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■2002年12月16日〜12月31日


12月31日(火)
 年明けの最初の更新は1月2日の深夜になる予定です。
 では、よいお年を。

12月30日(月)
 いくつか買いたい本があったので、同居人と川口駅前にある書泉ブックドームに行ったらすでに休みで激しくショックだった。仕方なく赤羽まで電車で行ってブックストア談を覗いてみたけど、ここには欲しい本がなくてがっかりした。早めに帰宅して昨日からとりかかっている大掃除の続きをやらなくてはならないのだが、結局、池袋まで足をのばし、リブロとジュンク堂をはしごして、欲しかった本と買う予定ではなかった本を購入した。
 ちなみに、購入した主な本は以下のとおり。

よしながふみ西洋骨董洋菓子店』1〜4巻
 これは、上田さんの評を読んでおもしろそうだったので購入。非常に良かった。
乙一さみしさの周波数』『死にぞこないの青
 前者は角川スニーカー文庫の新刊、後者は発売直後に購入せずにいたら、急にどこの書店でも見かけなくなってしまい、今ごろようやく購入。
すが秀実小ブル急進主義批評宣言
 ジュンク堂で四谷ラウンドの本が自由価格本として売っており、600円で購入。
金井美恵子/絵 金井久美子待つこと、忘れること?
 エッセイ集。買いそびれていた。
中上健次鳩どもの家
 「灰色のコカコーラ」を読んでおこうと思って。
奥泉光石の来歴
 『浪漫的な行軍の記録』との語り口の違いを読み比べてみようと思って。

 その後、遅めの昼食をとり、帰宅してから大掃除。珍しく年末らしい年末。

12月29日(日)
浅暮三文殺しも鯖もMで始まる』★★★
 2色刷りのカバーが目を引く「密室本」。カバーには架空のメディアの書評(?)があしらわれており、表4の帯に隠されている部分には、ちょっとしたお遊びが隠されている。

 地中の空洞で、奇術師の死体が発見された。死因は餓死。しかし、その空洞には掘られた形跡がまったくなく、死体の側には「サバ」と読めるダイイング・メッセージが残されていた。
 さらに、容疑者たちの集う別荘で第二の密室殺人が起こり、そこには血で書かれた「ミソ」と読める文字が残されていた。

 これはつまり、「作者」と「探偵役」が対応する関係にあって、ジャンルプロパーではない作者が「密室本」というフォーマットで作品を書くという状況を、異文化で育った探偵役が日本で事件を解決することにあてはめた作品なのではないかと思った。いや、単なる思いつきなんで、そこから話は広がらないんだけど。

 作品としては、全編に独特のユーモアが横溢しており、その点では楽しめたものの、やはりミステリとしては穴が多すぎると感じた。先日も書いた第1の密室における「
光源」の問題であるとか、餓死寸前の老人が人が通れる穴を塞ぐほどの大きさの岩を動かすことができるのかという疑問や、あのダイイングメッセージの解釈で犯人を示すのは無理だろうとか。
 まあ、これは犬が間違った木に向かって吠えるようなものかもしれないけど。

12月27日(金)
佐藤亜紀天使』★★★★
 待ちに待った久しぶりの新刊。第一次大戦前夜の欧州を舞台とした、超能力エスピオナージュ活劇。

 43字×18行×271ページという体裁なので、原稿用紙に換算するとおよそ500枚強。しかし、物語の内容を考えると、もっとページ数が多くても不思議ではないように思える。それくらい物語の密度が濃い。にもかかわらず、語り急いでいるという印象はまるで受けない。文章は無駄がなく簡潔ではあるが、決して味気ない文章ではない。登場人物は総じて魅力的に描かれている(特に男性)。つまり、語る技術が巧みだということだろう。この作品に限ったことではないのだけれど。

 たいへんおもしろかった。しかし、どこがおもしろかったのかを説明しようとすると、言葉に詰まってしまう。ハラハラしながら主人公がどのような運命をたどるのか気になってページをもどかしくめくる、というのとは、ちょっと違う(少なくとも私にとっては)。強いていえば、語り口そのものに魅力を感じているのかもしれない。

