2003年2月後半の日記へ 過去の日記リストへ トップページへ

02150212
02110210020902080207
02060204020302020201


■2003年2月1日〜2月15日


2月15日(土)
 
竹本健治『クレシェンド』読了。個人的に、竹本健治の弱点は「叙情性」に対して無防備な点だと思っているんだけど、その意味で、この作品はものたりなかった。終盤の展開(メタ・フィクション的な処理によらない幻覚の現実化)は、うまく処理すれば『匣』の呪縛を断ち切ることもできそうな気配があるだけに、惜しいなぁと思った。

2月12日(水)
 小川勝己『葬列』読了。個人的には『彼岸の奴隷』のあざとさよりこちらのほうが好み。しかし、なんというか、この作家は本当に登場人物をひどいめにあわせるのが好きなんだなぁ、と思った。肉体的に、とか、精神的に、というのももちろんそうなんだけど、それ以上に、物語として登場人物が救われないようになっているあたりが心底ひどいと思う(この『葬列』でいえば、
復讐が半分は見当違いだったという真相とか)。でも、そこが好きだ。


 次は竹本健治『クレシェンド』を読む予定。

2月11日(火)
 川口市内に「SKIPシティ」という自治体を中心とした「
映像産業拠点施設」(パンフレットより)ができて、そこのオープニングイベントのひとつとして映画などの上映会が行われ、同居人が『モンスターズ・インク』(吹き替え版)に申し込んだというので行ってきた。もともとは17時からの1回のみの上映予定だったのだが、希望者多数のため2回の上映を行うことになったということで、私たちは19時からの2回目の上映に割り振られた(ちなみに、申し込み、連絡等はすべてメールによる)。SKIPシティの敷地内にはNHKアーカイブという施設があり、そこでは過去2000本のテレビ番組のライブラリーがあって無料で見られるそうなので、1時間くらい早く行って、ひやかしてみようと思っていたのだが、いざ到着してみたら、ほとんどの施設が17時半までしか開場しておらず、これじゃあ、オープニングイベントの意味がないのではないかと思った。仕方なくお茶でも飲もうかと思ったら、敷地内にはコンビニとつぼ八とラーメン屋しかなくて、コーヒーショップはあるにはあるものの、NHKアーカイブ内なのですでに閉店しており、何となく釈然としないまま、小腹がすいていたのでラーメンを食べた。

『モンスターズ・インク』はもちろん未見だったのだが、予想以上におもしろかった。吹き替え版ということで、声はもちろんなんだけど、作中に登場する新聞記事の見出しなどもきちんと日本語になっていて驚いた。
 舞台はモンスターの世界。人間の子供を驚かして悲鳴エネルギー(電気やガソリンのように使われる)を集めて供給している「モンスターズ・インク」という会社で、サリーとその相棒のマイクは常にトップの成績だった。ある日、モンスターたちが子供を驚かしに行くためのドアから、逆に1人の女の子がまぎれこんでしまう。モンスターの世界では、人間の子供は非常に危険な存在だとされていた。その女の子になつかれてしまったサリーは、マイクとともに女の子を元の世界に戻すために奔走する。
 導入部で世界設定を観客に伝える手際が非常にたくみで、自然と作品の世界にひきこまれる。映像はさすがにハイレベルで、サリーの全身をおおう体毛、ドア収納庫の巨大な空間、そこで繰り広げられるジェットコースターのようなチェイスシーンの映像は圧巻。人間の女の子はぱっと見はちょっと怖いんだけど、動きが非常に愛らしい。吹き替えは主役の2人を石塚英彦(ホンジャマカ)と田中裕二(爆笑問題)がやっているんだけど、なかなかはまっていた、というか、特に田中裕二はミュージカル風のシーンでも堂々とした歌いっぷりで、本職顔負けなんじゃないかと思うくらいよかった(聞いたことある声だな、と思いつつ、エンディングクレジットを見るまで田中だと気づかなかったのがよかったのかも。はじめから知っていたら、本人のイメージが強すぎるかもしれない)。エンディングクレジットで流れる映像もおもしろい。ただ、結末部(
ブーとの再会)は蛇足という印象だった。


 古谷利裕氏の偽日記(2/11)で西尾維新『クビシメロマンチスト』がとりあげられている。
 存在理由がいまひとつわからなかった殺人鬼・零崎人識の位置づけにかんする指摘には、なるほど、と目から鱗が落ちる思い。「記述の軋み」に着目した分析も、非常に説得力がある。

