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■2003年1月16日〜1月31日


1月31日(金)
 舞城王太郎『阿修羅ガール』読了。何となくデビュー前の習作のリライトのような印象を受けた。
 詳細な感想はまた後日。
 ちなみに、作中に出てくる「ハデブラ村」のハデブラは、スウェーデン語で「元気でね!」という意味の「Ha det bra!」だと思われます(ソース)。派手なブラジャーかと思ったよ。


 ここ数日、左あごの関節が痛くて、奥歯で食べ物が噛めず、それが原因なのかわからないのだけど、ひどい肩こりや、微熱があったりして、とりあえず食パンをスープにひたしたものなどを食べてすごしていた。やたらと眠くて仕方がないので、早寝を心がけ、6〜7時間は睡眠をとるようにしたのが良かったのか、今日になったら肩こりや微熱はなくなり、違和感は残るもののあごの痛みも少なくなり、普通に食べられるようになった。念のため、病院に行こうと思っている。面倒くさくて、普段はめったに病院に行かないのだが、今回、病院に行こうと思ったのは、山口雅也の『奇偶』を読んでいるからかもしれない。

1月28日(火)
 遅ればせながら山口雅也『奇偶』を読みはじめる。
 浦賀和宏『ファントムの夜明け』と奥泉光『石の来歴』の感想は週末までには何とか書きたい。


 新Power Mac G4発表。う〜ん。最上位機種(1.42Ghz Dual)はともかくとして、2番目(1.25Ghz Dual)、3番目(1Ghz Single)は細かいところでケチってるという印象の仕様だな。

1月26日(日)
「活字倶楽部」2003年冬号を購入。「メフィスト賞のニューパワーに迫る!」と題されたモノクロ7ページの記事が掲載されている。舞城王太郎、佐藤友哉、西尾維新の3人に焦点をあてた内容で、担当編集者である太田克史氏が語る作家像、佐藤友哉インタビュー、西尾維新(メール)インタビュー、舞城王太郎による太田克史氏のイラスト、といった記事構成。

 舞城王太郎の文章で、「!」や「?」のあとに全角アキがないのは、すでに4作品が同じ体裁で出版されている今となっては明白だけれども、やはり意図的なものらしい。作品やイラスト以外で作家本人が露出する意思はなく、「
仮に何か賞を取ったとしても授賞式にでなくてはならないのなら辞退する」とも言っているようで、作品のみで勝負するという姿勢は潔いけれども、それも度を過ぎれば一種の自己演出として機能してしまい、余計に不在の中心としての作家を際立たせかねないという点には留意したほうが良いと思う(というか、すでにそうなりつつある。もちろん、これは読者をはじめとする周囲の問題ではあるんだけど)。

 佐藤友哉は、「
『クリスマス・テロル』とか『新現実』(角川書店)に書いた短編とかはエンターテインメントじゃなくて、自分を出し過ぎちゃったなあって思っていて、それはよくないなぁと」と自分で言ってる。ちなみに、『クリスマス・テロル』の終章については、「あれはネタじゃないですよ」とのこと。でも、インタビューでは太田克史氏同伴。

 西尾維新のインタビューはメールによるもので、「絶対ミステリーが好き2」のインタビューと比較するとあきらかに作家としてのキャラクタがつくられていて、そのぶん、読み物としてはおもしろくなっている。


奥泉光浪漫的な行軍の記録』★★★
 この小説は主に2つのパートで構成されている。ひとつは探偵小説作家である老人を語り手とするパート。もうひとつは、南海の島で行軍する日本軍の1人の兵士を語り手とするパート。両者は同一人物なのだが、後者が前者による回想、ということでは必ずしもなく、前者が後者の行軍中の居眠りのなかで見る夢のようにも書かれており、厳密にどちらが上位に位置するのかは判断できない(「胡蝶の夢」みたいな感じ)。
 それぞれの「現実」を起点にして悪夢的な世界があらわれ、その両者の「悪夢」同士が不意にリンクすることによって、いよいよ現実/悪夢、過去/未来の境界線が曖昧になるという趣向がおそらく主眼であると思われる。
「石の来歴」に感じていた不満や違和感を超えるべく書かれた作品であるという著者自身の言葉を鵜呑みにしてみれば、「石の来歴」における現実と悪夢の関係はあまりにわかりやすく、その境界線の消失も含めて、単純な図式に還元されてしまうことが不満点のひとつであったと推察されるのだが、この作品における複雑なウロボロス構造は趣向としてはおもしろいと思うものの、それほど成功しているとはいえないと思う。

