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■2002年6月16日〜6月30日


6月30日(日)
 高橋源一郎一億三千万人のための小説教室』を読む。この本は、すぐれた「小説の教科書」であると同時に、それじたいがすぐれた「小説」でもある(まあ、誰にでも思いつきそうなレトリックではあるけれど)。そんなわけで、いつもは小説以外の本にかんしてはきちんとした感想を書いていないんだけど、この本にかんしては後日、感想をアップするつもり。

6月29日(土)
佐藤哲也妻の帝国』★★★★
 高校生の無道大義は、ある日、家の前の路上で郵便配達員から一通の手紙を受け取る。封書の宛先には「七和手地区主任補導官殿」と記されていた。裏には「最高指導者」とある。手紙には「
指令第一号。しかるべく監視を開始すること。来るべき選別の準備を開始すること。追って指示があるまで一切を秘密とし、敵にいかなる機会も与えないこと。下部組織にも以上の指令を徹底すること」(P.12)と書かれていた。手紙を読んだ瞬間、無道大義は真の民衆の一人として目覚めた。目指すは、「民衆感覚」に基づく直観による「民衆独裁」のみを肯定する「民衆国家」建設。無道大義は名も知らない自分の「部下」にあてて手紙をしたため、「民衆国家」建設の準備を開始する。
 そして、その「民衆国家」の「最高指導者」こそが語り手である「わたし」の妻だった。妻はマンションの一室でひたすら手紙を書き続けている。「わたし」は妻の仕事に理解を示し、可能な限りよき夫であろうとした。
 やがて、「民衆独裁」がはじまり、「民衆感覚」を持たない「個別分子」が排除される。

「自ずとわかる」という「民衆感覚」。そこには「原因」とか「理由」といったものは存在せず、ただ確率的な結果に対して、事後的に「民衆感覚」による直観という正当性が与えられる恐ろしい世界だ。例えば、顔も知らない「同志」たちがとある場所で集会を行う。ドアを開けるとき、ある者は三度短く、二度長くノックし、ある者は二度短くノックしてから間を置いてそれを二度繰り返す。前者は4人。後者は2人。後者は「個別分子」のスパイであると断じられ、残りの4人によって「補導」される。なぜ、という問いは無意味だ。
 後者2人のノックの合図が違ったのは、彼らが「民衆感覚」を持たないからだ。それは、彼らが「個別分子」の証拠である。ここは、あからさまに原因と結果が逆転した論理が正しいとされる世界なのだ。

 思考や説明を、直観に反するものとして徹底的に排除する社会。原理と理念のみが肥大化し、実務と細部が蔑ろにされる世界。
 手紙には氏名も住所もなく、役職のみが記されて投函される。それでも、手紙は確かに誰かに届き(あるいは届かず)、メッセージは伝達される(あるいは伝達されない)。何より恐ろしいのは、そこに「コミュニケーション不全」に対する恐れが決定的に欠けていることだ。それゆえに、システムは大量の死者を生み出しつつ動き続け、誰にも止めることはできない。「最高指導者」でさえも。

 この物語がやっかいなのは、「民衆感覚」が確かに存在するように描かれていることだ。説明もなく、根拠も示されないが、超能力めいた「民衆感覚」が存在すると仮定しなければ、そもそもこの物語は成立しない。しかし、「民衆感覚」が存在するならば、なぜこのような悲劇が起こるのか。「民衆感覚」を持たない読者は、その課程をつぶさに読む必要があるのだろう。


 シャープでドライな筆致で描かれる、リアルな悪夢のような世界。初めて読んだ『ぬかるんでから』で、すっかり佐藤哲也のファンになったのだが、この作品も期待を裏切らないおもしろさだった。
『イラハイ』と『沢蟹まけると意志の力』は未読なので、ぜひとも復刊を望む。


