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■2003年2月16日〜2月28日


2月28日(金)
 え〜と、はてなアンテナでネタバレ反転が無効になってしまう点にかんしては、(自衛を期待して)考慮しない方針でいたんですが、自分が加害者になってしまうと(たぶん、というか、確実に私ですね、これは)、やはり対策する必要があると考え直しました。

 とはいえ、ネタバレの記述やめる、というのは(私の性格的に)無理だし、更新内容を非表示にするのもできれば避けたい。となると、現時点で有効なのは、はてなアンテナの「アンテナ」画面に表示される範囲にはネタバレをしないということと、通常更新後、ネタバレのない部分のみ再度更新して、手動更新チェッカーを使って更新内容を再取得させることによって、ネタバレを含む文章が「詳細」画面に表示される時間をできるだけ少なくする、ということくらいでしょうか。

 以前は多少は意識していたんですが、ここ最近は、冒頭に書いたようにかなり適当かつ無責任になっていたので、手遅れではありますが今後は充分に気をつけたいと思います。申し訳ありませんでした。

 あと、Googleの検索結果に表示される抜粋も考慮すると、検索キーワードになりやすい著者名・作品名の前後にはネタバレを書かないほうがいいのかもしれません。以前、生垣真太郎『フレームアウト』で検索したら、自分のサイトで反転文字にした記述がもろに表示されていてあわてたことがあります。さすがにキャッシュは無視するしかないと思いますけど。


 若竹七海『船上にて』読了。「てるてる坊主」と「船上にて」が特によかった。続いて『スクランブル』を読みはじめる。

2月27日(木)
 MYSCON4に向けて若竹七海の未読本を少しでも減らそうと、まずは『船上にて』(短編集)を読みはじめる。やたらと後味の悪い作品が多い(特に「タッチアウト」と「優しい水」)なか、「てるてる坊主」の切れ味のするどさに目をみはる。

 これまで、若竹七海の短編集/連作短編集は『ぼくのミステリな日常』以外はまったく読んでいなかったので、とりあえずそのへんを中心にフォローするつもり。手もとには他に『スクランブル』と『サンタクロースのせいにしよう』がある。

 ちなみに既読作品は『ぼくのミステリな日常』『心のなかの冷たい何か』『水上音楽堂の冒険』『火天風神』『海神の晩餐』『八月の降霊会』『閉ざされた夏』『クール・キャンデー』(あとは『五十円玉二十枚の謎』)……と長編ばかりのうえに近作をほとんど読んでいないのは、一時期「連作短編集」を意識的に避けていたのと、『海神の晩餐』『八月の降霊会』『閉ざされた夏』の3作品があまり好みではなかったのが原因。

2月26日(水)
 前言を翻して「500文字の心臓」の投稿作をアップ。タイトルは「死」。


 1人目の妻とのあいだには2人の子供がいた。男女1人ずつ。妻は私が29歳のときに事故で死に、私は6年後に再婚した。2人目の妻とのあいだには娘が1人生まれた。妻は私が81歳のときに死んだ。
 1人目の妻とのあいだに生まれた息子は私が106歳のときに死に、娘は112歳のとき、2人目の妻とのあいだに生まれた娘は115歳のときに死んだ。
 5人いた孫のうち、1人は私が100歳になる前に若くして病で死んだ。残りは、1人は私が134歳のときに死に、2人は138歳、最後の1人は142歳のときに死んだ。
 曾孫は8人いたが、8人とも私が170歳になる前に死んだ。曾々孫は13人で、私が200歳になったときに残っていたのは1人だけだった。

 戦争がはじまったとき、私は214歳だった。血縁の最後の1人が死んだのは221歳のときで、2度の戦争を経て日本が滅びたのは258歳、最後に人の姿を目にしたのは499歳だった。
 1000歳をすぎて、私は年齢を数えるのをやめた。