 奥泉光の書く「悪夢」は、あまりに悪夢然としすぎている、というのがかねてからの不満で、具体例をあげれば、「俺タチヲ見捨テナイデクレ!」とひしめく日本兵が叫び、その躰中に巣くった蛆どもが、きいきいと黄色い声をあわせた、などという描写は、まったく恐ろしくはないし、かといって、ベタであるがゆえに笑えるというわけでもない。だから、現実と悪夢の境界線が消失したところで、読者としては別段、眩暈のような感覚を覚えることもなく、おそらくは著者の意図に反して、ここから悪夢を書こうとしている、というのが明瞭にわかってしまう。
 それよりも、行軍する兵士が語り手のパートにおける、ハリボテの「国体の精華」や、ドラム缶におけるエピソードのほうがよっぽど悪夢的だし、喜劇的でもある。

 確かに私は奥泉光の小説に魅力を感じてはいるんだけど、それは、どうやら作者が書きたいものとは一致しないらしいということに最近になって気づいた。非常に残念。

1月24日(金)
 浦賀和宏『ファントムの夜明け』を読了したので、ネタバレ発言を読むために「浦賀和宏はどうでしょう?」スレッドを見ていたら、笠井潔による浦賀和宏『地球平面委員会』書評が紹介されていた(ちなみに、冒頭部では語られない主人公のフルネームとその素性がはっきりと書かれているので、未読の方は注意)。

『地球平面委員会』で作者は、本格にたいする自己分裂が電子メディア世代としての自分にも見いだされることを、ひそかに告白しているようだ。

 なんか、こういう書評を読むと、

 
かねがね思っているんだが――書評ってのは、小説がネタにした社会問題を、本体は脇においてピックアップし、蘊蓄垂れればそれでいいということになっているらしい。ってことは、ただ蘊蓄垂れやすいネタを並べてやれば自ずと書評は湧いて出て、話題作扱いも夢じゃないってことだ。どう書くかなぞ誰も気にしちゃいない。やれやれ。

 という佐藤亜紀の批判も一理あると思ってしまう。「
どう書くかなぞ誰も気にしちゃいない」てのはさすがに言い過ぎだと思うけど。
 いや、これは自戒をこめて書いているんですが。
(ところで、罵倒の言葉が「
やれやれ」で結ばれていると、某ネット有名人みたい……)


 ようやく奥泉光『石の来歴』を読みはじめた。まだ半分くらいなんだけど、『浪漫的な行軍の記録』より断然おもしろい。この差はどこにあるんだろう?

1月23日(木)
 高橋源一郎による奥泉光『浪漫的な行軍の記録』書評

 
ほら、「関係ないじゃん」といってるあんた、あんたもその行進の中にいるんだってば!

 私の記憶では、そういう小説ではなかったように思うんだけど。
 むしろ、この書評は、高橋源一郎が現在書いている作品における、自分自身の問題意識の所在をあらわしているんじゃないだろうかと根拠もなく邪推してみる。


 そういえば、読了した『浪漫的な行軍の記録』の感想をまだ書いていない。『石の来歴』を読んだうえで、講演会で著者自身が語っていた叙述スタイルの違いという観点から書こうと思っていたんだけど、なぜか今は浦賀和宏『ファントムの夜明け』を読んでいたりする。

