<アルケミスト(錬金術師):パウロ・コエーリョ> 

本の紹介:ブラジルの有名作家(山川さんの訳)


 <読んだきっかけ>:11月20日:<本人とこの本との関わり>

かれのデビュー作 「星の巡礼」を読んだ後で、家の前の古本屋さんで見つけた。短い本なのですぐ読める。作者、パウロ関連の掲示板(日本語)で見るところによると、少年少女文庫としては有名なようである。中でも、登校拒否の子供を持つ親が、「先生に勧められて子供に買い与えている内に、自分が夢中になってしまった。」という感想文が記憶に新しい。文章表現として記憶に残る点、共感できる言葉には、次の台詞がある。

@ 「マクトゥーブ」: 「それは書かれている」、と言うような意味さ、との台詞もある。私なりに訳すと、「人生どう転んでもなるようになる。」としたい。「だから言わないこっちゃ無い!」と訳すと物語は終わってしまう。教育的ではなくなる。テレビの土曜ワイド劇場でおなじみの、山村美沙さんの小説の中に、「証明せられたり。」なんていう台詞があるけど、この訳も結構良い線を行っている。

A 「レバンタール」: 巻き舌で、「レェレェヴァン、、、」と発音していただきたい。北海道の利尻・礼文という離島を発音するときに、Rで始まる発音が、地名以上の感慨を多くの日本人にもたらすことは否定できないと思う。そう言えば、ロマンという言葉もRで始まってい。地中海の東風を言う。レバントから東風に乗ってムーア人がやって来た事に由来する。日本で言うなら、蒸気船、黒船とでも訳すと良いかも。しかし、私の心には、「南風」と題する絵画を思い出す。いずれにせよ、風に名前を付けるところが面白い。サハ砂漠を吹く風をシロッコと呼び、中国大陸から冬になるとやってくる、「黄砂」よりも響きがよい。工藤静香が「黄砂に吹かれて」、と流行歌を歌うまでは、日本では単にゴミとしか思われていなかった現象である。Marco。さんの過去の経験としては、ジブルタを越えて、アヘシスの港から、テネガやセウタ行きのフェリー乗り場に来た時にもアフリカ大陸の対岸を見ながら思った。「マサイさん、こんにちわ!」

B 「好運の原則、初心者のつき」: Marco。さん流に訳すなら、「初心忘れるべからず」とは、こういうことである。毎回が初めて(一期一会)と思っていれば、つきは続く。決して、謙虚に慣れという意味ではない。仁慈を尽くして天命を待て、という意味もこう考えたい。

C エメラルドタブレット: 後で語りたい。ギリシア哲学の、「カレパタカラ」、とは全く別の考えである、とも思ったが、それを短い言葉にまとめたので同じ事かも知れない。私も今ではこちら(エメラルドタブレット)の方に、共感できる。

D ウリムとトミム: 宝物の在り処(錬金術師との対面)にたどり着くために、ヒントを与えるかもしれない石の事。「この先、右か左か?」と迷った時にだけ力を与える不思議な石。必要でないときにこの石の力を当てにすると、ポケットの穴から落ちて答えてくれない。まあ、高齢者の冒険家にとっては、ボケた視界を助けてくれる眼鏡のようなものと考えればよい。

E この本への反論: 誰でも質問したら答えてくれるのは大間違いだ。応えてはくれるであろう、拒絶という形で。「人にものを聞こうとするからには、まず自分のことを応えてからにしろ!」

 

 <あらすじ>

 中学校までは神学を学んだ少年(いちおうエリート)、サンチアゴは、親の反対を押し切って自由を求めて羊飼いとなり、アンダルシア各地を羊と共に草と日陰を求めてさまよい歩く。その中で、羊との対話、自然との対話の意味を学び取って行く。年に一度町へ羊の毛を売りに行くときに合う商人の子供・少女に再会することを楽しみにするようになる。

とあるところで、ジプシーの老婆が予言者として、出世払いで好運の代償(将来の1/10)を求めるのに同意する。次に、王様なる老人と出会い、現在の1/10の財産を代償に宝探しの知恵を授かる。

やがて、砂漠の旅行者相手に、クリスタルグラスを売る商売をして大儲け。その後、元来の目的である宝物を探すために、エジプトのスフィンクスへとキャラバン隊に入れてもらい旅をする。

財産の盗難、脅し取られ、をくり返しながら、そのたびに別の財産を手に入れ、また増やして行く。スペイン盤(ブラジル版)星の王子様として、本の発売当初は人気を集めたらしいが、この物語の伝えるところは、日本的な、Happy Endでは決してない。

最後の出会いは、錬金術の師匠に出会い試練を受ける。ここで言う、錬金術とは鉛を金に返る技術だけではなく、不良長寿、不可能を可能にすることを生業トスる、年齢200才の賢者のことらしい。

<この本を読み終えて>

一般的な我々日本人の教育課程を考えるに、およそ15才ぐらいで進路はだいたい決められてしまう。スチュワーデスになりたいとか、パイロットになりたいと思う夢(もう、かなり古い世代となってしまった)も、この辺で終わりを遂げる。さらにもっと幻滅するのは、理系とか文系とかに選別されてしまうところでもある。私はサリン事件当時日本には住んでいなかったが、地下鉄サリン事件を初めとした、オーム関連の裁判をテレビで見るときに、この理系なる言葉にチョット引っ掛かった。別に、理系だから官僚社会では偉くなれないとか、世渡りが下手とか言うわけでは無い。やはり、「錬金術」の心持ち、これを忘れてしまっている事の認識が欠如している、あるいは誤って理解しているのではないだろうか、とする思いであった。

 「不可能を可能にする」、のが科学技術の持つ力だと豪語している内は幸せだったのかも知れない。「人様の我がままを何も言わずに全部受け入れる」、と解釈し始めるのが、理系を卒業したサラリーマンの哀しいサガと気づいてしまったのである。日本の工業の発達は、アメリカ・イギリスのような石炭・石油・金属を主体とした頃にはそれほどでもなく、いわゆる、Labor Saving Device を開発し始めた、家電製品の大量生産・輸送の発達に始まるのであろう。「私が主婦を奴隷から解放しました」、と電気掃除機や洗濯機を宣伝している内は問題意識など無かったが、その後の新製品の開発競争の争点は何であったろうか?

 本の中で述べられているこれらの風景、風について、私はこれまでの人生において、誰からも教わったわけではないが、昔の山登り、そして現在の波乗りにおいて、そして今年の夏のスペイン巡礼路でも、知らず知らずの内に感じていた。


 その他のBOOK REVIEW 
<スペイン巡礼路巻頭言> <星の巡礼> <Special Thanks> <Arriba BICI> <Reference>