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■2001年10月1日〜10月15日


10月15日(月)
 先週、安彦良和ヴイナス戦記』1〜4巻を購入したんだけど、すぐには読めそうもなかったので、『クルドの星』とセットにして『ヴイナス戦記』のみ週末に返却という条件で知人に貸し出した。約束どおり週末には手元に戻ってきて、さっそく読もうと思ったら、『ヴイナス戦記』1〜3巻と『クルドの星』1巻(どちらも中公文庫版)だった。(;´Д`)

 仕方なく1〜3巻だけ読む。学研版の1巻は読んでいるはずなのに、例によってほとんど覚えていなかった(ちなみに、映画は観ていない)。感想は4巻を読んでからまた改めて書くかもしれないけど、とりあえず、安彦良和の漫画作品全般について少しだけ書いてみる。

 安彦作品の主人公は、決してマッチョなタイプではないものの、肉体的に強靱であることが必須条件なんだなぁと改めて認識。例えば『機動戦士ガンダム』のアムロ・レイと『ヴイナス戦記』のヒロキ・セノオを比較してみると明らかだけど、かたや人型ロボット、かたや装甲バイクという違いはあるものの、両者とも戦闘にかんしてはまったくの素人ながら兵器に騎乗し戦闘に加わるという点では似た境遇にある。しかし、アムロ・レイが一種の才能によってのみ天才パイロットとして戦場で活躍するのに対し、ヒロキ・セノオは短時間ながらも過酷なトレーニングを課せられ、肉体を鍛えることによってパイロットとして戦闘に参加する資格を与えられる。同様に、既読作品でいえば、『クルドの星』ではルークとの決闘が、『ナジム』では鉱山での労働とスセリへの接見が、『韃靼タイフーン』では刀打ちが、それぞれ主人公が物語の主人公である資格を獲得するための試練としての機能を果たしている。
 こうして見ると、まあ、今さらかもしれないけど、富野由悠季の「ニュータイプ」といった概念と安彦良和が相容れなかったのも当然と思える。

 ただ、身体能力に自信のないおたくとしては、肉体派の主人公よりは、天性の才能や超能力といった体力や努力を必要としない能力を持った主人公のほうがどちらかといえば感情移入しやすいのも確かで、そのへんが今まで安彦作品をほとんど読まなかった理由でもあるのかな、と思ったりもする。
(10/16追記)全体的に文章を修正しました。内容はまったく変わっていません。

10月14日(日)
 予告とは違いますが、以下の感想をアップします。

乙一暗黒童話』★★★★
 著者初の長編作品。個人的には『天帝妖弧』『失踪HOLIDAY』『きみにしか聞こえない』の3冊を立て続けに読んだせいでその作風に食傷してしまった(「失踪HOLIDAY」のみ例外)という経緯があるんだけど、技術的に非常にうまい作家であることは確かで、長編はどんなもんだろうという興味もあって、少し時間も経ったことだしもう1作読んでみようと思った次第。
 しかし、1章を読んだ時点では、ああ、やっぱり合わないのかも、と感じ、具体的にいうと、主人公のおかれている孤立して閉塞した状況というのが、胸にせまるというよりは単にいらいらするだけで、というのも、主人公が孤立する原因というのが、主人公と分離不能でありながら主人公自身には責任はない特殊な属性によるもので、基本的に主人公は無謬であることが(言外に)保証されており、しかし、決して自分を孤立させる外部を責めることをしない。簡単にいってしまえば、主人公の良い子ぶりが鼻につくということに過ぎないんだけど、それに反感を抱くというのは私自身の性根が邪悪だからなのかもしれない。
 それはともかく、2章に入り、これは乙一作品の典型ともいえる展開なのだが、闇の中の光明ともいうべき外部との回路が開かれることにより物語が広がるに至って、俄然、おもしろくなってくる(前段で触れた「孤立」の度合いが大きければ大きいほど、「光明」としての「外部との回路」の重要性も増すわけで、そういう意味では、私の批判は筋違いであることは自覚している)。
 特にミステリ的な構成のうまさには舌をまいた(この点については、すでに松本楽志さん@The Angel's Stairway詳細に論じているのでここでは繰り返さない)。
 他に特筆すべき点をあげるとすれば、「犯人」が最初の殺人を行う場面でのストイックなまでの描写の簡潔さに代表される徹底した「過剰な演出」を排した文体だろう。以前、私は乙一の作風にかんして「あざとい」と書いたが、この文体で「あざとい」と感じさせる物語を語りうるのはむしろ驚くべきことではないだろうか、とちょっとだけ考え直すに至ったことをつけ加えておく(ただ、この作品はまったく「あざとい」とは感じなかったので、そういう問題ではないのかもしれない。←結局、どっちなんだ?)。