2月10日(月)
 伊坂幸太郎『ラッシュライフ』読了。登場人物の造形に若干の不満を感じるし、「パズル」のピースが多少余っているように感じられるけど(特に老夫婦の存在)、非常におもしろかった。デビュー作である『オーデュボンの祈り』も追って読んでみようと思った。


 次は、読み残していた小川勝己のデビュー作『葬列』を読む予定。
 珍しくいいペースで本を読めているので、読了本の感想を書くのは先送りにして、とりあえず読書を優先するつもり。

2月9日(日)
 東野圭吾『ゲームの名は誘拐』読了。これはおもしろかった。倫理的な問題にかんする直接的な言及をあえてしりぞけたストイックな語り口にしびれた。
 続いて、伊坂幸太郎『ラッシュライフ』を読みはじめる。


 長らく保留にしていた浦賀和宏『ファントムの夜明け』の感想をようやくアップ。
 山口雅也『奇偶』の感想も。


浦賀和宏ファントムの夜明け』★★★
 なんだろう、このものたりなさは。『浦賀和弘殺人事件』や『地球平面委員会』といった冗談で書かれたとしか思えない作品を全面否定して、『こわれもの』のそつのないまとまりぶりを賞賛した読者としては、この作品も肯定するのが筋というものだろう。しかしなぁ。
 物語としては非常に整っている。全体のバランスを考えれば、浦賀和宏の最良の作品といってもいいかもしれない。過去に傷をもつ主人公。幼くして死んだ双子の妹。失踪したかつての恋人。同僚の祖母の死。そういった物語を構成する要素が、ひとつずつ丁寧に処理され、一貫した流れを構成し、終盤でクライマックスを経て、すべてがあきらかになる結末へと至る。
 浦賀和宏の作品を特徴づけていた猟奇趣味的(?)ガジェットは、大きく背後に退いている。残酷な殺人鬼、といった存在も確かに登場はするけれど、それはあくまで物語に必要なものとして、決して過剰に突出はしていない。これは作家としての成長とみるべきなのだろう。丸くなった、ともいえるが、その空回り気味の「過激さ」に不満を感じていた読者としては、素直に歓迎すべきことなのかもしれない。
 でも、なんか違うんだよなぁ。
 じゃあ、何を期待しているのか、といわれると非常に困るんだけど。

 浦賀和宏の作品である、ということをあえて脇においといて、この作品にかんする不満をのべておくと、まず、中盤のいくつかのエピソードがあまりに予定調和、ということがある。それから、構成の美しさを考えると、結末に「あれ」をもってくるのは理解できるんだけど、クライマックスを経たあとだと、単なるおまけの趣向という印象が拭えず、物語としていまひとつ有効に機能していないように思える。エンターテインメントに徹するならいっそのことクライマックスの前にもってきて、主人公の意識変革のきっかけにしたほうが良かったのではないかと思った(単純に順番を入れ替えればよい、ということでもないんだけど)。まあ、このへんは好みの問題かも。

 ところで、主人公のもと恋人である作家志望の青年の扱い方は、いかにも浦賀和宏らしいなぁ、と思った(
おそらく作者は、作中に登場する「作家」と、作品の作者とを読者が同一視しがちなことを計算している)。


山口雅也奇偶』★★★
 山口雅也の作品を読むと、いつも漠然とした違和感というか居心地の悪さを感じて素直に楽しめないことが多い。例えば『生ける屍の死』や〈キッド・ピストルズ〉シリーズにおいて、他の登場人物に「パンクスのくせに物知りだな」といった台詞を口にさせることによって、パンク探偵というアイロニカルな設定をわざわざ読者に強調しなければ気が済まない話法であるとか、『キッド・ピストルズの妄想』において繰り返し語られる「狂人の論理」が、整然と図式化され解体されると跡形もなくなってしまうようなわかりやすい「狂気」でしかない点であるとか、あるいは『ミステリーズ』におけるあまりにきまじめな「前衛ぶり」であるとか、なんというか、小説に登場する「素材」に対する作者自身の評価や取り扱い方が、読者である私が受ける感触と微妙にずれていると感じるのだ。
 この『奇偶』でも、主人公である作家が、自身の眼疾をスポーツ選手が脚に負った傷に重ねあわせていることに対して感じる違和感が同様で、言っていることはわかるんだけど、それってちょっと違うんじゃない? と思ってしまう。そういったピントのずれがそこかしこに感じられて(あくまで私にとって、ということだけど)、おそらくこの作品は「偶然」にかんするさまざまなエピソードが結末に向かって収束するような構造を意図しているのだとは思うし、その試みはおもしろいとは思うものの、最後まで細部に感じる違和感が解消されることはなく、これはもう、山口雅也の作品と私は相性が悪いということなのかもしれない。

