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■2003年1月1日〜1月15日


1月15日(水)
 東浩紀・編著『網状言論F改』を読んでいる。東浩紀×斉藤環×小谷真理による鼎談がおもしろい。比較的主題の一貫性を保ちつつ、立場の違いが明確で、かといって、それぞれの発言が単なる自己主張に終始していないところが良い。東浩紀が参加している対談・鼎談・座談会で、おもしろいと思ったものはこれがはじめてかも。

1月14日(火)
生垣真太郎フレームアウト』★★★
 第27回メフィスト賞受賞作。映画編集者である「わたし」の仕事場にまぎれこんでいた1本のフィルム。そこには、1人の女が、手にした凶器を自分自身に突き刺すシーンが映っていた。「わたし」はその女を知っていた。そして、そのフィルムは本物の「スナッフ」のように見えた。すでに現役を引退した女優、アンジェリカ・チェンバース。彼女は本当に引退したのか? 情報収集のために「スナッフ」に詳しい友人の編集者に連絡をとった「わたし」は、アンジェリカという名の友人の姪が失踪したことを知る。

 これは帯にも書いてあるので書いてしまうけど、この作品にはある「仕掛け」がある。私はその「仕掛け」を事前に見破ることができなかった。それにもかかわらず、真相を知ってもまったく驚かなかった。
 こういう手法を用いるメリットというのは、一般的に考えると「
語り手が犯人である」、あるいは「語り手が犯人ではない」という確信を読者に抱かせることにあると思うんだけど(なにしろ、一方の「わたし」は殺人犯で、もう一方の「わたし」は無実なのだから、どちらかの主観場面において決定的な「事実」を描写することによって、読者にそう確信させることは容易なはず)、作者はそのような手段はとらない。「連続的であると思われた時間の流れ」が「実は過去と現在が交互に語られていた」という点を活用して、「因果関係の逆転」を描いてみせるわけでもない(「フィルム」の出自にかんして、物語内では撮影監督の口から「アム・アイ・アフレイド?」という言葉の意味が語られることによって、間違いなく「ニコラス・デブランの作品」であるという印象を読者に与えるようになっている。しかし、あくまで例えばの話だけど、その撮影監督の言葉によって、その台詞の存在を「コピー」の制作者が初めて知ったのだとすれば、いくらかの驚きが生まれるかもしれない。ところが実際には、制作に先立って「オリジナル」を見ていたという事実が事後的にあかされるだけなので、何の驚きも生じない)。この「仕掛け」によって作者が何をしたいのか、私にはさっぱりわからなかった。

 そもそも、こういう「
主観的な錯誤」を題材とした作品は、よっぽどうまくやってもらわないと、「なんでもあり」という印象を受けてしまうので、個人的にはそれだけで興ざめしてしまう。

 とはいえ、私はこの作品を充分に読み解けているという自信はなくて、例えばP.25とP.284の「
ビリーの容姿」にかんする記述を読み比べてみると、漠然とした食い違いを感じる。前者の描写では「太っている」ように読めるが、後者の描写では「痩せている」ように読める。この食い違いが意図的なものだとすれば、作品全体に対する異なる解釈があり得るのかもしれない。
 ちなみに、ミステリー板の「俺が生垣真太郎だ」スレッドで、恐らく「暗闇で──アウト・テイクの断片」にかんする解釈だと思うんだけど、「
二重人格」説が提示されていて、一瞬だけ「お」と思った。でも、「インサート・シーンB」があるからなぁ。そこさえなければ、「デイヴィットとビリーの一人称記述」にかんしてはどうにでも解釈できる気がするんだけど。

1月13日(月)
 よしながふみ『こどもの体温』と『1限めはやる気の民法』1・2巻を読む。

『こどもの体温』は、妻を亡くした独身男性とその息子を中心としたドラマを連作短編の形で描く作品集。もともと「ボーイズラブ」系の作家であるせいなのか、それともこの作家の独自性であるのかは判断できないのだけど、セクシュアリティやジェンダーにかんする描写に独特のバランス感覚が見えるのが新鮮だった。中学一年生の息子に彼女を妊娠させたかもしれないと相談され、父親が息子の彼女を産婦人科につれていく顛末を描く「こどもの体温」と、亡き妻の実家を訪れた主人公と義理の父との交流を描く「ホームパーティ」、それから、「こどもの体温」の後日談として連作の幕を閉じる「よくある一日」の3篇が特に印象に残った。

