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■2002年7月1日〜7月15日


7月15日(月)
 今週は、Macユーザーのお祭り「Macworld EXPO NewYork 2002」(メインイベントであるスティーヴ・ジョブズによる基調講演は日本時間7/17の22:00から)と、チュンソフト『かまいたちの夜2』の発売(7/18)があって、どちらも非常に楽しみ〜。


倉知淳まほろ市の殺人 春 無節操な死人』★★★
 う〜ん。悪くはないけど、良くもない。
 ミステリとしての「謎」の処理にかんしていえば、真相を構成する情報を単に分断しているだけ、という印象で、物理的な現象としての真相はわりと早い段階で見当がつく。だから、分断された情報に対して作者が「謎」という形で別の意味づけを与えようとすればするほど、読んでいるほうは白けてしまう。

 あまりに投げやりな解決編は、「
ここまでやったのだから後は誰かに任せて楽をしたい」という言葉が作者自身のこの作品に対する姿勢だと考えれば納得がいく。もしかしたら、作中ではあきらかにされない真犯人を読者が推理できるように書かれているのかもしれない、とも思ったのだが、それはさすがに考えすぎだろうな。

7月14日(日)
「幻想都市の四季」(「まほろ市の殺人」)4冊を読了。まとめて感想を書く必要はなさそうなので、追って1冊分ずつアップします。ベストはやはり麻耶雄嵩『闇雲A子と憂鬱刑事』。


歌野晶午館という名の楽園で』★★★
 どうも歌野晶午というのは奇妙な作家で、特に近年の作品の傾向として、構造はやたらと技巧的になる一方で、語られる物語は驚くほどストレートでわかりやすい、という印象がある。前者はつまり作家としての成長の結果であると理解しているんだけど、実際、語る技術にかんしては新本格第一期生の他の作家と比較しても遜色ないし、むしろ長けている部分もあると思う。スタート地点での技術が未熟だったのは確かだが、もはやその点にかんしての問題はとっくに解消されている。
 では、内容にかんしてはどうかといえば、表面的な装飾はともかくとして、実質的には、ほとんど変わっていないのではないかと思う。素朴というか純心というか、非常に素直でまっすぐ。いや、こんなことを書くと馬鹿にしていると思われるかもしれないが、そうではない。このアンバランスな成長ぶりが、歌野晶午の持ち味だと個人的には思っている。

 その意味で、この『館という名の楽園で』は、そんな歌野晶午の現在の立ち位置を明確にあらわしている作品なのではないかと思う。メタな「館もの」で、「ごっこ」としての「殺人」を題材とした物語なのだが、そこには同種の作品にありがちな冷笑的、あるいは自嘲的な屈折した語り口はほとんどない。
 登場人物の1人が「
馬鹿馬鹿しい」(P.71)と口にするが、作者は「馬鹿馬鹿しい」ことを全面的に肯定する。いや、それは何も歌野晶午に限った話ではないと思うかもしれない。しかし、他の作家たちは、「馬鹿馬鹿しい」ことを自覚し、その「馬鹿馬鹿しい」ところが良いんだ、と口にしながらも、その「馬鹿馬鹿しい」ことが何かもっと別のものにつながっていることを期待しているように見えるのだ。それは、「どんどん橋、落ちた」のような作品を書いた綾辻行人ですら例外ではない。
 ある種の「愚直さ」というのは、間違いなく作家としての才能であると思うのだ。

 とはいえ、この作品にかんしていえば、トリックの実現性に疑問を感じたのでこの点数。納得いかん!

 ところで、いいかげん新刊の感想を書くたびに昔のことを持ち出すのはやめようと思っているんだけど、また書いてしまった。次からは自重しようと思う。

7月11日(木)
 フォークナー『八月の光』はまだ半分くらい。おもしろいんだけど、最近、通勤時間しか本を読まないので、なかなか進まない。読了までのあいだ、まったく本の感想をアップできないのもまずいかと思い、未読の祥伝社400円文庫に手をつける(どれも分量が少ないし)。購入しているのは〈まほろ市の殺人〉の4冊と、歌野晶午。
 まずは歌野晶午『館という名の楽園で』を読了。といいつつも感想は後日。〈まほろ市の殺人〉のほうは、4冊読了後にまとめて感想を書くつもり。

