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■2002年6月1日〜6月15日


6月15日(土)
殊能将之樒/榁』★★★
 先日の日記で「
『鏡の中は日曜日』より、こちらのほうが好き」と書いたのは、作者の狙いと、その結果としてできあがった作品のあいだに、それほど齟齬がないと感じるからで、『鏡の中は日曜日』は個人的にはもっと注力する余地があると感じる(言い換えれば、適当なところで「妥協」している。あるいは、そもそも作者の力量が不足している)作品だったのに対して、この『樒/榁』は、この作者の持ち味である力の抜け具合が物語内容と程良く一致しており、違和感なく楽しめたというのがその理由だと思う。タイトルをまっさきに思いついたんだろうなぁ、と思わせる、そのまま「密室」の2文字をあからさまに含んだタイトルは、「これはギャグですよ」とあらかじめ宣言しているかのようだ。
 今回、感想を書くにあたって、久しぶりに「ユリイカ」(1999年12月号)の「ミステリ・ルネッサンス」特集に掲載されたインタビューを読み返したんだけど、ここで殊能将之は自分のことを「
火星文学翻訳家」と冗談まじりに称している。

 
つまり、思いついたのは「殺人鬼探偵」というシチュエーションだったんです。「ハサミ男」というタイトルが、一番最初に頭の中で決まっていたんです。それで考えたんです、「ハサミ男」って何だ、と。

 だから、全くわからないわけです、ハサミ男が何なのか。だから結局、作業としては翻訳に近い。つまり、『ハサミ男』という小説は何処かにあったわけです。例えば、火星にある。
(P.144〜145/殊能将之の発言のみを抜粋)

 殊能将之の作品は、『ハサミ男』『黒い仏』『樒/榁』が前述の「火星文学」翻訳もの、『美濃牛』『鏡の中は日曜日』が先行作品へのオマージュもの、という感じで2系統に分類できるのかもしれない。まあ、むちゃくちゃ乱暴な分類だけど。ただ、私が殊能将之の作品で好きなのは、「火星文学」翻訳ものである(と私が勝手に分類したところの)3作なんだよなぁ。

6月13日(木)
 法月綸太郎法月綸太郎の功績』読了。趣向をこらしながらもパズラーであることにこだわった粒ぞろいの短編集。例え長編が出なくても、このクオリティの短編をコンスタントに発表してくれるなら、それはそれでいいかな、と思わせる。いや、よくないか。
 詳細な感想は後日。

6月11日(火)
 殊能将之樒/榁』読了。『鏡の中は日曜日』より、こちらのほうが好き。


 昨日の日記に書いた日経の記事にかんする話題は、そもそも「哲学往復書簡2002」第7回で東浩紀が書いている「郊外」にかんする記述を読んで覚えた違和感について書くための前ふりのつもりだったのだ。途中であまりに眠くて寝てしまったんだけど。

 東浩紀は「郊外」について次のように語っている。

 
溝口や新百合ヶ丘で「本」と言えば、まず第一に、郊外型書店に山積みされたベストセラーかマニュアル本、それにゲームノベルの類でした。

 コンビニとケータイとネットとJポップしかない九〇年代末の荒れ果てた郊外に住んでいたぼくにしてみれば、
(後略)

 
文化のデータベース化、主体の動物化、インターネット的なるものの台頭による物語性の凋落、いずれにしても、それらがまず顕在化したのは、東京の私鉄沿線の郊外においてだったのだと、いまなら漠然と分かります。そしてぼくは、実のところ、デビューのときから、一貫してその「郊外」の殺伐とした感覚を出発点に批評を書き続けてきたように思うのです。

 間違ったことを書いているとは思わないけど、どうも必要以上に「郊外」を神秘的に書き立てているように感じられる。「
「本」と言えば、まず第一に、郊外型書店に山積みされたベストセラーかマニュアル本、それにゲームノベルの類」なのは別に郊外型の書店に限った話ではないし、たとえば都心部のオフィス街の書店であればそれらがビジネス書にとって変わられるだけのことだ。「コンビニとケータイとネットとJポップしかない」のも別に「郊外」の特権とも思えないし、「文化のデータベース化、主体の動物化、インターネット的なるものの台頭による物語性の凋落、いずれにしても、それらがまず顕在化したのは、東京の私鉄沿線の郊外においてだったのだと、いまなら漠然と分かります」に至っては、文意は理解できるんだけど、結局、何が言いたいのかよくわからない。自分が育った場所が良くも悪くも「時代の先端」だったということ?