1月22日(水)
 2ちゃんねる文学板の「ヤスケン、余命1ヶ月・・・」スレッドより。

386 :吾輩は名無しである :03/01/08 22:20
 それで改めて思い出したのが、剣先スルメをゴマ粒大に手で千切って
 愛猫に与えていた知人のことで、この人は、彼の奥さんが真っ先に認める
 くらい、性格の悪い自己中心的で幼児性格でシット深くひがみっぽいイヤな
 ヤローで、仕事がらみで何度もケンカをしたことがあるけれど、それでも、
 まあ許してやるか、というきになってしまうのは、猫のために千切ったスルメの
 細かさが、ふと眼に浮かぶせいかもしれません。
 私と姉は、その細かく千切って、ふわふわになったスルメのことを、Yさんの
 猫吉兆、と呼んでいて、「吉兆」で料理を食べたことなど、もちろんないのですが(ry

387 :吾輩は名無しである :03/01/09 23:33
 >>386
 金井美恵子のエッセイですな


 ちなみに出典は金井美恵子『待つこと、忘れること?』のP.57〜58より(未読なのだが、探したらすぐに見つかった)。

 2003年版『このミス』での、柄澤齊『ロンド』についての「
次作への期待を込めて」というコメントが印象に残っている。いや、もしかしたら、自分が本当に死ぬなんて考えていなかっただけかもしれないけど。

1月20日(月)
 昨年の年末から、どうも小説を読む気が起きなくて、現在、リハビリを兼ねて高橋源一郎『ゴーストバスターズ』を再読中。初読時は正直なところあまりピンとこなくて、今回、再読してみてもやっぱり何となく物足りなく感じる。部分的にはよいところも多いんだけど。

1月19日(日)
 田村由美『7SEEDS』1・2巻を読む。全然、『バトロワ』ではありませんでした。

 この作者の長編作品としては珍しく、気弱な女の子が主人公。
 ごく普通の少女・ナツは自宅で夕食をとり、いつものようにベッドに入った。しかし、目が覚めると、そこは荒れ狂う海の上だった。一緒にいた見知らぬ男女3人とともにボートに乗り移り、無人島に流れ着く。なぜ自分はこんな状況におかれているのかもわからないまま、ナツは仲間とともに過酷な世界で生きることになる……。

 2巻の冒頭で明らかにされるとりあえずの「説明」をあかしてしまえば、主人公たちは巨大隕石落下による人類滅亡の危機にそなえて冷凍睡眠により「保存」され、時がきて目覚めたらしい。つまり、すでに世界は滅亡しており、種の保存のために残された主人公たちは、元の世界に戻ることもできず、この世界で生きなくてはならないのだ。しかし、それを客観的に証明する手段がないのがこの設定のミソで、もしかしたら単なる「テスト」なのかもしれず、主人公たちは日常に戻れるかもしれないという含みを持たせている。7人の子供+大人のガイドを1組として、全部で5組(=40人)おり、2巻の途中からは、別のチームの物語が語られる。この調子で5組について順番に語っていくのか、それとも現時点で語られている2組が中心になるのかは不明。2巻の途中から語られる別のチームの主人公的役割である少女は、典型的な田村由美作品のヒロイン(気丈な少女)で、どちらかといえば、こちらのほうが安心して読んでいられる。

 相変わらずおもしろいんだけど、例によって絵(特に背景)が非常に大雑把で、状況がわかりづらいことも多い。登場人物の配置や、その動かし方は(さすがにマンネリ気味とはいえ)うまいだけに、もうちょっと細部にまで気を使ってほしいと思うんだけど、まあ、これにかんしてはあきらめている。

1月18日(土)
 羽海野チカ『ハチミツとクローバー』1、3巻を購入(1巻は宝島社版しか持っていなかったので)。
 そんなわけで、改めて1巻から通して読んだ。

 細身で中性的な男の子はもちろんだけど、筋肉質な男っぽい男を描いてもうまい。ローマイヤ先輩、竹本の義父カズさん、鉄人山田のお父さん、といった同タイプのキャラクタのなかでも、モンゴル相撲で優勝して帽子と衣装をもぎとってきた徳大寺先生が最強か?