 赤く輝く巨大な太陽の下、高温のために生命が死に絶えた世界で、私ははるか昔に死んだ妻や子や孫たちのことを懐かしく思い出している。



 おまけのボツ・バージョン。後半が異なります。


 1人目の妻とのあいだには2人の子供がいた。男女1人ずつ。妻は私が29歳のときに事故で死に、私は6年後に再婚した。2人目の妻とのあいだには娘が1人生まれた。妻は私が81歳のときに死んだ。
 1人目の妻とのあいだに生まれた息子は私が106歳のときに死に、娘は112歳のとき、2人目の妻とのあいだに生まれた娘は115歳のときに死んだ。
 5人いた孫のうち、1人は私が100歳になる前に若くして病で死んだ。残りは、1人は私が134歳のときに死に、2人は138歳、最後の1人は142歳のときに死んだ。
 曾孫は8人いたが、8人とも私が170歳になる前に死んだ。曾々孫は13人で、私が200歳になったときに残っていたのは1人だけだった。

 私は200歳をこえて年齢を数えるのをやめた。世界から人が減り、血縁は1人もいなくなり、やがて誰もいなくなった。

 どこまでも続く細く長い道を私は歩き続ける。道の両側は深い闇に閉ざされていて何も見えない。その向こう側には、同じようにどこまでも続く細い道が無数に並んでおり、そのひとつひとつを、かつては同じ道を歩いていた懐かしい人たちもまた、1人で歩いているのかもしれない。


2月25日(火)
 乾くるみ『塔の断章』(文庫版)読了。『Jの神話』よりおもしろかった。
 え〜と、
主人公の性別にかんするミスリードは、ほぼ100%作者の思惑にはまってしまいました(ちなみに、例外は「視点人物が2人いる可能性」を考えたことくらい)。これには、素直に「やられた」と思いました。
 一方、メインの仕掛けのほうは、ほとんど意味がないのでは、と感じました。というのも、この真相があかされても、作中ですでに「
主人公による事件の小説化」が示唆されているために、読者としては、すでに本編そのものを「現実のひとつ下のレベルに位置する〈現実を再構成したもの〉」として認識しているので、その「種類」が違うとあかされたところで、驚きにはつながらないと思うのです。例えば、『匣の中の失楽』や『魍魎の匣』の驚きが何からきているかといえば、それは「レベルの飛躍」の驚きで(『匣の中の失楽』であれば、それまで現実だと思っていたのが虚構だった、『魍魎の匣』であれば、虚構だと思っていたのが現実だった)、仮に小説のなかに登場する作中作が小説ではなく映画だった! といわれてもおそらく誰も驚いたり感心したりはしないでしょう。
 この趣向を有効に機能させようとするなら、もっと記述の現前性にこだわるべきだし(「塔の断章」の冒頭、「
その朝──部屋で着替えるを済ませると、わたしは階段ホールまで出た。」という記述からしてすでに再演的。もちろん、「走馬灯」なのだから「再演」ではあるんだけど、主人公の主観としては現前的であるべき)、主人公の視点と読者との距離は限りなくゼロに近づかせるべきだし(例えば一人称の主語の省略)、「序章」に仕掛けられたミステリ的な趣向はいっそのこと捨ててしまい、「終章」とあわせて一人称の記述を採用して読者に主観的な「死」を体験させることによって、はじめて「走馬灯」であることが意味を持つのではないか、と思いました。


 実は「500文字の心臓」の第2回自由題(選者は松本楽志さん)に投稿していたんですが、結果は「評なし」でした。なので、投稿作の公表はやめておきます。

2月23日(日)
 乾くるみ『塔の断章』(文庫版)を読みはじめる。
 ノベルス版では冒頭部で挫折したので(当時、「思わせぶりな、人物の特定が困難な記述によるプロローグ」のある作品に食傷気味だったのです)、今度は最後まで読みたいと思う。作者による親切な解説がついているようだし。