 
ぼくは、物心ついたときからずっと私鉄沿線の郊外に住み続けてきました。

 結局、東浩紀が書いているのは「郊外育ちの、郊外育ちによる、郊外育ちのための批評」だという告白なのだろうか?

『動物化するポストモダン』は未読なんで、何か根本的に誤解しているのかもしれないけど。

6月10日(月)
 昨日の日記でふれた高橋源一郎『ジョン・レノン対火星人』に挿入されているイラスト。これのどこが『暗闇の中で子供』のイラストと似ていると思ったのか我ながら謎だ。


 講談社ノベルスの新刊は殊能将之『樒/榁』と法月綸太郎『法月綸太郎の功績』を購入。


 6月8日付け日本経済新聞の文化欄に、「小説で迫る“郊外の歪み”」と題された記事が掲載されていて、歌野晶午『世界の終わり、あるいは始まり』や津原泰水『少年トレチア』、純文学作家としては島田雅彦(まあ、これは当然か)などが取り上げられている。
 文学的な概念のなかでもとりわけ「トポス」というのは私が感覚的に理解できないもののひとつで、この記事にしたところで、「郊外の歪み」などと意味ありげにいわれても、ぴんとこないというのが正直なところ。というか、(私が読んでいる)『世界の終わり、あるいは始まり』と『少年トレチア』に限っても、その舞台設定を「郊外」の一言でくくってしまうのはあまりにも乱暴に思えるんだけど……。

6月9日(日)
 実家の押入にしまってある文庫本をつめた段ボールをあさって、高橋源一郎の本を中心に持ち帰ってきた。というわけで、読みかけの本を一時休止して、久しぶりに『ジョン・レノン対火星人』と『虹の彼方に』を読む。

 ところで、先日、「
舞城王太郎『暗闇の中で子供』に挿入されているイラストって、『ジョン・レノン対火星人』の拘束着のイラストを意識している」と書いたけれど、改めて見直してみると、「へたくそなイラスト」であるという以外の共通点は特に見られなかった。どうやら完全な思い違いだったらしい。とりあえず、元の発言には打ち消し線を入れ、発言を撤回させていただく。申し訳ありませんでした。

 さて、『ジョン・レノン対火星人』だが、やはりこの作品が高橋源一郎のベストであるという意見に変わりはない。頭の中に「死躰」が取りついた「すばらしい日本の戦争」。彼を救おうとするポルノ作家の「わたし」と、「わたし」と暮らす「パパゲーノ」、横浜福富町のトルコ「ハリウッド」のNo.1ホステス「テータム・オニール」と、同じく「ハリウッド」のホステスである「石野真子」ちゃん、片方の足の運動機能が損なわれている人である「ヘーゲルの大論理学」の5人。「テータム・オニール」の「愛のレッスン」で少しずつ正気を取り戻す「すばらしい日本の戦争」だったが、正気になればなるほど、頭の中の「死躰」がもたらす苦痛は増し続ける。そして、「わたし」は最後の手段をとることを決意する。

 泣ける。もう、何回読み返したかわからないくらい読み返しているんだけれども、本当にこの小説は何回読んでも泣ける。そろそろどこかの出版社が復刊してくれてもいいのに。

 一方の『虹の彼方に』。これは、たぶん、今回読み直すのが3回目くらいだと思うんだけど、やっぱり全然おもしろくない。私見では、高橋源一郎が書いた小説の中ではもっともつまらない作品だと思う。いろいろと趣向はこらしてあるものの、どれもこれも空回りしている。もし私がこの小説を一番最初に読んでいたとしたら、恐らく他の作品は読まなかっただろうと思う。というわけで、これはまったくお薦めしない。