6月27日(木)
 昨日の日記に書いた佐藤哲也『妻の帝国』と東浩紀『郵便的不安たち#』の「符号する点」というのは(正直なところ、「符号」という言葉は的確ではなかったと思うけど)、例えば「(前略)こういう状況だと逆に人々は、自分のところに届いた情報──デリダ的に言えば「手紙」──がどこから発せられたのか、配達の途中でどのように歪められたのか、また自分の投函した情報がどこに届くのか、そのようなことに非常に意識的たらざるをえない。つまり、九〇年代の文化消費者は、いつも郵便的不安に取り憑かれていると思うんです」(『郵便的不安たち#』収録「郵便的不安たち──『存在論的、郵便的』からより遠くへ」P.55)と東浩紀が指摘する状況と、ちょうど正反対の状況(「手紙」がどこから発せられたのか、配達の途中でどのように歪められたのか、また自分の投函した情報がどこに届くのか、そのようなことにまったく頓着しないがゆえに社会システムとして機能してしまっている)が『妻の帝国』の物語で展開されている点であるとか、あるいは『妻の帝国』のあとがきで著者が「影響を受けた先行作品」としてあげているソルジェニーツィン『収容所群島』を、東浩紀が「ソルジェニーツィン試論」で詳細に論じている点とか、まあ、たんなる思いつきで、まじめに検討しようとすると私の手には余りそうなんで、「併読するとおもしろいかもしれない」と言うにとどめておこう。というか、「ソルジェニーツィン試論」を除けば、むしろ読むべきなのは『存在論的、郵便的』なのではないかという気もするのだが。

6月26日(水)
 佐藤哲也『妻の帝国』の感想のネタに使えるかと思い、東浩紀『郵便的不安たち#』をぱらぱらと拾い読み。実をいえばハードカバー版は「III」と「IV」(文庫版の「3 サブカルチャー」と「4 エッセイ・書評」)の興味のあるところを拾い読みしただけで、文庫版も購入してからまったく目を通していなかったんだけど、予想以上に符合する点が多そう。あまりに安直なのでネタ元として使うかどうかはともかくとして、ちょっとまじめに読んでみようかと思った。

6月25日(火)
 佐藤哲也妻の帝国』読了。眠いのにやめられず、重い瞼をこすりながら最後まで勢いで読み終えてしまった。終盤はかなり雑な読み方をしていたという自覚があるので、詳細な感想を書く前にちょっと読み直したほうがいいかもしれない。とりあえず、非常におもしろかった。
『ぬかるんでから』のいくつかの短編でもそうだったんだけど、主人公の妻に佐藤亜紀の姿を重ねて見てしまうというのは下品な読み方だよな、と思いつつ完全に排除することができないのはやはり読者として未熟だからか。でも、ある程度、そういう読み方をされることを前提として意図的にやっている部分もあるように思えるんだけど、実際のところはどうなんだろう。

6月24日(月)
 日記としての形式をあからさまに無視しているような気もするけど、まあ、いいや。

 昨日、久しぶりにビデオで映画を鑑賞した。しかも、2本も。ちゃんと2本とも最後まで観たことに自分でも驚いた。
 どちらも、我ながら激しく今さらという気がしなくもない作品なのだが、私の場合、特に理由がなくても「観たい」と思ってから実際に観るまでに年単位の時間が経過することはざらだし、結局、そのまま忘れてしまうことも多いので、実際に観ただけましだといえる。

 ひとつはジョナサン・デミ監督『羊たちの沈黙』。『ハンニバル』は(映画館で)観ているのに、こちらは未見だった。さすがにおもしろかった。
 もうひとつは、三池崇史監督『DEAD OR ALIVE』。噂に聞く「衝撃のラスト」をようやく自分の目で確認できたので、それだけで満足。「
大森望が見てキネ旬ベスト10の一位にするためにある映画なんだから、見るように(指名)。大森がキネ旬ベスト10に投票する意味なんてそのくらいしかないだろ」という柳下毅一郎の発言を読んでいたせいか、まったく思いもよらないラストではなかったんだけど。続編も観ておくべきだろうか?