 一方、『1限めはやる気の民法』はストレートな男性同士の恋愛もので、1巻は商業誌で発表された作品なのでそれほどでもないのだが、2巻は同人誌で発表された作品をまとめたものなので、セックス描写がかなり露骨になっている。
 こういう同性同士の恋愛を描く場合、異性同士の恋愛を描くとき以上に、露骨に作家のジェンダーに対する意識があらわれるような気がするんだけど、この作品のバランス感覚(通俗的な意味での「男性性」「女性性」のキャラクタへの割り振り方)はなかなか絶妙だと思った。しかし、繰り返しになるが、それがこの作家独自のセンスなのか、それともジャンルとしてのパターン消費の果てにゆきついたひとつの形式であるのかは残念ながら私にはわからないのだった。

1月12日(日)
 訂正です。昨日の日記で、「
今までMacintoshには縁のなかったfavicon」と書きましたが、Netscape7、Opera6、Chimeraは対応していたんですね(ただ、このサイトにかんしていえば、Chimeraではなぜか表示されないんですが)。
 またもや思い込みで間違ったこと書いてしまい、申し訳ありませんでした。


 11日に発売された「MacPeople」と「MacFan」の最新号を見てびっくり。なんと日本時間の1/8にMacworld Expo 2003 San Franciscoで発表された内容が記事になっているのです。Macユーザーの方には既知のことと思いますが、Appleは事前に雑誌等のメディアに情報を流すということをしません(液晶iMac発表時の「TIME」は数少ない例外)。ですから、日本時間の1/8 AM2:00〜4:00に行われた基調講演のあとに(あるいは平行して)記事を作り、(該当記事の折だけとはいえ)印刷し、製本して、取次に搬入、11日には店頭に並んでいたのです。両者とも表紙に内容が謳われており、「MacPeople」では5ページ、「MacFan」では8ページのカラーページの記事になっています。常軌を逸したスケジュールです。
 速報性ではWebに劣る以上、そこまでする必要があるのかな……という気がしなくもありません。

1月11日(土)
 Safariは今までMacintoshには縁のなかったfavicon(「お気に入り」のサイト名の頭に表示されるアイコン)に対応しているので、それ用のアイコンを試験的に作ってみました。とりあえず、仮なので適当なデザインですけど。

 で、Safariではきちんと表示できることを確認したんですが、Virtual PC上のIE6で見ても、うまく表示されないのです。Appleや、はてなアンテナのアイコンはちゃんと表示されているのに。減色の方法がまずかったのかと思い、作り直して再アップ後にもう一度見直してみても、やっぱり表示されません。と思ったら、今度はなぜか、はてなアンテナのアイコンも表示されなくなってしまいました。

 というわけで、現状ではWindows環境できちんと表示されるのかどうか確認できていません。おそらく表示されないと思われるので、原因を究明したうえでデザインを作り直す予定です。

1月10日(金)
 笛を吹かれてさっそく踊りました。

 というわけで、〈
メフィスト賞最大級(クラス)の大型新人〉生垣真太郎『フレームアウト』読了。
 蘊蓄のネタを映画にした京極夏彦『
姑 獲 鳥 の 夏』(←字数でわからないよう適当にスペースを入れてます)という感じ。こういう方向性そのものがあまり好みではないということもあって、個人的には期待はずれだった。

 装丁は2C+箔押……かと思ったら、グレーの部分にも1C使ってる! 『殺しも鯖もMで始まる』とデザイナーは違うけど、今後は通常の4Cではない、こういうデザインを主流にするつもりなのかな?

