも書いたことがあるけれど、「漠然とした違和感を覚えたが、それが何なのかはわからなかった」みたいな、ここに伏線がありますよ! と作者が言いたいがためだけに書かれたような文章は、あまりに安直なので勘弁してほしいと思う。と、これは余談。
 技術的により高度なものになると、積極的に物語としての意味を与えたうえで、改めて別の意味が付加されるという「伏線」もあるだろう。あるいは、付加された意味によってはじめに与えられていた意味がまったく異なるものに書き換えられてしまう「伏線」もあるだろう。
 この『暗いところで待ち合わせ』には、そういった様々な形の「伏線」が巧妙に張り巡らされている。それはもう徹底的に。さすが大学でエコロジー工学を専攻していただけのことはある。

4月29日(月)
 精神的な低調期で、本を読むのも文章を書くのも億劫で、だらだらと昼寝をしたりウェブサイトを見て回ったりハードディスクの断片化を解消したりして休日を過ごす。

 27日の夜、何気なくテレビをつけたら、NHK教育テレビの『しゃべり場』という番組に高橋源一郎が出演していた。しばらく見ないうちに老けたなぁ、とか、服装が冴えないけど、以前は奥さんが服を選んでいたのかなぁ、などとくだらないことを考えながら最後まで見てしまう。それにしても、高橋源一郎の離婚経験が4回目だというのは知らなかった(室井佑月との離婚で3回目だと思っていた)。
 あ、私、高橋源一郎にかんしては、高橋直子アイ・ラブ・エース!』(高橋源一郎のエッセイなどにも頻繁に登場していた3人目の結婚相手が書いた小説で、離婚後まもなくして出版された)を興味本位で読んだくらいミーハーな読者です。

4月26日(金)
10000!
 それはさておき。
 乙一暗いところで待ち合わせ』読了。とりあえず、4月24日の日記の発言は撤回する(打ち消し線をいれました)。これは
仕掛けが予想とは違ったという意味ではなくて、その点については予想どおりだったのだけれど、そこだけを取り上げてあれこれ言うことに意味がないと思わせるくらい全編にわたって細かに(謎解きにかんしてではなく)物語的な伏線がはりめぐらされた小説だったからで、やっぱり読みかけの小説について語るのは自重しようと改めて思いつつも、そのうちまたやってしまうのだろうな。詳細な感想はまた後日。

4月25日(木)
J・G・バラード(山田和子・訳)『コカイン・ナイト』★★★
 大雑把に要約してしまえば、犯罪行為を起点として、祝祭空間が恒久的に持続する共同体を人為的につくりだそうという試みを主題とした小説で、物語の骨格に「犯人探し」という形式を採用することによって、主題を「謎」として読者に提示して見せるわけだけど、そこに「
反復」というか、一言で表現してしまえば「ミイラとりがミイラになる」という図式を用いることによって、いわゆる「謎解き」にあたる説明を最小限におさえてそれまでに語られていた物語そのものが結果的に「謎解き」として機能するように構成されている。まあ、どうせなら登場人物の台詞による解説を完全に排除してほしかったところだけど、さすがにそこまで求めるのは贅沢というものだろうな。
 作中で示される理想の共同体のヴィジョンに、個人的に何の魅力も感じなかったということもあるし、また、ミステリとして読んだ場合、結末にそれほど驚きを感じなかったということもあって、読んでいるあいだは決して退屈というわけではなかったけど、さりとて興奮もせず、感想としては「高橋源一郎の書評はほめすぎだよ!」ということになるだろうか。
 ちなみに、バラードの小説を読むのはこの作品が初めて。

4月24日(水)
 迂闊にも出勤するときに西澤保彦聯愁殺』を持って出るのを忘れてしまった。そのかわりに、帰りに書店で購入した乙一暗いところで待ち合わせ』を読みはじめる。相変わらずうまい。しかし、そろそろ仕掛けのない小説が読みたい。いや、それが乙一作品の重要な構成要素だというのは承知しているんだけど、仕掛けの存在に気づいてしまうと、読者としてのモードが切り替わってしまって素直に楽しめないんだよなぁ。まだ第一章を読み終えたところなんで、見当違いかもしれないけど。

 他に、恩田陸劫尽童女』、浦賀和宏こわれもの』、「KAPPA-ONE 登龍門」の4作を購入。あと、復刊された『ドラゴンランス戦記』の第1・2巻が発売されていて、再読したいとは思っているんだけど、文庫で持ってるのに改めてハードカバーを購入するのもためらわれ(ちなみに、旧刊の愛蔵版は持っていない)、今回は見送り。しかし、ここは復刊したアスキー/エンターブレインに敬意を表して購入しておくべきなんだろうな。

4月23日(火)
 J・G・バラードコカイン・ナイト』をようやく読了。物語の導入部において「ミステリ」の形式を踏襲し、途中、形式から逸脱するかと思わせながらも、結局、抜け出せないまま終わってしまったという印象。残念ながら、ジンクスは覆らず。詳細な感想はまた後日。