 例えば、「感覚」と作中で呼ばれる超能力にかんする記述。「感覚」を研究している軍の科学者が登場して「そもそも、この“感覚”と呼ばれる能力とは……」などと説明したりはしない。もちろん、作者が地の文で説明することもない。卓越した「感覚」の持ち主である主人公の主観をとおして(小説の叙述形式は三人称を用いている)、次第に読者に能力の全貌がわかるようになっている。

「感覚」にかんする記述だけではない。時代背景や、主人公のおかれた全体の構図のなかでの位置づけなどが、説明として語られることもない。これは、まあ、「これくらいは書かなくても、わかって(知っていて)当然」という作者のスノッブな態度のあらわれとも取れなくはないのだが、個人的には「物語ること」に対する厳格な態度の結果と思いたい。「書く/語るべきでないこと」の明確な戦略が作者にはあり、その結果として書かれた言葉は、ほとんどの場合、私にとって非常に好ましく感じられる。精巧な言葉で綴られた小説は、それだけで充分おもしろい。


12月26日(木)
 昨日の日記に対する自己ツッコミ。舞城王太郎のイラストの画材はどう見ても色鉛筆じゃねえよな。いや、色鉛筆で描いているっぽいものもあるけど。油性パステルかクレヨンてところか。


 浅暮三文『殺しも鯖もMで始まる』読了。意外なことに、今まで読んだ密室本のなかで、「お題」にもっとも忠実なスタイルをとった作品だと思った。
 それなりにおもしろかったんだけど、ミステリとしては、やはりツッコミどころが多すぎる気が。例えば、第1の密室トリックで「
明かり」について触れられていないのは納得がいかない。
 詳細な感想はまた後日。


 奥泉光『浪漫的な行軍の記録』を読みはじめる。奥泉光の書く「ユーモア」としては、『鳥類学者のファンタジア』よりもこの作品のようなタイプのほうがしっくりくる。

12月25日(水)
「SWITCH」を購入。周知のとおり、舞城王太郎のイラストがカラーで4ページに渡って掲載されている。最初は立ち読みだけで済ませるつもりだったんだけど、見ていたら欲しくなってしまった。
 最初のページには、奈津川家の4兄弟が、コミカルな2頭身で描かれている。それぞれ、名前の数字と目の数が同じになっている。つまり、一朗は1つ目、二郎は2つ目、三郎は3つ目、四郎は4つ目に描かれている。画材は恐らく色鉛筆。一朗の背景は黒で、「死ね。」の文字。二郎の背景は白で、「殺す。」の文字。三郎の背景は青で、「死にそうだ。」の文字。四郎の背景は赤で、「死なせない。」の文字。
 2ページ目は、「短編 ワッフーと神」と題された4コママンガ(のようなもの)。青い毛並みのクールな犬と、球がひも状に連なったような姿の脳天気な神との会話がシュール。
 3ページ目と4ページ目は見開きで、6×3マスに、著作をイメージしたイラストが計18点描かれている。注目なのは、「きらくにね。芥川賞狙い」と書かれたイラストと、奈津川家の4兄弟をそれぞれ1コマずつ描いたイラスト。特に後者は、三郎と四郎のイラストに『暗闇の中で子供』と『煙か土か食い物か』の英題が記されており、一朗と二郎のイラストにもやはり同様に謎の英文が記されていることから、シリーズ続編タイトルの予告とも思える。ファンは要チェック。