2月8日(土)
MYSCON4」への参加を申し込みました。


 というわけで、これを機会にMYSCONに協賛させていただきました。
 今まで協賛していなかったのは、趣旨に異論があるから、というわけではもちろんなくて、単に協賛報告を掲示板に投稿しなくてはならないからです。自慢ではありませんが、私は他サイトの掲示板に投稿したことは片手の指で数えるほどしかありません。わりと迂闊なことを書きがちなので、苦手意識を持っているんですよね。
MYSCON4」に参加するとなったら急に協賛、というのも現金な話だとは思うんですが、せっかくの機会なので。

2月7日(金)
「群像」3月号を購入。「現代小説・演習」は、中俣秋生(今日は敬称略)による評論「『鍵のかかった部屋』をいかに解体するか?」と、舞城王太郎による小説「僕のお腹の中からはたぶん『金閣寺』が出てくる。」の二部構成。前者は昨日の日記でタイトルから「
書かれていることが想像できるような」と書いたけど、想像していたアプローチとはだいぶ違った。末尾に「作家への依頼状」が挿入されており、そこには「『青春小説』を殺害してください」「そのとき、探偵小説の手法をもちいてください」という依頼内容が記されている。で、小説のほうなんだけど、これはおもしろかった。語り手である主人公の家にやってきて切腹した叔父の腹から、なぜか血まみれの箱入り石原慎太郎『青春とはなんだ』が出てきた……という謎をメインにしつつも、例によって主人公はその謎の答えにあっさりとたどりつく。しかし、主人公は「つまらない」という理由で、さらに他の説明をあれこれ考えるのだ。この小説が「『青春小説』を殺害して」いるのかどうかはちょっと判断がつかないけど、舞城王太郎のミステリ的ガジェットの扱い方にひかれている読者は楽しめると思う。
 新たな「名探偵」が登場。友哉タンも名前がちょとだけ出てくる。
 再読して、後日、また何か書くかも。


 で、「群像」には笠井潔と三浦雅士による「現代文学の最前線」という対談が掲載されているんだけど、これが実に微妙な内容。特に三浦雅士の「
『コズミック』が本格派から非難されたのは、秘密結社を出したからでしょう。有名なヴァン・ダインの推理小説の二十則に違反するわけです」という発言は本気にしろ冗談にしろ困ったものだと思う。


 山口雅也『奇偶』読了。これは、山口版『匣の中の失楽』?

2月6日(木)
 まだ山口雅也『奇偶』を読んでいます。


 やたらと眠いのは花粉のせいだろうか。そろそろ目もかゆくなってきた。


 明日は舞城王太郎の「僕のお腹の中からはたぶん『金閣寺』が出てくる。」が掲載される「群像」3月号の発売日。理論パートのタイトルは「『鍵のかかった部屋』をいかに解体するか?」。なんとなく書かれていることが想像できるような。


 エキサイトブックスミステリが思春期!?」中の、講談社ノベルス編集者太田克史氏の発言、

(前略)
そして、同世代としての酒鬼薔薇聖斗の出現。ぼくはあの事件の時、TVレポーターが実況を伝えるあの小学校の校門で、後ろからピースサインをしてふざける若者たちの存在に衝撃を受けたのですが、90年代、特に地方で文芸やサブカルチャーなどに影響を受けて複雑な内的世界を抱えるということは、ああいった大多数の無理解の暴力にさらされるということでもあったんですよね。いや、酒鬼薔薇聖斗を擁護するということではないんですが、佐藤さん、西尾さんにはそうした悲劇性を感じる。

 佐藤友哉や西尾維新が「大人」(太田氏は私と同世代)に「
悲劇性」とかいわれて本気にするほど愚かだとは思わないけど(友哉タンはちょっとあやしい)、ひどく気持ちの悪い物言いだと思った(内容としては「タンデムローターの方法論」収録の「リタラチャーNo.3」の繰り返し)。

2月4日(火)
 昨日、私はなにを準備しようとしていたのか。謎だ。

2月3日(月)
 準備中。

2月2日(日)
 銀座シネパトスでヴィンチェンゾ・ナタリ監督『カンパニー・マン』を見る。独特の雰囲気をもった映像や珍妙なメカ類もよかったけど、物語の展開そのものが「ルール」の説明になっている、観客が抱くであろうささいな疑問点が伏線として機能している、といったミステリ的な(?)ポイントを押さえた脚本がツボだった(基本的にはバカ話で、ご都合主義なところも多いんだけど)。95分と上演時間が短いのも個人的には好印象。
 m@stervisionで「
ルーシー・リウ+モガ=片桐はいりなのだった(泣)」と書かれていたヒロインは、本当に片桐はいりにしか見えなかった。

2月1日(土)
 豊崎由美氏による舞城王太郎『阿修羅ガール』書評
 まったくの余談だけど、新潮社のサイトって、前からこんなアップルのサイトみたいなデザインだったっけ?