6月8日(土)
 第15回三島由紀夫賞の選評が新潮社のサイトで読めるようになりました。予想通りというか、福田和也が推した作品は舞城王太郎「熊の場所」だったようです。

6月7日(木)
 あ、説明不足だったようですね……。
 ネタの解説というのも気恥ずかしいですが、「私が書きたかったこと」を説明させていただきます。
 え〜と、私の意図としては、リボルバーに一発だけ実弾を入れて引き金を引く、いわゆる「ロシアン・ルーレット」そのもののことではなくて、父親である男が仕掛けた数々の「確率的に死をもたらす罠」(具体的には何も考えていないんですが)によって子供たちが次々と死んでいく、という状況を「ロシアン・ルーレット」になぞらえてみたつもりだったんですが、確かにあの文章からそれを読み取ることができるのはテレパシー能力を持つ超能力者くらいのものでしょう。申し訳ありません。


 ポール・アルテ第四の扉』はちょっと前に読了したんですが、あらかじめWeb上でいろいろな方の評価を読んで妄想がふくらみ過剰な期待をしていたせいか、どうもぴんとこなかったというのが正直なところ。というか、最近になって、もしかしたら自分はガジェットそのものにはあまり興味がないのではないかという疑念を抱きはじめているんですが、まあ、それはいいとして(よくない?)、ここで思いきって告白しておくと、私はカーの作品を1冊も読んだことがありません。読まなくては、とは昔から思っているんですけど
 あ、石を投げないで。

 そんな私が感想を書いたところで説得力がないだろうな。まあ、一応、後日アップするつもりです。

 恥かきついでにもうひとつ告白しておきます(全然、関係のない話なんですが)。
 実は私、村上春樹の作品も読んだことがありません。うわあ、書いちゃった。

6月5日(水)
ペインキラーRD」の6月3日のお題に回答してみる。

ロシア・ルーレットの謎
 幸運により一夜にして財を成し、アメリカでも指折りの金持ちに成り上がった男。彼には3人の妻とのあいだにもうけた6人の子供たちがいた。ある日、彼は6人を集めてこう告げる。
「わたしの子供のなかで、もっとも強運の持ち主を後継者とする」
 ……次々と不可解な死をとげる後継者候補たち。事件の裏にひそむ、恐るべき計画とは?
 ボツになった理由。タイトルを見た瞬間にネタがわかってしまうから。
 ちなみに、6人が全員死んだあとにあらわれて後継者におさまるのは妾腹の息子だというオチ。途中で金持ちの男自身が自爆してしまうというのもありがちだな。
 ていうか、実際にこういう話ってあったりします?
(6/7追記:意図するところがわかりづらいようなので、解説してみましたこちら

ドイツ金属の謎
 なぜジャーマン・メタルはどれもこれも似かよっているのかという禁断の謎に、エラリーの孫が挑む。
「じっちゃんの名にかけて!」
「それ、違う名探偵の孫だよ」
「ブラジルとかオランダとかフィンランドのバンドなのにジャーマン・メタルってどういうわけだ!」
「いや、誰もそこまでは言ってないって」
 ボツになった理由。わけがわからないから。ていうか、最近もそうなのかは全然知りません。
 ちなみに犯人は和田誠(イラストレーターではないほう)。
 わかりづらいネタでごめんなさい。

6月3日(月)
ルパート・トムソン雨海弘美・訳)『ソフト』★★★
 かつてクラブの用心棒として働いていたバーカーのもとに、用心棒時代の仲間が仕事の話を持ち込んでくる。それは、1人の女を殺せという依頼だった。話を聞いてしまった以上、断ればバーカー自身が殺されることになる。
 ウェイトレスのグレイドは、アメリカ人で弁護士の恋人に誘われて出席することになった結婚式に着ていくドレスの購入資金を入手するため、新聞広告に掲載されていた高収入のアルバイトに申し込む。それは、「48時間の睡眠リサーチ」というもので、病院のベッドでただ眠っているだけでドレスを買うための資金を手に入れたグレイドは、恋人の待つアメリカへ向かう。ときどき、聞いたこともないのになぜか名前を知っているソフトドリンクが無性に飲みたくなる以外は、おかしなことなど何もなかった。
 清涼飲料水メーカーに勤務するジミーは、新製品〈Kwench!〉を売るための計画を考案する。それは、前例のない手段だったが、結果的に〈Kwench!〉は爆発的に売れることになった。
 しかし、すでに歯車は狂いはじめていた。