12月24日(火)
 佐藤亜紀『天使』についての著者コメント

 
あらゆる可能性を与えられながら、その全てが目の前を流れ去る時、人間には一体何が残るものだろう。

 帯の惹句にでも使えそうな一文だと思った。


 浅暮三文『殺しも鯖もMで始まる』を読みはじめる。この作者の小説を読むのははじめて。おもしろかったら、未読の『ダブ(エ)ストン街道』を読んでみるつもり。


 とりあえず感触に慣れるために、出勤時にHEELYSを履いて行く(ちなみに、私は仕事のときにスーツは着ていない)。
 疲れた。そして、うるさい。ウィールが地面に当たって音を立てるので、まるでハイヒールを履いているかのような足音がする。まだ慣れていないので、ちょっとしたスペースで滑って楽をする、ということもできず(人目も気になるし)、今のところはただ歩きにくい靴を履いているだけ、といった感じ。これは私の歩き方の問題で、普通に歩いてもまず転ぶことはないんだけど、なんとなく踵に体重をかけるのがこわくて、爪先立ちっぽい歩き方をしてしまうのだ。そのうち、普通に歩けるようになるだろうとは思うんだけど。
 もちろん、ウィールは簡単に取り外しできるんだけど、それでは意味がないし。

12月23日(月)
 佐藤亜紀『天使』読了。第一次大戦前夜の欧州を舞台に、特殊な「感覚」を持つ超能力者たちによる諜報戦を描いた小説で、野阿梓による『1809』の書評から推察するに、この作品でも細部の考証には非常に神経を使って書かれているに違いないのだが、あいにく私には雰囲気以上のものは知識不足で判断できず、もっぱら単純に「超能力アクション小説」として楽しんだ。
 詳細な感想はまた追って。


 河川敷の歩道でHEELYSの練習。
 以前にiBookを持ち歩くために買ったBOBLBE-EのPEOPLES DELITEを持っていて、これを背負っていれば、後方に転倒しても、頭を打つ可能性が低いのではないかと思い、さっそく実行してみる(両方の踵にウィールがついているので、何かの拍子に足を揃えた状態になってしまうと、滑って後方に転倒して後頭部を打つ可能性がある)。
 今日は自転車に乗って行ったので、自転車のハンドルを支えにヒーリングポジションの練習。しかし、足が痛くてヒーリングポジションがなかなか維持できない。支えなしだと、すぐに足が接地してしまい、うまく滑れない。難しい。疲れた。でも、楽しい。


 amazonから『ゼルダの伝説 風のタクト』(GC)が届く。一応、発売日前に申し込んだので、予約特典である『ゼルダの伝説 時のオカリナ』GC版と『裏ゼルダ』が遊べるディスクがついてきた。
 ちょっとだけ起動してみたけど、なかなか良い感じ。でも、実際に遊ぶのは来年になりそう。

12月22日(日)
 かかとにローラー(ウィール)のついたスニーカー「HEELYS」のMAXUS9025を買ってしまった。

 もともと、毎朝、駅を降りて会社に向かう途中、このスニーカーを履いて坂道をすべって同じ方向に向かう人がいて、どういう仕組みになっているんだろうと疑問に思っていたのだ。そのうちに、近所のスーパーなどで、歩いていた小学生が急に滑り出すのを頻繁に目撃するようになり、ああ、こういうのが流行っているんだなぁ、と思いつつ、一見すると普通のスニーカーにしか見えないというところにいくらか興味がひかれたものの、自分で手に入れようとは思わなかった。

 先日、同居人の妹が買ったという話を聞いて、それをきっかけにHEELYS日本版サイトにおいてあるムービーを見てみたら、パイプ状の手すりに乗って滑っているのがまるで『ジェットセットラジオ』みたいで、もちろん自分がそこまでできるようになるとは思わないのだけれど、急に自分でもやってみたくなってしまったのだ。こういうのをゲームと現実の区別がついてないっていうのかもしれない。

 まあ、それはさておき、グラインドをやるためには(できないけど)、土踏まずの部分が滑るように加工されているGRAILというモデルを買うべきなんだけど、今日、買いに行った店ではちょうどいいサイズの在庫がなくて、どうせできないんだから違うのでもいいか、と思って、在庫のあるもののなかからMAXUS9025を選んだのだった。ちなみに、HEELYSは自分のサイズよりひとつ大きいものを買ったほうがいいということで、私は通常は27.5センチなんだけど、ハーフサイズはないので28センチのものを買った。ちなみに、同居人も一緒にMAXUS9027を買ったので、1人で寂しく練習する、という状況は避けられる。