10月13日(土)
西澤保彦夏の夜会』★★
 装丁や章タイトルが割といい感じだったので期待して読んだが、西澤作品の個人的に厭な部分を集めたような小説だった。
 この作者の作品における「推理」というのは、客観的事実を元にしたものよりも、どちらかというと心理的な因果関係を想像によって追っていくタイプのものが多くて、他人の心理を憶測で語り、ずけずけと踏み込んでは図式化をはかり、あまつさえその人格を否定するようなことを平気で口にしたりして、うんざりはしないまでも何となく後味の悪い気分になることが多かったりする。この作品もそのタイプ。加えて、この作品ではその「推理」の根拠となるのが作中で「曖昧で恣意的」だと断言される「記憶」で、いうなれば砂のうえに砂で城をつくって増改築を重ねていくようなもので、それでも例えばほら話としてユーモアをまじえて語るのなら楽しめもするんだろうけど、冒頭から結末まで徹底してユーモアや笑いを欠いた物語はただただ沈鬱なだけで、登場人物は主人公を筆頭に自分勝手で厭な連中ばかりだし、その主人公が結末で「
呪縛から解放」されるに至っては、もう勝手にしてくれという気分になった。

西澤保彦異邦人』★★★
 作者お得意のSF的ガジェット+本格ミステリというタイプの作品。ノンシリーズのSF風ミステリ作品では今まであまりテーマ性を前面に出していなかったが、今作では「同性愛」(レズビアニズム)が主題となっている。
 大きな破綻もなく、主題も物語にうまく取り込まれており、全体的に薄味ながらも非常にバランスよくまとまった作品。ただ、主人公の年齢設定のせいもあって、作者の願望を投影した作品に見えてしまうあたりが難点か(というより、むしろそこが読みどころというべき? このへんの話題については、樋口康一郎さん@UNDERGROUNDエッセイを参照していただきたい)。

10月12日(金)
 本の感想を書くにあたって主観的な評価を★の数であらわしているわけですが、5段階あるわりにはほとんどが★★★か★★★★のどちらかで、どうもうまく機能していないようなので、もうちょっと★の数を有効にいかせるようにしたいと思います。

 具体的にいうと、現状では

 ★    =01〜30
 ★★   =31〜50
 ★★★  =51〜70
 ★★★★ =71〜90
 ★★★★★=91〜

 くらいの感覚で★をつけていたんですが、今後は

 ★    =01〜40
 ★★   =41〜60
 ★★★  =61〜80
 ★★★★ =81〜95
 ★★★★★=96〜

 と、ちょっと変則的な分布にするつもりです。
 もっとも、この数字には具体的な根拠はなくて、あくまで感覚的な目安なので、今までよりやや低めの評価になる、くらいに考えていただければ良いかと思います。結果、★★と★★★★が同じくらいの数になればいいな、と思っていますが、さて、どうなることでしょう。

 過去に取り上げた作品については、現時点では手を加えません。ただ、今後、索引などをつくるにあたって★の数を見直す可能性はあります(その際は、きちんと明示します)。
 
 西澤保彦異邦人』読了。『夏の夜会』とあわせて感想は明日アップします。

10月11日(木)
 Mac版の「こみゅー3D」正式版が出たのでダウンロードしてみました。髪型や服装などをカスタマイズしたポリゴンキャラでチャットができるソフトということで、『Phantasy Star Online』(以下、『PSO』)みたいのを想像していたんですが、似て非なるものでした。台詞が吹き出しで出ないなんて! まあ、確かに従来のチャットと比較すれば外見とか仕草とか飛躍的に情報量は増えているわけですが、あくまでゲームの一機能に過ぎない『PSO』のチャットの足下にも及びません。
 Mac版はMac OS 9以降とMac OS X 10.1に対応しているので、とりあえず両方で起動してみました。何がいけないのか、Mac OS 9上では遅くて実用に耐えません。Carbon Libが良くないのかなぁ。一方、Mac OS X 10.1上では結構快適に動きます。もっとも、誰かがインストールしたという話でもなければ、2度と立ち上げることはないでしょう。
 つーか、いっそのこと、ソニックチームが『PSO』のチャット部分だけ抜き出したソフトをつくってくれればいいんですけど、もしそれが実現したとしても、Mac版が出る可能性は恐ろしく低いと思われます。鬱だ。