 次は、読みそびれていた西澤保彦聯愁殺』を読む予定。

 ここのところ、サイトをやっていくうえで自分に課していたルールをいくつかなし崩しに破ってしまっているので、この際だから、もうひとつ破ることにする。

4月21日(日)
 他にいろいろとやるべきことはあるはずなのに、ふと思いたって下絵をスキャンしたまま放置していたデータに色を塗りはじめてしまう。というわけで、描きかけの絵(部分)。



 今度はちゃんと首から下も描いてるよ! ホントだよ!
 完全に自己満足の世界なんですが、描き上がったらアップします。

4月18日(木)
 樋口さんの「UNDERGROUND」で舞城王太郎世界は密室でできている』の感想を取り上げていただきました。ありがとうございます。

 それにしても、舞城王太郎は人気があるなぁ、と改めて思いました。樋口さんには、ありがたいことにたびたびリンクしていただいているのですが、今回はいつもに増して多くの方に来訪していただいたようです。以前、暗闇の中で子供』の感想をアップしたときも、検索エンジン(主に「フレッシュアイ」)経由の来訪者が一時的に急増したことがありまして、舞城王太郎の注目度の高さがうかがえます。

 以下、読了本の感想。ちなみに現在はJ・G・バラードコカイン・ナイト』を読書中。

古処誠二ルール』★★★★
 古処誠二の作品に登場する、自分たちの存在を否定する人びとを守らなくてはならないという矛盾を抱えた自衛官。外部からその存在価値を否定されながらも、しかし、彼らにはまだ、組織の一員としての使命感にささえられた確かな「意味」を自分たちの行動に見いだすことが可能だった。
 しかし、この物語に登場する日本兵たちは「命をかけて戦う意味」を徹底的に奪われている。すでに敵であるアメリカ軍は彼らの頭上を越え、日本へ直接攻撃の手を伸ばしている。なぜ、自分たちはフィリピンのジャングルで、アメリカ軍やゲリラの攻撃に怯え、病に冒され、傷を負い、耐え難い飢えに苛まれながらも戦わなくてはならないのか。答はない。
 精神的な虚無と、肉体的な飢え。その極限状況を、かつて自分の部隊の部下を全員失った日本人中尉と、捕虜となったアメリカ人将校の視点で語る「戦争小説」。

 この小説は、これまでの古処誠二の作品と同様、いわゆる「反戦」の立場をよしとするものではない。それは、作中で「敵の手で死にたかった」という言葉が肯定的な文脈で使われていることからも明らかだ。「戦争の悲惨さ」を描いた作品ではあるけれど、そこから「反戦」や「平和」といった作者のメッセージを読みとることは、不可能とはいえないまでも困難だろう。

 人は、食べなくては生きていけない。そして、同様に「意味」がなければ生きていけない。
 ここでいう「意味」とは、「物語」とか「ロマンティシズム」といった言葉に置き換えることが可能で、正直なところ、ちょっとした危うさを感じないでもないし、実際、「外部」の視線に晒されることを拒絶するという結末は、あきらかに自己の特権化を指向しているという意味で、不満を感じる。また、日本人兵士の描写に比較すると、アメリカ人将校が良くも悪くも「ガイジンさん」といった印象で物足りない。それでも、物語としての構成には素直に感心したし、少なくとも古処誠二の現時点での最良の作品であることは確かだと思う。

4月16日(火)
舞城王太郎世界は密室でできている。』★★★★
 どうやら舞城王太郎は非常に照れ屋であるらしい。
 恐らく舞城王太郎は「見立て殺人」とか「密室」とか「名探偵」といったガジェットを心底愛しているのだ。しかし、今どき「見立て殺人」とか「密室」とか「名探偵」が好きなんて恥ずかしくて、まじめな顔をして言えるわけがない。
「おまえ、あいつのこと好きなんじゃねえの?」
「誰があんなブス好きなもんか、ボケ」
 相手と顔をあわせれば憎まれ口しか叩かない。ときには言葉が過ぎて相手を泣かせてしまう。それは歪で幼稚な愛情表現だ。しかし、そういう形でしか相手とコミュニケーションがとれない(奈津川家の親子のように)。それは、悲劇的であるがゆえに喜劇にしかならない。
 だから、舞城王太郎の描く「事件」はこんなにも馬鹿馬鹿しいのだ。

 世界はもっとシンプルであるべきなのに、どうしてこんなにややこしいのか。
 思わせぶりな「謎」は、平坦な世界に擬似的な奥行きをあたえる遠近法として機能する。だから、舞城王太郎の作品において、「見立て」や「密室」といった「謎」は、あらわれたそばから解体されてしまう。「謎」は、シンプルな世界には不必要だ。
 謎? 解決! バイバイ!
 しかし、「名探偵」が片っ端から「謎」を解体しても、世界は一向にシンプルにならない。なぜか? 「世界は密室でできている」から。だけど、そんなものはさっさとバラバラにして窓から投げ捨てろ!
 例えそれが不可能だとしても。

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