 帰宅したころにはすっかり薄暗くなっていたんだけど、とにかく滑ってみたくて、さっそく紐をとおして近くにある荒川の河川敷に2人で向かった。慣れるためにもウィールを外さずにHEELYSを履いて歩いていくことにしたのだが、踵に体重をかけると転びそうでこわいので、意識して爪先立ちのように歩いていると、それだけで結構疲れてしまう。階段も、のぼりはまだいいのだが、くだりはかなりこわい。結局、河川敷の歩道ではほとんど滑らず、というか、いきなり滑れるはずもなく、そもそも、滑るためには両方の爪先をあげて踵に重心をかけるのだが、その姿勢を維持するのが難しくて、ほとんど明かりがなく視界が悪いということもあって、早々に引き上げてしまった。

 しかし、帰宅してからも、またやってみたくてうずうずしてしまい、1人でベランダに出て、手すりに掴まってヒーリングポジションと呼ばれる滑るときの姿勢を維持する練習しているうちに、手すりがなくても1メートルくらいは滑れるようになり、そうなると、広いところで滑ってみたくなって、同居人と一緒に外に出て近くで滑れそうなところを探すことにした。
 HEELYSは、地面の表面がかなりなめらかでないと滑りが悪い。車道のアスファルトは非常に滑りやすいのだが、車どおりが少ないとはいえ皆無ではないし、かといって歩道のアスファルトは表面がざらざらしていて、あまり滑らないし、ようやく見つけたのは、近所のスーパーの駐車場の入り口前のスペースで、そんなに広くはないものの、アスファルトの表面は車道と同じで滑りやすい。とりあえず、左足を前に出し、右足で地面を蹴って、ヒーリングポジションで数メートル滑ることはできるようになった。同居人は、まだ支えが必要な状態だけど、もともとの運動能力は私より高いので、要領さえつかめば、すぐにうまくなりそう。

 それにしても、踵に重心をかけ、爪先をあげるという姿勢は普段まったくやらないので、早くも足が筋肉痛になりつつある。派手なトリックを決めようとは思わない(というか、できない)けど、もうちょっと思いどおりに滑れるようになりたいので、しばらくは練習を続けるつもり。


パンツァードラグーン オルタ』は何とかハードの2面をクリア。


12月21日(土)
 とりあえず『パンツァードラグーン オルタ』を難易度ノーマルでクリア。ラスボスは倒すまで苦労したんだけど、終わってみると、もうちょっともりあがって欲しかった気がする。
 続いてハードに挑戦したのだが、こちらは2面すらクリアできない。

 パンドラボックスというおまけモードは、ゲームの進行状況にあわせて隠し要素が次第にあきらかにされるようになっている。そのひとつに「サブシナリオ」という項目があり、本編では敵である帝国側の人物を主人公にしたストーリーにそって、与えられたミッションをクリアしていくというミニゲーム集のようなものが遊べる。これが本編以上に難しくて、現在、「水汲み」のところでつまっている。


12月20日(金)
 引き続き『パンツァードラグーン オルタ』をプレイ中。なんとか9面までクリア。全10ステージなので、あと1つでとりあえずノーマルは終わりなのだが、8面のボス(変型ロボ)で死にまくって何度もやり直してようやく倒したところで、精神的にほとんど燃え尽きてしまった。スティック操作に力を入れ過ぎているのか、左手の親指が痛い。
 惰性で9面をやっていたら、なぜかそのままクリア。10面はラスボスとの戦闘のみで、何回か変身を繰り返すんだけど、さすがに敵の攻撃パターンを覚えて対処方法を学習するまで挑戦する気力もなく、今日のところはここまで。