 西澤保彦夏の夜会』読了。例によって感想はまた後日。

10月9日(火)
 MSゴシックでこのサイトを見ると、行間が狭くて見づらいのは以前から認識していて、何とかしなくてはと思っているんですが、Goliveのマニュアル本を見ながらCSSの行間の設定をいじってみたら何だかたいへんなことになってしまって、結局、元に戻してしまいました。近いうちに改善しようと考えているので、今しばらくお待ち下さい。

 読書のほうは、同じ作者の本をたて続けに読むと、さすがに食傷気味になって印象が悪くなる恐れがあるため、バークリーにかんしては少し間をおいてから再開するつもりです。今後の予定としては、今月の講談社ノベルスの新刊はすべて見送りということで、西澤保彦の新刊や戸梶圭太の既刊を読んでいく予定です。

 9月30日の日記のGAMMA RAYにかんする文章を書く時に念頭にあったのは、杉浦印字さん@〒ロの「世界で一番頭悪そうな音楽」という文章だったりします。いや、ヘヴィメタルも負けてはいない、という無意味な対抗意識を燃やしてみたわけです(先日、機会があってユーロビートを何枚か聴いてみたら、本当に「LOVE」とか「DESIRE」ばかり言ってて大笑いしたんですが)。
 さて、勝ったのはどちらでしょうか?

10月7日(日)
 結局、以下の感想は昨日の日記ではなくこちらに書くことにしました。

 安彦良和クルドの星』1・2巻
 日本人の父とクルド人の母を持つ少年・ジローは、母からの手紙に招かれイスタンブールを訪れる。しかし、そこで待っていたのは、一族の血をひくジローを後継者にしようと考えるクルド人ゲリラだった……。
 雑誌連載時に全部読んでいるはずなのだが、ほとんど話を忘れていたので新鮮な気持ちで読むことができた。
 平凡な日本人少年として生活していた主人公が、同じ血をひく一族とともに戦いに巻き込まれていくという物語は後の『韃靼タイフーン』と同じといえる。父親が多くを語らずに殺されてしまうという点も同じ(おまけに、両者とも頭を撃たれて死ぬ)。もっとも、戦いそのものを主眼とした『韃靼タイフーン』とは異なり、『クルドの星』のほうは基本的に「父母探し」の物語だ。それにともなって、SF的なガジェットが導入されているが、これが作品世界の雰囲気とそぐわないのが難点。まあ、正直なところ、安彦良和の漫画を読むうえで個人的には物語をあまり重視していないので大きな問題ではないんだけど。
 それはともかく、あとがきに書かれているエピソードがちょっといい感じなので引用してみる。

 氏は過分なくらい好意的な感想を述べ、果たして、何故このようなものを描いたのかと僕に訊いた。
 こういう経験は二度目だ。一巻に収録された学研版のあとがきに書いたように、イラクでクルドの援助事業をされている方からかつて電話をいただいたことがある。僕はその時と同じように、ほんのちょっとしたいきさつで、とジャーナリスト氏に答えたのだが、クルド専門家の彼はいささかの失意の色も見せず、「クルド人にも見せたんです。これを…」と、なんとまあ意外なことを言われた。
 もちろんクルド人に日本のマンガがわかるはずはない。マンガなどという形の文化をも、あるいは理解できないかもしれない。しかし、クルド人達は喜んだというのだ。トルコ軍と戦うクルド人が格好良く描かれているという点が圧制下の彼等にウケたものであるらしい。僕は赤面した。


 あと、安彦良和ナムジ−大國主』も読んでおもしろかったんだけど、こちらについては感想を書かない。というか、書けないというのが正しいかも(どれくらい作者の解釈によって描かれているのかが正確にわからないので)。