 この作者の描く、登場人物たちが並んで歩いているシーンが大好き。chapter.15の扉(2巻)とか、chapter.18の扉(3巻)とか。
 あと、3巻では森田が馬頭琴を弾くコマが良かった。うまいなぁ。

 ギャグはおもしろいし、そこかしこに愛おしい細部にあふれていて、読んでいてたいへん幸せな気持ちになれる。この世界がずっと同じように続いてほしいと思うんだけど、時間は確実に少しずつ進んでいる。


 田村由美『BASARA』(文庫版)1〜8巻を購入。さすがに全16巻は一度に買えなかった。
 改めて読み直してみて、16日の日記で記憶と小学館のサイトをたよりに書いたあらすじは、微妙に時系列が間違っていることに気づいた。まあ、大筋では間違ってはいないので、そのままにしておく。
 巻末に収録されている文章は「解説」ではなく「エッセイ」と題されていて、どうりで検索しても執筆者がわからないはず。ちなみに、ミステリ読み的には、近藤史恵(5巻)、加納朋子(12巻)、光原百合(16巻)が書いているのが注目といえば注目か。その他の執筆者はこちらを参照。

1月16日(木)
『網状言論F改』に収録されている斉藤環「『萌え』の象徴的身分」を読んでいて、急に田村由美『BASARA』を読み直したくなった。つまり、斉藤環がいうところの「戦闘美少女」とは正反対の「戦う少女」の物語、という連想なんだけど。

 しかし、単行本はすべて実家に置いたままであることに気づき、ばかばかばか、なんで持ってこなかったんだ! と激しく自分をなじり、こうなったら文庫版を買うしかあるまい、週末に書店で大人買いだ! と決心してとりあえず平静をとりもどした。
 そういえば、誰が解説を書いているんだろうと気になって調べてみたんだけど、小学館のサイトには書いてない。駄目だ。役立たず!

 もっとも、最近はあまりまめにチェックしていなかったので、新連載をしていることも知らなかった。『7SEEDS』。サバイバルもの? ちょっと『バトル・ロワイアル』っぽい? もう2巻まで出てる。これも買わなきゃ。

 で、そのときに見つけた田村由美インタビュー。いや、このインタビューそのものはあんまりおもしろくないんだけど。

 ……え〜と。

 せっかくなので『BASARA』について書いてみよう。
 舞台は、一度文明が滅びてから300年がたった日本(最初に断っておくと、世界設定にかんしてはあまり期待しないほうがいい)。
 白虎の村に住む主人公である少女・更紗には、双子の兄がいた。更紗は「普通の子供」たが、兄のタタラは「運命の子供」と呼ばれ、村の中でも特に大事に扱われていた。ある日、王族の1人である「赤の王」が率いる軍勢が白虎の村を襲う。「運命の子供」であるはずのタタラは殺され、失意の村人は追いつめられる。更紗は兄の装束をまとうと、「運命の子供・タタラ」として剣をとり、村人に告げる。「死んだのは妹の更紗だ」……というのが物語の導入部。いわゆる「男装の麗人もの」。主人公の更紗は、運命の子・タタラ/普通の少女・更紗という2面性を持つ存在として描かれる。
 殺された兄と村人たちの仇をうつことが更紗の生きる目標となる。しかし、敵は日本を支配する王族。仲間を求める旅の途中、少女としての更紗は、朱理という名の青年と出会う。互いに引かれあう2人であったが、朱理こそが更紗が打ち倒すべき仇、「赤の王」なのだった。朱理もまた、更紗が「反逆者」として名を轟かす「運命の子供・タタラ」であることを知らない。
 この2人の関係が、物語の主軸となる。

 ここまであらすじを書いて、えらくベタなお話だな、と思った。でも、これがおもしろいのだ。

 物語の途中、明かりのない洞窟に取り残された更紗は、混乱しながらも、村の予言者であるナギの教えを思い出す。どんな状況でも、自分にできることを考え、その優先順位を判断し、ひとつずつ実行すべし。この物語には、そういう地道で前向きな姿勢で戦い続ける少女の姿が描かれている。自分の非力さを呪い、周囲からの期待に押しつぶされそうになりながら、少しずつ前に進む。しかし、その行く先に待っているのは、「赤の王」の正体という現実。
 そのとき、更紗はどうするのか。「運命の子供・タタラ」であることを選ぶのか。「普通の少女・更紗」であることを選ぶのか。それとも……というのは、ぜひ、実際に作品を読んでほしい。これは、単なる悲恋の物語ではない。

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