 そういえば、歌野晶午の400円文庫の既刊『生存者、一名』は発売直後に読んでいるのに日記ではまったくふれていなかったことにいま気づいた。なぜだろう?
 あやふやな記憶で『生存者、一名』の印象を書き記してみれば、物語そのものはともかくとして、文章や台詞まわしに、次第に薄れてきたと思っていた独特の「素人臭さ」が強く出ており、あまり楽しめなかった覚えがある。もっとも、そのへんは歌野晶午の持ち味ともいえるわけで、例えば、私が★4つをつけた『世界の終わり、あるいは始まり』にしても、エピグラムや作中のギリシャ神話の扱い方はあからさまに「素人臭い」。何というか、作家としてあまりに素直すぎる気がするんだよな……。

7月10日(水)
 昨日の日記で曜日を間違えていたので訂正しました。

7月9日(火)
 リチャード・ブローティガンの詩集を3冊購入。『突然訪れた天使の日』と『ロンメル進軍』と『東京日記』。小説も読みたいので(特に『西瓜糖の日々』)、今度、図書館で借りてこようと思っている。ちなみに、『ロンメル進軍』は高橋源一郎の訳。
 まったくの余談だけど、私も最初はブローィガンだと思っていた。みんな気をつけよう!


 古谷実ヒミズ』4巻。完結。うわあ、これはすごい。傑作だと思う。
 3巻を読んだ時に書いたように、私はずっとこの物語を、救済も破滅も迂回し、中途半端な閉塞感にとらわれ続けることの息苦しさみたいなものを描いた作品だと思っていた。でも、それは大間違い。最終話の衝撃はかなり強烈。(
ネタバレなので文字の色を変えます→主人公はとっくに破滅しており、救済などが入り込む余地などなかったのだ。
 やはり3巻を読んだ時に、私は「
どうやって結末をつけるんだろう」と書いたけど、読み終えてみれば、これしかないと思える結末だった。とりあえず、1〜3巻を探して読み直そう。

7月8日(月)
 感想、というか、思いつきのメモのような状態ですが、とりあえず以下の文章をアップします。しかも、ネタバレあり。すみません。

フランシス・アイルズ白須清美・訳)『被告の女性に関しては』★★★★
 肺の病を患い、医師のもとで療養することになった青年アランは、医師の妻イヴリンにひかれ、関係を持つに至るが、やがてその禁じられた関係に決定的な破局が訪れる……という筋書きはいかにも通俗的な姦通小説である。そして、この物語は薄っぺらな「通俗的な姦通小説」以外の何ものでもない。

※以下、ネタバレのため文字の色を変えます。引用部分は、全部色を変えてしまうと区別しづらくなるので、文頭と文末のみ残してあります。

 アランはといえば、話(とりわけ、理解されていない妻の話)というものはそれ自体が目的であって、何か別の目的につながるものではないことを理解していなかった。きわめて単純な精神をもつ若者として、彼は人の話には明確な意味や動機があって、その最終目的は行動だと考えていた。(P.277)

 
アランは、イヴリンの言葉から彼女の「真意」を読みとろうとする。しかし、そこには隠された「真意」などかけらもないことにアランは最後まで気づかない。イヴリンの言動はきわめて薄っぺらであるにもかかわらず、そこに奥行きのある人間的な内面を見ているのはアランの錯覚にほかならない。

 また、アランが女装することに激しい抵抗を覚えるのは、自身が抱いている「男性性」の概念に縛られているからだ。その「男性性」という概念も、所詮は制度的なものに過ぎないのだから、自明のものとしてアランが見ているのはやはり錯覚なのだ。

 さらに終盤の逃走劇において、やはりアランは存在しないものを存在しているかのように錯覚する。アランは常に、世界のそのまま見ずに、自分の価値観のフィルタを通して歪んだ世界を見続けている。

 私たち読者は、この薄っぺらな姦通小説に奥行きがあると錯覚し、そこに「謎」が隠されていると思い込む。アランがイヴリンの言動の裏に「真意」があると思い込んでいたように。
 しかし、そのために作者は、特別な策を弄する必要もない。きわめて通俗的な姦通小説が、そのままで読者の錯覚により「ミステリ」として読まれるであろうことを作者は知っていたに違いない。