6月23日(日)
 佐藤哲也妻の帝国』購入。この作者の本を読むのは前作『ぬかるんでから』に続いて2冊目なんですが、シャープな文章が非常に心地よいです。
 所持金の都合で購入を先送りにしたフランシス・アイルズ被告の女性に関しては』は、表紙が意外にポップでびっくり。中表紙にはなぜか「恋愛小説」の4文字が。もしかしたら、結構、好みの作品なのではないかという予感がしているんですが。


 6月23日付けの日本経済新聞朝刊に高橋源一郎のインタビューが掲載されていた。それによると、岩波新書から『一億三千万人のための小説教室』というハウ・ツー本(?)が出ているらしい。しかし、記事中の内容紹介を読むと、武者小路実篤とか橋本治『桃尻語訳 枕草子』とか、既刊の文学エッセイのネタを使いまわしているっぽい(再録ではないのだろうけど)。
 それよりも注目したいのは、近く連載を開始するという「
米同時テロをテーマにした小説」。奇しくもデビュー作である『さようなら、ギャングたち』は、アメリカ大統領が爆弾で暗殺される場面から幕を開けるのだった。新作がどんな作品になるのかはまったく予想がつかないけど、もしかしたらこの書評がヒントになるのかもしれない。


ロバート・R・マキャモン(二宮 馨・訳)『遙か南へ』★★★★
 はずみで人を殺してしまった白血病に冒されているヴェトナム帰りの男。偶然の出会いから道連れとなる、顔の右半面を覆う痣のために辛苦に満ちた人生を送ってきた女。そして、男の首にかけられた賞金を目当てに男を追う2人の賞金稼ぎ。3本の腕を持ち、かつてはフリーク・ショーで見せ物として働いていた男と、プレスリーのそっくりさん。

 しかし、これはサスペンスに満ちた追跡劇ではない。マキャモンは(クーンツがワンシーン=一視点にこだわるのとは対照的に)、ワンシーンのなかで透明な話者が複数の登場人物の視点を自由に移動するという話法を用いるため、もともとサスペンスを演出するには向いていないのだ。物語の主眼も、端からそこにはない。
 マキャモンの作品の特徴を大雑把にまとめると、それは特殊な状況のなかでの「自己変革」の物語であるといえるだろうか。さまざまな装飾を取り払ってしまえば、そこに残るのはシンプルな「成長物語」だ。この作品も、例外ではない。物語の主眼は、おそらく主要な脇役3人のささやかな(しかし、決定的な)成長にある。物語の終わりで、彼らの成長とともに「世界」は少しだけまともになっているのだろう。

6月22日(土)
 久しぶりの更新。
 
追記:★の数を間違えていたので修正しました。他に、誤字、わかりづらい表現をいくつか修正。

法月綸太郎法月綸太郎の功績』★★★★
 以前にも何度か書いているが私は短編小説がどちらかというと苦手なんだけど、この作品集はなかなか楽しめた。というのも、最近、連続殺人を扱った長編小説にいささか食傷気味なのだ。たいてい、作者のもっとも自信のあるアイデア(トリックや解決編におけるロジック、あるいは殺害の動機など)は物語の最初の事件か、せいぜい2番目くらいの早い段階で起きる事件で使用され、それ以降の事件は蛇足というか、力の入り具合があきらかに落ちる場合が多く、それならいっそのこと削ってしまえばいいのに、と感じる作品が多すぎる。そんなわけで、物語の核となるアイデアを水増しせずに作品として結実させていることに好感を持ったのだと思う(何を今さら、と思うかもしれませんが)。特に後半の3作が良かった。
 しかし、法月綸太郎(作者)はなぜそんなに「
」という存在を恐れている(ように見える)のだろうか?

イコールYの悲劇
 姉夫妻の住むマンションで留守番をしていた妹が殺された。被害者は「=Y」というダイイング・メッセージを残していた。
 わりと普通の「ダイイング・メッセージもの」で、「=Y」の意味の解釈から犯人を推理→否定、という繰り返しで物語が構成されている。こういう作品の場合、真相云々よりもどれだけ多様な解釈を引き出せるかがポイントで、そういう意味ではなかなか楽しめる。真相である解釈も、伏線が巧妙で、なかなかよく考えられていると思った。

中国蝸牛の謎
 奇妙な「密室」を題材とした作品。その「奇妙さ」が必ずしもミステリ的な「ひねり」として有効に機能していないのが惜しまれる。というか、そもそも作中でベテラン作家が語る構想中の作品があまりおもしろそうに思えないのが致命的か。