 訳者あとがきにも書かれているように、映像化するとおもしろそう。ビジュアル・イメージは鮮烈だし、登場人物たちも魅力的だし、物語としてはシンプルでわかりやすい。だからといって、小説として見るべきところがないかといえばそんなことはなくて、ひと続きの場面のなかで継ぎ目なく現実と回想シーンを往還するテクニックは的確で、特に冒頭のバスのシーンは素晴らしい。

 では、何が不満だったのかというと、もう、これは完全に個人的な趣味の問題なんだけど、回避可能であるにもかかわらず、それをあえて回避しないがために「悲劇」として成立してしまう物語である、という一点に尽きる。そのせいで、何となく作者の恣意的な意図を感じてしまうのだ。

6月2日(日)
 高橋源一郎の書く奇妙な「死」。『君が代は千代に八千代に』の感想を書きながら(特に「Mother Father Brother Sister」)、私は『さようなら、ギャングたち』で書かれた「死」を思い出していた。

 
役所はわたしたちが死ぬ日を正確に知っていて、その期日をハガキで通知する。
 20歳以上の者には本人、20歳未満と禁治産者にはその保護者にハガキを送る。
(講談社文芸文庫/以下略・P.88)

 この世界では、「死」は予告される。しかし、それは現実の死の唐突さと異なるものではない。予告されようとも、それが唐突であることは変わりないのだから。

 それだけではない。

 
子供の死躰があまり重いので、途中で、歩かせる親もいるのだ。(P.99)

 さらに。

「幼児用墓地」の死躰を収容する棚に娘の躰をおさめた「わたし」は、棚の前にじっと立っていた。

「ダディ? そこにいるの?」
 棚の中からキャラウェイが言った。
「いるよ、キャラウェイ」
「帰ってもいいよ、ダディ」
 わたしは立っていた。
(P.109)

 死んだあとも、死者は言葉を発することができるし、歩くこともできる。それは「死」とはいえないのではないだろうか?

 それでも、ここで書かれているのは間違いなく「死」そのものだ。それは、その世界における形式としての「死」が書かれているから、という意味ではない。現実の死とは様相こそ違うものの、避けようのない永遠の別離、生者にとっての喪失であることには変わりないのだから。

 いや、まあ、こんなことはさんざん言い尽くされているとは思うんだけど。

 一時期、高橋源一郎の小説とエッセイばかりを繰り返し読んでいた時期があって、そのころの熱病のような感覚が最近またよみがえってきている。で、もっとも偏愛している『ジョン・レノン対火星人』を読み直したいのだが、見つからなくて途方に暮れている(まったくの余談だが、舞城王太郎『暗闇の中で子供』に挿入されているイラストって、『ジョン・レノン対火星人』の拘束着のイラストを意識していると思ったのは私だけだろうか?)。

 おまけリンク。「think or die」の「ブンガクとの接近遭遇」。

6月1日(土)
 懸案の三島賞・選考委員の件ですが、ようやく確認がとれました。第1回の選考委員は、江藤淳・大江健三郎・筒井康隆・中上健次・宮本輝の5名でした(naubooさんにご指摘いただいたとおりだったわけですが、19日の日記に書いたとおり、文章の責任を明確にするために、私自身が調べたうえで明記するという手続きをふませていただきました)。

 で、せっかく調べたので、こんなものを作ってみました。選考委員と候補作、というのは私が調べた範囲ではまとまった情報がなかったので、いつか誰かの役に立
つこともあるでしょう。


 もうひとつの懸案だった高橋源一郎君が代は千代に八千代に』収録作の残りの感想(ではないものもありますが)を追加しました

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