7月7日(日)
高橋源一郎一億三千万人のための小説教室』★★★★
 この本は、タイトルのとおり小説の書き方(そして、読み方)のハウ・ツー本であると同時に、高橋源一郎作品の自作解説でもあり、また、小説への愛をつづったラブレターでもあり、「小説」を求めて著者と読者が旅する冒険物語(の序章)でもある。

 わたしの考えでは、小説とは何か、を考える、いちばんいいやり方は、
 「小説を書いてみる」
──というものです。
(P.4)

 複雑に見えるけど、実はものすごくシンプルで、ひねくれているように見えるけど、実はものすごくストレート。なにかに対する「愛」とはそういうものだ、といってしまえばそれまでだけど、読者としては正直なところ、そのあまりのまじめさにひいてしまい、素直に読めない部分もある。残念だけど。

 高橋源一郎は本気だ。いつになく本気だ。いや、いつだって本気なんだろうけど、高橋源一郎はこの本がきっかけで未来の「小説家」が誕生することを信じている。タイトルにある「一億三千万人」というのは、「日本語の小説を読む/書くことのできるすべての人たち」という意味だ。

 こういう感想文を書いているということは、私が『一億三千万人のための小説教室』という小説を読むことを失敗したという告白にほかならない。この本を読んだ私が書くべきなのは、「感想」ではなく「小説」であるはずなのだ。最初にこの本を読み、冒頭の一文を書いて行き詰まり、もう一度、読み直してから、続きを書いた。しかし、私はまだこの文章を書くべきではなかったのだ。それだけはわかっている。

7月6日(土)
 樋口さんの「祥伝社の400円文庫は本当にお得なのか?」。さまざまな作品の原稿用紙換算100枚あたりの価格を算出して、「祥伝社の400円文庫は必ずしもお得ではなく、むしろ高額商品である」ことを証明しています。エンターテインメント系の作品は、文庫やノベルズの場合、だいたい原稿用紙100枚あたり100円台前半が相場であることがわかります。梅津裕一『アザゼルの鎖』は不当に安いですね。逆に、殊能将之『樒/榁』は、あちこちで「高い」と言われていましたが、実際、ハードカバーである鳥飼否宇『非在』と同レベルのコストパフォーマンスということで、確かにノベルズとしては非常に「高い」商品だというのが数字として確認できます。

 ところで、某氏が蓮實重彦の『絶対文藝時評宣言』を思い出したと書かれていますが、私も同じことを考えて読み返してみました。『絶対文藝時評宣言』は、原稿用紙換算ではなく、単純にページあたりの単価を算出しているのですが、芥川賞と三島賞が、それぞれ7円台の作家と4円台の作家の賞であるという驚くべき事実をあきらかにしており、今読んでもなかなか刺激的です(まあ、「
『追い風』は、いま、三島賞に向かって吹いており」(P.12)などという、今となってはあまりに楽観的だと思える記述もありますけど)。
7/7追記:上記の言及先の文章は基本的に消去されてしまうものだということなので、リンクをはずしました。

 ちなみに、蓮實重彦に7円台作家のさらに上を目指すよう鼓舞されていた高橋源一郎の現状はというと、『官能小説家』が438ページで1800円なので1ページあたり約4.1円、『君が代は千代に八千代に』が261ページで1667円なので1ページあたり約6.4円、『一億三千万人のための小説教室』が183ページで700円なので1ページあたり約3.8円になっています。ダメじゃん。



 話は変わって。
 7/4の日記でフォークナーの作品をなぜ今になって手に取ったのか自分でもよくわからない、と書いたんですが、恐らく、以前にスズキトモユさんの、舞城王太郎作品が中上健次の紀州サーガを思わせるという指摘(これには「なるほど」と納得しました。私は『枯木灘』しか読んでいないんですけど)が頭にあって、フォークナー→中上健次→舞城王太郎という繋がりを考えたのかな、と後になって思い至りました。フォークナーは、ヨクナパトーファ郡という架空の地域を舞台に設定した「ヨクナパトーファ譚(サーガ)」と呼ばれる作品群を書いているようです(恥ずかしながら、『八月の光』の解説を読んで初めて知りました。本編はまだ200ページくらいしか読み進んでいません)。ただ、これは漠然とした印象なんですが、フォークナーの場合、血族の物語というよりは、どちらかというとスティーヴン・キングのキャッスルロックのようなものなのかな、という気がしています(というか、キングがフォークナーの手法を踏襲したのか?)。
 あと、私は舞城王太郎「熊の場所」を読んでいないので判断できないのですが、フォークナーには『』という短編集があり、これも何か関係があるのかな、と思っているのですが。とりあえず、追ってチェックするつもりです。