1月9日(木)
 奥泉光『浪漫的な行軍の記録』をようやく読了。
 読み終えて、ふと思った。私は奥泉光という作家が本当に好きなのだろうか?
 今まで、何となく好きな作家の1人だと思い込んでいたんだけど。

 はじめて読んだのは『グランド・ミステリー』だった。これは非常におもしろかった。次に読んだのが『プラトン学園』で、これはつまらなかった。エッセイ集の『虚構まみれ』はおもしろかった。『鳥類学者のファンタジア』はあまり楽しめなかった。ワセダミステリクラブ主催の講演会で聞いた話はたいへん興味深いと思った。『ノヴァーリスの引用』と『葦と百合』と『石の来歴』は購入してはいるものの未読で、『石の来歴』は近いうちに読もうと思っている。

 というわけで、既読の小説作品でおもしろいと思ったのは、『グランド・ミステリー』だけだったりする。私は本当は奥泉光の小説が苦手なんじゃないだろうか、と今さらだけど思った。

『浪漫的な行軍の記録』の感想はまた後日。

1月8日(水)
 昨晩はMacworld Expo 2003 San Franciscoのスティーヴ・ジョブズによる基調講演があったわけですが、1/8のAM2:00からはじまったストリーミングによるライヴ中継を、さわりだけのつもりが結局最後まで見てしまったので今日は非常に眠いです。

 などといいつつ、Safariをダウンロードしてさっそく使ってみました。現時点では、β版で英語版のみなんですが、そのままでも日本語のページは表示可能で、すでに有志の手によってメニューや環境設定の日本語化も可能になっています。最初の起動時に自動的にインポートされるIEの「お気に入り」は、日本語が文字化けしてしまうんですが、その修正アプリもやはり有志の手によって作成されています。たいへんありがたいです(このへんの情報をは2ちゃんねる新mac板の「Safariスレッド」を参照)。
 肝心の使用感なんですが、もったりとしたIEと比較すると、確かにレンダリングが高速で非常に快適です。ただ、大きな問題が2つあって、個人的にはメインのブラウザとして使うには時期尚早と感じました。1つは、リンク先のURLに「~」が含まれていると、なぜか「 ̄」に置き換わってしまい、リンク先にジャンプできないという問題。これでは、「ミステリ系更新されてますリンク」や「はてなアンテナ」が利用できません。もう1つは、Cookieによる認証を必要とするサイトで、うまく認証されないという問題(大丈夫なところもあります)。少なくとも、この2点が解決されないと、日常的に使うのはちょっと無理ですね。逆にいえば、この2点さえ解決されれば、すぐにでも乗り換えたいと思っています。今までiCabやOmniWebやNetscapeやchimeraといったブラウザもいろいろと試してみたんですが、IEから乗り換えてもいいと思ったのははじめてです。Jaguar(Mac OS X v.10.2)をお使いの方は、ちょっと試してみる価値はあると思います。

1月7日(火)
 年をあけてから、あまり、というか、まったく小説を読んでいなくて、昨年末に読みはじめた奥泉光『浪漫的な行軍の記録』もまだ読み終えていない。


 個人的に奥泉光の幻想的というか妄想的な描写をあまりおもしろいとは感じなくて、例えば『浪漫的な行軍の記録』における「河原での死者たちの花見」にしても、それほど効果的に書かれているとは思えず、やめておけばいいのに、と思ってしまう。一度、愚直にリアリズムに徹した小説を書いてほしいと思っているんだけど、エッセイ集を読んだり講演会での発言を聞く限り、その可能性はなさそうなのが残念。


「週刊少年ジャンプ」に2週にわたって掲載された「はじめ」(乙一・原作/小畑健・画)は、もっとページを使ってほしかったなぁ、というのが正直なところ。細部のアレンジは悪くないと思うんだけど、前編、後編ともに急ぎ足でストーリーをなぞるのが精一杯という印象。「はじめの噂」が広がるところと、はじめ登場以降の主人公たちとの交流については、もうちょっと描き込んでほしかった。もちろん、多くを望みすぎなのは承知しているんだけど。
 でも、もっとも重要な地下水路の場面の絵の説得力はさすがだった。


