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■2003年3月1日〜3月15日


3月15日(土)
 法月綸太郎『法月綸太郎の功績』を再読終了。まにあった。
 ちなみに初読時の感想はこちら

3月14日(金)
 MYSCONにそなえて法月綸太郎『法月綸太郎の功績』を再読中。

3月12日(水)
 関田涙『蜜の森の凍える女神』読了。
 やっぱりタイトルは『ハニー・デイズ』のほうがよかったと思う。

 いろいろと気になった点はあるが、特に語り手が15歳の少年とは思えないのがつらいところ。15歳の少年がこんな硬い文章を書くはずがない、なんて野暮なことはいわない。しかし、例えば、「
今風の三つボタンの細身のスーツ」(P.145)という表現があるんだけど、普通のシングルのスーツを15歳の少年が「古くさい」と表現するのはまだわかるとして、「三つボタンの細身のスーツ」を「今風」と表現するのは、それよりも過去の世代に属する人物に限られるのではないかと思う。独特の語彙や表現は、少年の「早熟ぶり」や「背伸び」と受け取れないこともないが、そういった設定上の年齢と、ものに対する視点とのずれに、作者の姿が透けて見えるのが気になった。
 詳細な感想はまた後日。


「週刊少年マガジン」連載の水泳マンガ『GOLDRUSH!』(山下たつお)はかなりおもしろいと思っていたので、打ち切りと思われる連載終了は非常に残念。私の周囲では評判がよかったんだけど、まあ、みんな三十路だしな。

3月11日(火)
 
井上夢人氏の個人的事情により、井上夢人氏及び岡嶋二人氏の作品、エッセイ等をe−NOVELSより削除することとなりました。(情報元:LockedRoom

本格ミステリ作家クラブ」も退会しちゃってるし、『99人の最終電車』は現状ではどうなっているのかよくわからないし、『クリスマスの4人』以降、新作の話は聞かないし、いったいどうしたんだろう? 書き下ろしの新作長編でも発表して、読者を安心させてほしいものだ。


3月10日(月)
 関田涙『蜜の森の凍える女神』を読みはじめる。まだ序盤。
 2ちゃんねるのどこかのスレで見かけたこの作品の登場人物にかんするある記述が、どうやらネタバレだった予感。確かメフィスト関連のスレだったと思うので、これから『蜜の森の凍える女神』を読もうと思っている方は、避けるのが吉(一見するとネタバレではないっぽいんだけど、どうも伏せられている情報のように思えるので)。


 こういうクローズド・サークルもので、登場人物を同じ場面で何人も登場させてしまうのは、メリットよりデメリットのほうが大きいと思うんだけど、いまだに登場人物が一堂に会す歓談風の場面から「事件」を語りはじめる作家が多いのはなぜなんだろう。
 理由のひとつは、時系列どおりに素直に書くとそうなってしまうということで、それに付随するもうひとつの理由としては、おそらくジャンルの形式というか、様式美のようなもので、複数の容疑者を予断の入り込む余地のないよう等しく同じように扱おうとすると、やはり、同じ場面で同時に登場させることになるのだろう。つまり、『金田一少年の事件簿』(『探偵学園Q』でも可)が毎回律儀に繰り返している、人物の登場にともなって名前と肩書きがキャプションとして画面に表示されるような、「容疑者一覧」としての場面ということだ。
 たいてい、簡単な容姿の描写と、その人物の性格を端的に示すような言動が示され、誰と誰が仲が悪いらしいといった表向きの人間関係が提示されるわけだが、これは読者である私の問題なのかもしれないけど、そういった場面で登場人物(やその相関関係)を把握できることは、ほとんどない。しばらく読み進み、いくつかの場面を経て、ようやく登場人物の区別がつくようになる(区別がつかないままのこともたまにある)、という具合だ。
 極論をいえば、その「容疑者一覧」としての場面はほとんど有効に機能していないということで、それなら、いつでも参照できるぶん単なる一覧表のほうが有益だし、だとしたら、そもそもそんな場面を冒頭近くにおく必要はないのではないかと思うんだけど、作家としては、先に全体の図式を示してから細部について語りたいものなのだろうか。
 個人的には、冒頭部の登場人物が一堂に会する場面で(作者による、読者に対する)人物紹介をやろうとする作品は、それだけで「サービスが悪い」と感じる。

3月9日(日)
 ここのところ、Power Mac G4を起動すると時刻設定がリセットされてしまうので、早くも内臓電池がきれたのかと思っていたんだけど、どうやらMac OS X 10.2.4の不具合らしい、ということを今日になって知った。今のところ対処方法は「ネットワーク・タイムサーバ」を使用して時刻を同期するしかないようだ。
 自宅の接続環境だと、ブラウザからユーザー認証をして接続する仕様なので、起動するたびに手動で「システム環境設定」から「時刻を今すぐ設定」しなくてはいけないのが面倒くさい。早くアップデータを出してほしい。