 最近、更新が滞りがちなのは、たんに怠けているだけです。眠い……。

2月20日(木)
 いったん中断するつもりだったのに、結局、丹生谷貴志『家事と城砦』を読み終えてしまった。
 これは「文藝」に連載されていた「文藝時評」の1999年春季号から2000年冬季号掲載分をまとめたもの。個人的には、最後に収録されている「三島とリアリズム」が一番おもしろかった(この評論のみ「ユリイカ」に掲載されたもの)。三島由紀夫は1冊も読んだことがないんだけど。
 総じて「文藝時評」っぽくない文章が収録されているなかでは、比較的「文藝時評」らしいといえる、村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』を詳細に分析した「壜の中のメッセージ」が一番おもしろくないのはどういうことだろう。村上春樹は1冊も読んだことがないんだけど。

 以下、この本を読んでいて思いついた、本の内容とは直接関係がないメモ。

 
どこか知れない場所で営々と続いているらしい「万里の長城」の設営に「男たち」が出掛けてしまった後に、「女子供たち」は真の意味での「家事としての文学」を取りかえすだろう!(P.209)
 この一文を読んで、私はなぜか恩田陸の「待つこと」について言及されるいくつかの作品を思い出した(『球形の季節』や『月の裏側』)。私が『ロミオとロミオは永遠に』が好きではないのは、この小説が「万里の長城」の設営に旅立つ「男たち」の物語だからなのかもしれない。

 舞城王太郎『暗闇の中で子供』の宇宙人云々、という部分は、三島由紀夫『美しい星』が念頭にあったのだろうか。
(「お父さま、来ているわ、来ているわ」という娘の言葉に導かれて、末期癌の父の前に遂に現実に現れる「迎えの空飛ぶ円盤」!)(P.197)


 ところで、16日の日記に書いた「
佐藤友哉や西尾維新について語るときに酒鬼薔薇聖斗の名前がごく当然のように象徴的な存在として出てくることに対して感じる違和感の正体」というのは、結局のところ、酒鬼薔薇聖斗の名前が出てきた瞬間、彼らの書く小説の「なぜ書くのか」「なにを書くのか」という点だけが注目され、「どのように書くのか」という点が完全に切り捨てられているように感じるからなのかもしれない……。

2月19日(水)
 丹生谷貴志『家事と城砦』を読んでいる。その必要もないのに最初から最後まで通して読むつもりでいたんだけど、ひどく疲れるのでいったん中断する。決して退屈なわけではない。整理のつかない言葉の断片が頭のなかで無秩序に動きまわっていて、その状態のまま次の言葉が頭のなかに入ってくるので、私の処理能力が追いつかないのだ。いや、もともと明確に文章を理解しながら読むというよりは、思考をイメージとして漠然とたどりながら読んでいるにすぎなくて、率直にいえば理解が及ばないところも多いし、内容を要約することもおぼつかないのだけれど、この人の書く独特の文章はやっぱり好きだ。

 
……こうして、或いは三島由紀夫が大江氏に託した(!)「文学」の未来が一つの──一応の──解答を見出すことになる……「幼児性なるもの」の場にありつづけたまま、つまりは本質的崩壊性、アナーキー性において存続し開かれてあるような「文学」の可能性が開示される……たぶん、少しの間……。(下線部は原文では傍点/P.66)


 佐藤亜紀『戦争の法』復刊決定!

2月16日(日)
 なぜか無性にデスメタルが聴きたくなって、スウェーデン出身のメロディック・デスメタル・バンド、At The Gatesの4thアルバム『Slaughter of the Soul』(1995)を引っぱりだしてくる。そんなにメロデスは数を聴いているわけじゃないんだけど、同種の音楽のなかでは一番好きなアルバム。


 ちょっと思うところがあって丹生谷貴志『死者の挨拶で夜がはじまる』に収録されている「『名づけ得ぬもの』と『語り得ぬもの』」を読み直す。「思うところ」というのは、佐藤友哉や西尾維新について語るときに酒鬼薔薇聖斗の名前がごく当然のように象徴的な存在として出てくることに対して感じる違和感の正体を明確に書きたいと思ったからなんだけれども、久しぶりに丹生谷貴志の文章を読んでいたら頭のスイッチが切り替わってしまい、そのまま続けて未読だった『家事と城砦』を読みはじめてしまう。

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