 Apple純正ブラウザSafariキターーーーーー!
 今日からβ版がダウンロードできるらしいのだが、現時点(1/8 AM3:20)ではどこで落としたらいいのか不明なのでとりあえず寝る。

1月6日(月)
 連載第1回で友哉タンが「薮れません」を書いた「群像」の「現代小説・演習」で、今度は舞城王太郎が小説パートを担当するらしい。掲載は3月号の予定。情報ソースは、理論パートを担当する仲俣暁生氏のサイトの「sora tobu BBS」より。
 ちなみに、同BBSの2002年10月27日にも、舞城王太郎にかんする記述がある(こちらは、以前に青月にじむさんの「Mint Julep」で紹介されていたのを読んで知りました)。

1月5日(日)
 西澤保彦『ファンタズム』のある仕掛けについて(この話題についてはこちらを参照)。
 私見ですが、作者の意図としては以下のようなものではないかと解釈しています。

・読者は件の記述を「
日本を舞台にしたもの」だと思って読み進む。
・「
交換殺人」説が浮上し、件の記述が「実はアメリカを舞台にしたもの」だったという「叙述トリック」であると読者は解釈する。
・結末に至り、件の記述の「
舞台がどこであるのか」は判断不能になる。
・その結果、「
1つの殺人の描写で、2つの殺人を描写している」ことになる。

 それが、「
作者の演出の狙い」であると同時に、「メタな視点を意識した犯人の犯行動機」であると解釈したんですが、考えすぎでしょうか?


【追記】『ファンタズム』をぱらぱらと読み返してみたんですが、上で「
メタな視点を意識した犯人の犯行動機」である、と書いたのはちょっと強引な解釈でした。「名前の一致」という点でいささか無理が生じる4人目(正確ではないですが、意味は通じますよね?)以降の犯行の「犯人側からの描写」がない、というのがその理由で、逆に作者の意図としては、件の記述にかんしては意識的に舞台と被害者がどちらか判断できないように書かれていると断定できるのではないかと思います。


【追記2】適当に読んでいてはダメだ>俺。件の記述のうち、少なくとも3番目にかんしては「
アメリカと日本、どちらの描写であるか」は判断できるように書かれていますね。「対になる2つの事件のうち、描写されている事件が後に起こった事件」であることは、P.92〜93、P.100〜101の記述から明らかで、「時差から考えて、アメリカでの事件を記述したもの」としか考えられない。となると、上で書いた作者の意図にしても、「単に叙述トリックとして無理が生じるから」というだけの理由にすぎないことになる。
 なんか自信たっぷりに勘違いしたことを書いてはずかしい限りです。まるでどこかの探偵みたいですね……。


 よしながふみ『西洋骨董洋菓子店』の刊行とTVドラマ『アンティーク〜西洋骨董洋菓子店〜』の放映の時系列を確認して、漫画の完結前にドラマ化されたことに今さら気づいた。こちらのよしながふみのインタビューを読むと、結末が漫画と異なるのは作者自身の希望だったようだけど、やっぱりあの最終回はひどいよなぁ、と思う。

1月4日(土)
 あけましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願いします。


 更新の再開が予告どおりにならず、申し訳ありませんでした。
 1月2日の夜に帰宅した直後から急激に体調を崩し、3日は1日中寝込んでおりました。


 今日になってだいぶ復調し、漫画がおもしろかったので2日の帰宅途中にレンタルビデオ屋に寄って借りてきた『アンティーク〜西洋骨董洋菓子店〜』のビデオ全11話を一気に鑑賞。最終話を見終えた現在、激しい徒労感に襲われております。前半はそれなりに楽しんでいたんですが……。
 物語的には、ドラマのオリジナル要素がまったくおもしろくないのが致命的。小ネタの演出では、いくつか笑えるところもあったものの(音楽にかんするメタなギャグとか)、わざわざビデオを借りてチェックするまでもなかったという気がします。いや、まあ、それほど期待をしていたわけではないんですが。

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