 以下はどちらも昨日の話題。


 関田涙『蜜の森の凍える女神』と西尾維新『ダブルダウン勘繰郎』購入。

『蜜の森の凍える女神』は投稿時のタイトル『ハニー・デイズ』のほうが良かったのに(まだ読んでいないので内容云々ということではなくあくまでタイトルとしての好み)、と思ったんだけど、著者のサイトを見ると、(続編とあわせてタイトルを)「
三作並べるとある言葉が浮かび上がってきます」という趣向らしいので、編集サイドからの要望というわけではなく、あくまで著者自身の意志で改題したということなのだろう。
 それはともかく、帯に「
メフィスト賞が変わる!?」と書かれているのは、とりあえずカバーの箔押しをやめたということ以外に何かあるのだろうかと楽しみにしている。まあ、単なる惹句にすぎないというのは過去の経験から充分に予想できるので、過剰な期待は禁物だろうけど。


 親知らずを抜いた。去年、親知らずを抜いたときは、下側の歯で、そのうえ隣の歯に引っかかって斜めに生えていたということもあって、抜いたあといつまでも痛みがひかず、歯医者でもらった痛み止めだけではたりなくてバファリンを買って6時間おきに飲み続けていたんだけれど、今回は上側の歯ということもあってか、抜歯自体拍子抜けするくらいあっさりと終わり、今のところほとんど痛むこともなく飲み食いにも支障がないので助かっている。
 去年抜いたのは左下で、今回抜いたのは左上、あと、右側の2本が残っていて、こちらも追って抜く予定なんだけど、右下の歯を抜くのを考えると今から憂鬱になる。

3月8日(土)
 若竹七海『サンタクロースのせいにしよう』読了。ちょっと変則的な「日常の謎」系の連作短編集。収録作のなかでは比較的異質な「虚構通信」が一番よかった(『船上にて』のいくつかの作品に似た印象の味わい)。全体としてはそれなりにおもしろかったけど、何となくものたりないのも確か。
 次は角川ホラー文庫の『遺品』を読むつもり。


 佐藤亜紀、文部科学大臣新人賞を受賞。(
情報元・2ちゃんねる文学板「佐藤亜紀」スレッド
 おお、これで佐藤亜紀も「文化人」の仲間入り?(←よくわかっていないので適当なコメント)

3月6日(木)
 吉野仁氏の「弧低のつぶやき」より引用。

 
そこで思いだしたのが、馳星周氏がよく使う「誰もがトチ狂っている」との言葉だ。これに対して、某本格ミステリ「トンデモ論」作家が、某所で「これは矛盾している」と分かった風に指摘していた。3月2日

 この発言についての後日の補足が以下のとおり。

 
ついでに前回の話だと、なぜか某所で、吉野仁は『本格ミステリこれがベストだ! 2002』(創元推理文庫)のある文章に対する批判を書いているのだ、と断定されてしまっているようだ。ちがいます。別な文章でした。そもそも、その文庫、ちゃんと読んでないかも。もちろん意図的に論点をずらして書いているし、わたしの書きたかった話はあくまで映画「ゲームの規則」(のパラドックス的な世界観について)。
 やはり書き方が悪かったのか、と反省。
 こういう場所で微妙な問題を的確に伝えるように書くことの難しさをあらためて感じた。書いた内容にトンチンカンな反応が返ってくることはしょっちゅうあるけど。うーむ。もっとも、それこそが「ゲームの規則」なのかもしれないが。
3月5日

 曖昧にぼかして批判的なことを(本題のついでに)書き、その内容について「こういう意味ではないか」と指摘されると、「それは違う」というだけで、では、具体的になにをさしていたのかは明かさないというのはずるいと思う。この文脈で「
書いた内容にトンチンカンな反応が返ってくることはしょっちゅうあるけど」と書くことが、どういう意味を持つ可能性があるのか、まさか自覚していないとは思えない。少なくとも私には、「書いた内容にトンチンカンな反応が返ってくることはしょっちゅうあるけど(今回のように)」という含みがあるように読めた。これは反感ゆえの極端な誤読、ではないだろう。
 これらの文章は、おそらく「OK's Book Case」から、2ちゃんねるの「このミステリサイトを読め【ゆかいな仲間たち】」までのさまざまな反応を念頭におきながら、文章ごとに微妙にその矛先を変えつつ、再批判を受けた際の逃げ道を確保して書かれているように読める。

 加えて、3月5日には別の話題として以下のような記述がある。

 
いや、3流以下もまたそれなりに貶めようと面白がる卑しい連中のはけ口対象になることはしょっちゅうだけど。でたらめをまるで事実であるかのように伝えていく悪意の人たち。わたしも誰かにそう思われているのだろうか。3月5日

 この文章を上記の話題と関連づけて読んでしまうのは、やはり誤読だろうか?
 まあ、別に(書き手にとって)誤読だったとしてもかまわないんだけど、とりあえず「関連がある」と判断して話を進めれば、対象を明確にせず批判的なことを書いているのだから、「
でたらめをまるで事実であるかのように伝え」られる責任の一端は吉野氏自身にあるのではないかと思う。

 というか、もしかしてこれらの記述は、吉野氏自身が「
誰もがトチ狂っている」と判断しつつ、「ときに自分自身も狂っているかもしれないことを(心のどこかで)自覚しているのかもしれない。あくまで「わたしはだけはまともだ」と思いながら、自分がおかしくても不思議ではないことをうすうす感じている」主体としてのパフォーマンスなのでしょうか?