長谷川和彦・監督『太陽を盗んだ男
 最初にあらすじを読んで、この映画のことはそれまでまったく知らなかったにもかかわらず、あれ、どこかで見た覚えのある話だな、と思った。その後、小学生のころに読んだ武論尊・原作/平松伸二・作画『ドーベルマン刑事』に非常によく似た話があったのを思い出した。あいにく細部はすっかり忘れているので、「プルトニウムを奪って原子爆弾をつくる」という以外の部分がどのくらい似ていたのかがわからない。現在、『ドーベルマン刑事』は文庫版が刊行されているので、載っている巻数がわかれば読んでみたいと思っている。
 と、ここまでは余談。
 中学校の理科教師である主人公(沢田研二)は、東海村の原子力発電所からプルトニウムを盗み出し、アパートの部屋で原子爆弾をつくりあげた。自ら“9番”と名乗り、警察に荒唐無稽な要求を突きつける。“9番”が警察側の代表として選んだのは、警視庁の刑事(菅原文太)だった。かつて天皇との対話を要求する男が主人公と生徒たちの乗るバスを乗っ取った事件において、自らの危険をかえりみず事件を解決へと導いたその刑事に、主人公は奇妙な共感を抱いていた。
 1979年の作品だが、その風俗的な描写を除けば、今でも新鮮に見える。政治的な目的もなく、かといって単なる愉快犯でもない、具体的な欲望を欠いた空虚な犯人像。政府への要求をラジオというメディアを通して募集する犯罪のイベント化ともいうべき演出(これは、ラジオをインターネットの掲示板にでも置き換えれば、「現在」を舞台にして結構おもしろい作品がつくれそうな気がする。すでにそういう作品があったらごめんなさい)。そして、ある意味ハッピーエンドともいえるあの結末。
 細かいことをいえば不満な点もあるけど(途中から警察の行動があまりに慎重さを欠いている、とか、カーチェイスは無理矢理入れたとしか思えない、とか、上記のラジオ番組のDJ役である池上季実子はもうちょっと物語的に有効に動かせたのではないか、とか)、こちらが「この程度だろう」と想像していたよりも一歩も二歩も先をゆく展開にはいい意味で期待を裏切られ、最後まで楽しめた。まあ、今さら私などが言うまでもないことだろうけど、非常に刺激的な作品。
 さて、最後にもうひとつ余談。この映画を観る前に、愛・蔵太さんこの文章を読んでいたおかげで、沢田研二と菅原文太の2人がそういうふうに見えて仕方がなかったことをつけくわえておく。

10月6日(土)
アントニイ・バークリー鮎川信夫訳)『試行錯誤』★★★★
 動脈瘤のため医師からあと数ヶ月の命だと宣告された主人公は、自分とは直接関係のない、他人に害をなす人物を殺すことを決意する。慎重に標的を選んだ主人公は、情報を収集し、計画を練り、凶器となる拳銃を購入する。そして、計画を実行に移し、標的は死ぬ。しかし、事件は思いもよらない方向へと動きはじめる……。
 例によって、一筋縄ではいかないひねくれまくった展開が笑いを誘う。特に、主人公が
有罪を勝ち取る(?)ために裁判を行うというのは、状況の逆転の極みだろう。未読の作品が多い現時点でいうのも早計だけど、確かにバークリー作品のひとつの到達点であると思う。「死の宣告」という1点を起点として、事態が連鎖的に進行し、ある瞬間から爆発的に拡大していく展開はさながらドミノ倒しのようで壮観。
 しかし、「
死者の人格を徹底しておとしめてまったく悲劇的な展開にならないようにしている」というのはOKさんがバークリー作品の特徴として指摘していることだけれども、この作品に限っていえば、その部分がいささか弱いと感じた。時代性とか国民性を無視していえば、この場合に「この女がすべて悪い」ですべてを済ませてしまうのは、あまりにひどいと思うなぁ。

戸梶圭太なぎら☆ツイスター』★★★
 このタイトルを見て「なぎら健壱」と「つのだ☆ひろ」を思い浮かべる人はかなり多いはず。まずはこのインパクトのあるタイトルに乾杯(?)。
 さて、当然のことながらタイトルの「なぎら」は「なぎら健壱」とは何の関係もない。「那木良」というのは、群馬県にある(架空の)町の名前である。工場移転の土地売買にからみ、東京からこの町を訪れた2人のヤクザが大金とともに姿を消した。その行方を探るために、同じ組織のヤクザである主人公は那木良に乗り込む。2人は大金に目がくらんで自ら姿を消したのか? それとも……というのが、物語の発端。
 この作品については、登場人物の1人がレスリー・ニールセンの魅力について語る以下の言葉にすべてが集約されていると思う。