7月4日(木)
 フランシス・アイルズ被告の女性に関しては』読了。きわめて薄っぺらな恋愛(姦通)小説で、その薄っぺらなところが非常におもしろかった。個人的には『殺意』よりも、こちらのほうが好き(『レディに捧げる殺人物語』がベストなのは変わらず)。後日、改めて感想をアップする予定。


 現在、フォークナー『八月の光』を読書中。柄谷行人が中上健次にフォークナーを読むように勧めた、という話を何年か前にどこかで読んで、ちょっと興味をひかれたんだけど、例によって読みそびれていた。それが、なぜ今になって手に取ったのかは自分でもよくわからない。いや、別に私は中上健次のファンだというわけではないんだけど(『枯木灘』しか読んだことがないし)。

7月2日(火)
 フランシス・アイルズ被告の女性に関しては』をようやく読みはじめる。主人公であるアランの自意識過剰ぶり、その言動のイタさは、とても他人ごととは思えない……。
 ところで、表紙の女性はイラストだと思ってたら、立体なんだ。いま、気づいた。


 沙村広明おひっこし』を読む。「
もうヴェノムのカバーは……卒業という事で」(P.10)でいきなりツボを突かれた。おもしろい。というか好きだ〜。
 相変わらず絵もうまいし。いや、私が描けるようになりたかったのって、たぶん、こういう絵だったんだよなぁ、という極めて個人的な感慨もあったりするんですが。

7月1日(月)
 愛用しているメーラーの「ARENA Internet Mailer」が開発停止。OS 9版とOS X版でデータが共有できるので、両OSを行き来している現状では非常に重宝していたんですが。
 まあ、機能的には現時点でも充分満足しているので、バージョンアップされないとしても当面は問題はないんですけど、やはり残念です。


 高橋源一郎が「週刊朝日」誌上で連載していたコラムをまとめた『いざとなりゃ本ぐらい読むわよ』『退屈な読書』『もっとも危険な読書』で取り上げられている本の一覧 (Soft You Now)。これは非常に便利です。


 そのページからリンクがはられていた高橋源一郎と関川夏央の対談で、ウェブ上の書評にかんする批判的な発言があります。う〜ん。これって完全に的はずれとはいわないまでも、単なるイメージ批評にすぎない気がするんですけど。自分のことを棚にあげていわせてもらえば、そもそも、紙媒体の書評でも「
空疎な『自己表現』」(関川夏央)でしかないものは少なくないと思います。
 具体的にいえば、高橋源一郎『文学なんてこわくない』に収録されている「『恋愛太平記』はバカでも読めるか?」にかんして(実際には「小説トリッパー」掲載時の話なんですが)、金井美恵子は「群像」1996年1月号掲載の座談会で、「
あの中で、『恋愛太平記』に十行くらい触れてくださった回で、小説を何で書けないのかみたいなことをちらっとお書きになっていましたね」(P.344)と発言しています。表題に書名を含んでいることからもあきらかなように、連載1回分をまるまる『恋愛太平記』1作にあてているにもかかわらず、「十行くらい触れてくださった回」と言っているのです。これは、高橋源一郎が『恋愛太平記』をだしにして、自分が語りたいことを語っているに過ぎない、と感じた金井美恵子の皮肉なのでしょう(いかにもこの作家らしい皮肉です)。
 これも、見ようによっては「
空疎な『自己表現』」としての書評だと思います。もちろん、だからといって、「『恋愛太平記』はバカでも読めるか?」に読む価値がないかといえばそんなことはなくて、少なくとも私にとっては価値があると断言できます。
 とはいえ、高橋源一郎のような書くことのいかがわしさに敏感な作家でさえ、そういう隙のある文章を書いてしまうということは、私自身が本の感想を書くうえで、よくよく肝に銘じておく必要があるのかもしれません。

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