 宿題が残っているけど、とりあえず以下、『阿修羅ガール』の感想。

舞城王太郎阿修羅ガール』★★★
 好きでもない同級生の佐野とセックスしたアイコは、顔に向かって射精しようとした佐野を蹴っ飛ばしてホテルを出た。翌日、学校に行くと、アイコは仲間に昨晩はどこにいたのかと問いつめられる。佐野は昨晩から行方不明で、自宅に切断された足の指が送られてきたのだという。
 一方、犬や猫や三つ子の赤ん坊を殺したグルグル魔人が世間を騒がせていた。三つ子の父親の自殺をきっかけに、巨大掲示板「天の声」を中心とした「犯人探し」の動きが高まり、中高生が犯人であるという予断をもとにした狩り──「アルマゲドン」がはじまる。

 舞城スレを読むと、前半はつまらないけど、後半がおもしろい、という意見が多くて(といっても、3人くらい?)、ちょっと驚いた。ちなみに、上記のあらすじは、前半(というか冒頭)部分。第二部の途中までは、やっぱり舞城王太郎はすげえ、と思いながら読んでいたんだけど、「崖」の後半くらいから「???」が頭の中で点滅しはじめ、「森」で「う〜ん」となり、それ以降は足早に物語をまとめにかかったという感じで、決して退屈ではないものの、全体的にちぐはぐで、そのちはぐさが小説としてのおもしろさに繋がっておらず、どうも散漫な作品という印象を受けた。

 私が第一部から第二部の「崖」をおもしろいと思ったのは、作者の計算や技術がうまく機能していると感じたからで、逆にそれ以降がいまひとつだと思ったのは、作者の計算や技術の意図だけが露骨に見えてしまっているからだと思う。

 例えば、主人公であるアイコの人物造形というのは、かなり周到に考えられたもので、実はきわめて「文学的」であるといえる。男性が「想像力」を用いて書きうる「女性」として、個性/性別/性差の見極めが慎重に行われた形跡がうかがえる。しかし、その計算は勢いのある力強い文体によって、隠されているわけではないものの、ほとんど気にならなくなる。このあたりのバランス感覚は、きわめて優れていると思う。
 また、「空想上の人物」や「夢」のような、現実/虚構の境界線を、はなから存在しないように処理するのにも、この文体は非常に適している。「空想上の人物」との会話や、「崖」におけるいかにも「夢」らしいごく自然な突拍子のない展開は、非常にうまい(しかし、それが「夢」のようなものであることを語り手が意識しはじめてからは、ちょっとぎこちなくなっている)。

 しかし、これが「森」になると、途端にいかにもありがちなイメージをなぞるだけになってしまう。物語としての位置づけも、あまりに図式的で、個人的にはそれ以上の過剰さは感じられず、どちらかといえば退屈だった。第三部における文体の変化は、上記の豊崎由美氏の書評が指摘しているように、語り手の成長を意図しているとは思うものの、文体としての力強さは、あきらかに衰えている。くわえて、これは舞城王太郎のほとんどの作品に見られる欠点なんだけど、露骨に「主題」を語ってしまうということもあって、冒頭部に見られる無根拠な力強さに比較すると、語り手が成長したというよりはむしろ退行しているように感じてしまう。

 先日、「
何となくデビュー前の習作のリライトのような印象を受けた」と書いたのは、三つ子が殺された理由や金田の行動にかんする情報の提示方法にミステリに対する色気を感じたから(でも、あまりうまくいっていない)というのがひとつと、主題にかんする重要な情報(阿修羅像)が結末部でいささか唐突に提示されているのが技術的に後退していると感じたからというのがひとつと、他の作品が本筋と無関係なガジェット満載ながらもびしっと筋がとおっていたのに比べるとこの作品は主題の説得力が弱くて構成要素をまとめきれていないというのが主な理由。

2003年1月後半の日記へ 過去の日記リストへ トップページへ

02150212
02110210020902080207
02060204020302020201