3月5日(水)
 大塚英志『キャラクター小説の作り方』読了。それまでの技術論から一変する終盤の論旨の展開はなかなかおもしろかった(主張に全面的に同意するわけではない)。しかし、この作者の「文学」という言葉の使い方を読んでいると、「文学」という言葉が「かぎかっこ」で括られている理由が、厳密な定義を宙につるための「いわゆる文学」の意味ではなくて、単なる強調に見える。「私」は虚構である、と書きながら、一方で「文学」という確固としたものが確かに存在していることを微塵も疑っていないように見えるあたりが、何とも落ち着かない。


 この本を読んでいたら、久しぶりにテーブルトークRPGをやりたくなってしまった。
 私がテーブルトークRPGにはまったきっかけは、「コンプティーク」誌で連載していた『ロードス島戦記』のリプレイで、今となっては有名な以下のような展開を読んだからだったりする。

 パーティの前にあらわれた魔女。その魔法によって、パーティのメンバーは眠らされてしまう。ただ1人、魔法に耐えた僧侶のプレイヤーは、咄嗟に「寝たふり」をして魔女をやりすごす。

 すごい、こんなこともできるのか! と当時、中学生だった私はたいへん感動した。もともとファミコンではなくMSX中心にゲームをやっていて、アクションゲームよりアドベンチャーゲームを好んでいたのだが、当時のアドベンチャーゲームは「頭を使う」というより、単に「手当りしだいに正解を探す」といった感じのものが多くて、謎解きともいえない謎解きに終始するゲーム性に限界を感じていたのだ。
 そんな理由もあって、私はテーブルトークRPGの自由度の高さに心底驚き、そして、すっかりはまってしまった。いや、単なる個人的な思い出話なんだけど。

3月4日(火)
 若竹七海『スクランブル』読了。Mystery Laboratory若竹七海アンケートで(現時点では『ぼくのミステリな日常』と同点)1位なのも納得の作品。
 ただ、(特に前半3編の語り手である3人は)登場人物の区別がつきづらく、そのため、一編ごとに視点人物が変わるという趣向に「情報の分割」以上の意味が薄いのが難点。他者から見た外面と、主観的な内面が何の違和感なく繋がってしまうのは、ちょっと物足りない。

 とはいえ、こういう博打っぽいトリック(
作者にとって)は結構好きで、作中にも名前が出ている小泉喜美子の作品を思わせる(これは伏せ字にする必要はないと思うけど、一応)。

3月3日(月)
 昨日の日記で、大塚英志『キャラクター小説の作り方』にからめてわざわざ高橋源一郎の名前を出したのは、大塚英志が「あとがき」で「(前略)
明治後半のこの国の「文学」が言文一致体や写生文や自然主義を必要としたように、ぼくがキャラクター小説としか今のところ名付けようのない形式の中に新しい現実に対応する小説の作法がある気がするからでもあります。」(P.308-309)と書いていたからで、「言文一致」にかわる「小説の言葉」を自覚的に模索していると思われる高橋源一郎が、「キャラクター小説」にかんしてどういう見解をもっているのだろう、とふと思ったから。
 高橋源一郎自身にかんしては、おそらく口語的な表現に(あくまで相対的に)可能性を見いだしていると思われ、どこに書かれていたのかは思い出せないのだけれど、舞城王太郎『熊の場所』について、そのくだけた口語的な文体を評価しているという意味のことを書いていた(という記憶がある。本当は断言したいところなのだが、今ひとつ記憶が定かではなかったりする)。

 もっとも、一方は「表現内容の形式」について語っており、一方は「表現手法(≒文体)」について語っているのだから、そもそも関連づけること自体に意味がないのかもしれないけど。

3月2日(日)
 大塚英志『キャラクター小説の作り方』をぱらぱらと読む。おもしろい。まだ半分くらい。

 そういえば、大塚英志『物語の体操』(未読)の帯を高橋源一郎が書いていたけど、高橋源一郎が(狭義のスニーカー文庫的な)「キャラクター小説」に言及しているのを読んだことがない気がする(少女小説にかんしてはいくつかあったと思うけど)。単純に興味がないのかな?

「角川スニーカー文庫」と「富士見ファンタジア文庫」って、どっちが先に発刊されたんだろう? と思って検索して調べてみたんだけど、「角川スニーカー文庫」の発刊時期がはっきりしない。私の記憶では「富士見ファンタジア文庫」のほうが先だったような……。
 まあ、別にどっちが先でもいいんだけど。


 読み終えているのにまだ書いていない小説の感想を今日こそまとめて書こうと思っていたんですが、いろいろとあって挫折。自分用のメモとして、忘れないようタイトルを記しておこう。
 東野圭吾『ゲームの名は誘拐』、伊坂幸太郎『ラッシュライフ』、小川勝己『葬列』、竹本健治『クレシェンド』、乾くるみ『塔の断章』、若竹七海『船上にて』。

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