 現在、佐藤亜紀『天使』を読書中。おそろしく密度の濃い小説で、物語の内容と比較して読んだページのあまりの少なさに驚くこともたびたび。


12月19日(木)
 買ってきました『パンツァードラグーン オルタ』(Xbox)。初回プレスにはシリーズ4作で使われた曲を、作品ごとにメドレーにした音楽CDが同梱されている。

 白状すると、第1作と、第2作である『ツヴァイ』はプレイしたことがない。だから、シューティングゲームとしての『パンツァードラグーン』をやるのはこの『オルタ』が初めて。私がプレイしたことがあるのはシリーズ唯一のRPGである『AZEL』のみ(これは私が偏愛しているゲームのひとつ)。

 で、『オルタ』をプレイしてみた感想はというと、これが期待以上におもしろい。現在、5面までクリア(5面の雪原を駆けるドラゴンのけなげな姿に思わず涙した)。確か『AZEL』で導入された要素であるはずの「位置取り」と「モーフィング」がうまくシューティングゲームに取り込まれているのにも驚いた(使いこなすのは結構難しい)。
 音楽は『AZEL』と同じ人が担当しているようで、『AZEL』はゲームそのものはもちろんだけど、音楽も大好きだったので、これは非常にうれしかった。

 もうちょっとやりこんでから、また改めて感想を書くつもり。

 ここにあるムービー(上の方)がゲーム画面中心に構成されていて、なかなか良い感じなので、興味のある方はどうぞ。ちなみに、下の方はデモムービー中心の構成なので注意。

12月18日(水)
西澤保彦ファンタズム』★★★★
 非常におもしろかった。これまで西澤保彦が得意としてきた一連の
SFミステリの作風を、ちょうど裏返しにしたような作品で、表2折り返しの「著者のことば」で自ら「幻想ホラー小説」と表現しているように、既存のミステリのスタイルを踏襲しつつ、その範囲におさまらない作品となっている。

 1990年8月10日。印南野市で1人の女性が殺された。犯行現場は家族の待つ自宅の前で、帰宅したところを待ち伏せていた犯人に襲われたらしい。現場に残されていた凶器のスパナには、指紋がくっきりと残っていた。被害者の口にはビニール袋に入れられた一枚の紙片。そこには、別の女性の名前らしき文字が記されていた。
 同年12月。再び印南野市で女性が殺される。凶器の果物ナイフには、スパナから検出されたものと同じ指紋が残っていた。そして、被害者の口には8月に起きた事件の新聞記事が……。

 この作品は、連続殺人事件の犯人を追う警察側の視点と、冷酷な殺人犯である有銘継哉(ありめ・つぐや)の視点が交互に語られる構成となっている。身構えつつ読み進める読者に対して釘をさすように、作者は地の文で疑問の余地のない事実を記していく。この作品には、私が個人的にあまり好まない「先の展開を予告する記述」が頻繁に登場するが、これは事件の曖昧さをできる限り排除するために必要なもので、いわば読者に対する牽制として機能している。隠す必要のないところはよどみなく明かす、という語り口は、そのまま連続殺人犯である有銘継哉の人物造形とも重なっており、特に捜査側と直接対面する際のやりとりに顕著にあらわれている。恣意的な引き延ばしを退けた話法は個人的に好みなので、この作品は最初から最後まで非常に楽しく読むことができた。

 とはいえ、不満がないわけではない。
 まず、警察が有銘継哉の住居に踏み込んだ際に施されていた工作は、それまでに示されていた人物像と齟齬をきたしている。この部分は、作者側の物語る順序の都合で例外的に処理されたように感じられ、その点が非常に残念。
 もうひとつは、第3の視点人物の扱い。これはちょっと中途半端で、いっそのこと警察側からの外部の視点のみで処理するか、あるいは逆にもっと詳細に行動を書いたほうがよかったのではないかと感じた。まあ、これは好みの問題かも。

 ともあれ、『夏の夜会』が西澤作品の個人的に嫌いなところを集めたような作品だったのとは対照的に、この『ファンタズム』は西澤作品の好きなところの含有率が非常に高い作品だった。

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