(前略)
彼はもう七十を過ぎているのに、あそこまで馬鹿をやっている。おまけにまったく人間としての深みがない。植木等でさえ最近は説教くさい退屈なジジイになってしまったというのに、彼は未だに本当のただの馬鹿だ。そこが素晴らしい。(後略)

 この作品も端的にいって「ただの馬鹿だ」。「そこが素晴らしい」と思うかどうかは、読者の好みによるだろう。私の感想は、次の引用のとおり。

 
桜井は電話を切り、「お前らいい加減にしろよ」と呟いた。この町の人間すべてに向けた言葉であった。

 最後に、少しまじめに書いておくと、この作品は文体が唯一の不満。平易で読みやすい文章なんだけど、そのせいで逆に作品の魅力がスポイルされてしまっているように思える。もっと軽薄でふざけた文体か、でなければ、過剰なものをぎりぎりまでそぎ落としたストイックな文体で書いてほしかった。
 とりあえず、この作者の他の作品も読んでみる予定。

10月4日(木)
 アントニイ・バークリー(鮎川信夫訳)『試行錯誤』読了。わはははは。いやはや、聞きしにまさるすごい作品。とにかく笑える。詳細な感想は週末に。

 ほったゆみ小畑健ヒカルの碁』14巻
 連載当時、佐為 VS 塔矢名人戦は絶対に決着つかずに途中で邪魔が入って中断されると思っていたので、ちゃんと勝敗がついたのを見た時にはびっくりしたものでした。正直なところ、ほったゆみをみくびっていました。しかも、そのパートが終わってみれば、単なるサブプロットではなくきちんとメインプロットとして機能しているのがまたすごい。脱帽です。連載のほうではいったん棚上げされている
佐為の存在の物語的な処理も、どんなふうになるのか想像がつきませんが、安易な復活はまずありえないし、その手際に注目しています。

10月2日(火)
 Mac OS X 10.1(以下OS X)とMac OS 9.2.1(以下OS 9.2)を行きつ戻りつしています。
 先日は完全に移行するにはまだ不充分、とはいったものの、使っているうちに、結構いいかも、と思うようになってきました。多少の不便には目をつむって、このまま移行してしまうかもしれません。

 特にDockが非常にいい感じです。私はOS 9.2では、ボタン表示にしたアプリケーションのエイリアスを入れたフォルダをポップアップ・ウィンドウにしてランチャーがわりに使っています。しかし、画面上がウィンドウに埋め尽くされていると、タブをクリックするのもままならない状態になることが結構あって、そういう場合はデスクトップをクリックしてFinderをアクティブにしてから、ポップアップ・ウィンドウのタブをクリックする、という2段階を踏まなくてはいけない(さらにアプリケーションを起動するためにボタンをクリックするので、都合、3回クリックする必要がある)のが結構面倒だったんですが、Dockは通常画面の外に隠しておいて、必要な時にポインタを画面の端に持っていくと自動的に表示されるので、どんなにウィンドウが開いている状態からでも1クリックでアプリケーションを起動できてすこぶる快適だったりします。それから、これは実用とはほとんど関係がないんですが、ポインタにあわせてアイコンが拡大縮小する動きや、ウィンドウをDockに格納するときのジニー・アクションといった画面上の過剰ともいえる動きが、何というか、生き物みたいなやわらかさで、愛着を覚えてしまいます。どうせおもしろがっているのも最初だけで、すぐにうざったくなるだろう、と思っていたんですけど、ある程度実用に耐えうる動作速度になってくると、むしろこの「反応」がないと物足りなく感じてしまうほどです。

 それにしても、InternetExplorer5.1.2のスプラッシュ・スクリーンは綺麗だなぁ。ちなみに、これです。
 あと、メニューバーに表示されるアイコンが非常に良いです。さらに、時計をアナログ表示にすると、こんな感じになります。時刻の視認性は悪いけど。

 というわけで、今日の更新は、画像の処理も含めてすべてOS X上(含むClassic)で行いました。

10月1日(月)
 浦沢直樹は『20世紀少年』に早々にケリをつけて女子マラソン漫画を描くべきではないだろうか?(とりあえず時事ネタ)

 今週の「スピリッツ」はもりやまつる疾風迅雷』に尽きる。最初にやったもの勝ちのネタだなぁ、これは。
「俺達の似顔絵か?」
「それにしちゃあ、みんな、女みてえだなァ……」


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