都市伝説パズル
 日本推理作家協会賞受賞作。この作品のみ雑誌掲載時に既読。
 飲み会で訪れた友人宅に忘れ物をしてしまい、取りに戻ると、すでに友人は寝てしまったらしく明かりが消えている。ドアには鍵がかかっておらず、友人を起こさないよう手探りで忘れ物を回収して帰宅したのだが、翌日、友人は他殺死体となって発見され、壁には「電気をつけなくて命拾いしたな」というメッセージ残っていた。という都市伝説とまったく同じく状況で殺人事件が起こる。
 魅力的な状況設定と、その鮮やかな処理。うまいなぁ。
 唯一気になったのは、綸太郎のこしらえた「冷たい飲み物」って何だよ、ってことくらい。

ABCD包囲網
 真相があきらかな事件の「犯人」として「自首」を繰り返す男の真意とは?
 一風変わったミッシング・リンクもの。しかし、こちらは「中国蝸牛の謎」とは違って、その「奇妙さ」がきちんとミステリ的な「ひねり」として機能している。あとがきで触れられている我孫子武丸が指摘した点にかんしては、演出として問題のない範囲だと個人的には思う。逆に、必要以上に作品の図式を強調する構成には若干疑問を感じる。

縊心伝心
 ひとり暮らしのOLが不倫相手に自殺を予告する電話をかけた。男が女のマンションにかけつけると、女は部屋で首を吊っていた。しかし、死因は縊死ではなく後頭部にうけた打撲だった。
 この作品も冒頭の状況設定が魅力的。さらに、ホットカーペットのスイッチの謎を起点として構築されるロジックが鮮やか。

6月17日(月)
 マキャモンはやっぱりおもしろいなぁ。

 なぜマキャモンを読まなくなったのかというと、これといった明確な理由はなくて、決して最後に読んだ『マイン』がつまらなかったわけではなく、むしろ非常におもしろかったんだけど、個人的にノスタルジックな「少年時代の回顧もの」が苦手ということもあって(ちなみにキングの『スタンド・バイ・ミー』も未読。『ゴールデン・ボーイ』は読んだけど)、次に出た『少年時代』を何となく読みそびれているうちに、ジャンル的な興味の対象が他にうつってしまったのだった。
 あと、私がわりと偏狭なジャンル読者だったということもあって、あからさまに「ホラー」から離れていったことに反感を覚えたという理由もあったのかもしれない。

 では、今は偏狭なジャンル読者でないのかというと、私の読書傾向をご覧いただければ明白なように、あまり昔と変わっていないんだよなぁ。

6月16日(日)
 高橋源一郎優雅で感傷的な日本野球』を読む。かつて、この作品の固有名詞の頻出ぶりをさして「内輪の言葉」で書かれているという批判があったけど(批判した人物は失念)、野球にまったく興味がなく、ほとんどの固有名詞を知らない私が読んでも充分おもしろいんだけどね。
 現在は、ロバート・R・マキャモン遙か南へ』を読書中。


 ポール・アルテ『第四の扉』の感想をアップ。今さら書くことがなくて非常に困った。


ポール・アルテ平岡 敦・訳)『第四の扉』★★★
 別にこの作品に限った話ではないのであえて文句をつけるのも野暮かとは思うのだが、いかにもトリックがありますと公言しているような恣意的な手順を経て「不可解な現象」を起こして見せられたところで、個人的にはそれほどおもしろいとは思えない。これは最近読んだ林泰広『The Unseen 見せない精霊』にも同じことを感じたんだけど、トリックを成立させる条件があることは当然としても、その条件を成立させるための手順が作為的だと読者に感じさせてしまうのは、「謎」の演出としては失敗なのではないかと思う。もっとも、ポール・アルテの場合は、単に「交霊会」というガジェットを物語に導入したかっただけ、という気もするので、「密室殺人」の不可能性というのは、はじめから二の次だったのかもしれない。事件もこれひとつというわけじゃないし。

 結末近くの趣向にかんしては、やはりちょっとばかり無理があると感じた。こういう趣向を自然な形で作品として成立させるのは、やはり難しいのかな。

 それにしても、この短さでなお、まだ物語的に余剰部分があるというのは驚異的だと思う(例えば、
エリザベスはいなくても物語に影響ない)。
 現時点で発表されている長編は26作ということで、中には好みにあうものもありそうなので、今後も邦訳されれば読むつもり。しかし、この多作ぶりを見ると、第1期新本格作家たちに爪の垢でも煎じて飲ませたいところ。

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