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■2003年4月1日〜4月15日


4月15日(火)
 以下は以前にも引用したことのある高橋源一郎『ジェイムス・ジョイスを読んだ猫』収録の「『ゲームの規則』改訂版 ──蓮實重彦『物語批判序説』を読む」からの引用。

 
そしてぼくたちはこのゲームの規則の改定に着手する。
 改訂されたゲームの規則。それは改訂される前のゲームの規則とほとんど同じものになるだろう。ちがうのは、ぼくたちが、このゲームの規則を知っていること、そして幾つかの附則がつけ加えられることだけだ。
 附則1 規則を楽しめ。
 附則2 規則を守れ、と声に出せ。
 附則3 規則は規則にすぎない。
 附則4 附則1〜3を守りつつ、少しずつ、だが大胆に、優雅に、逸脱せよ。健康に注意せよ、リラックスせよ。
 附則5 以上が確認できたら、さいごに規則の存在を忘れよ! ボン・ヴォヤージ!
(講談社文庫・P.147)

 私が「小説」(に必ずしも限らないんだけど)に求めているのは、たぶん、このような態度なのだと思う。

 おそらくそれは、「小説」がどんなにあがいても「かぎ括弧」でくくられてしまうことから逃れられないことと無関係ではないだろう。逆に、「小説」が「何でもあり」なのは、その「かぎ括弧」によって保証されているともいえる。もちろん、「かぎ括弧」など存在しないように書くこともできる。「かぎ括弧」の「外」を目指すこともできるし、「かぎ括弧」を突破しようとすることもできる。しかし、その振る舞いは書き手の意図とは無関係に、その限界、その不可能性を露呈させる結果にしかならない。

 仮に「文学作品」と「エンターテインメント作品」のあいだに境界があるとしたら、それは「かぎ括弧」の存在に自覚的であるか無自覚であるかの違いではないかと考えている。

 いわゆる「エンターテインメント」としての「小説」は、その「かぎ括弧」の内側でいかに巧みに「物語」を語るか、ということに尽きると思う。現代的だったり普遍的だったりする「主題」や「問題」も、「物語」に奉仕する装置にすぎないし、むしろ、そうあるべきだと思っている。私はよくできた「物語」が大好きだし、半端に「かぎ括弧」に対して目配せした作品よりは、「かぎ括弧」の内側で完結する娯楽に徹した作品を好む。

 では、「かぎ括弧」の存在に自覚的であるとして、「小説」はどのように振る舞うことができるのか。具体的な方法は当然ながら個々の作品によって異なるわけだが、きわめて個人的な好みでいえば、「主題」や作中で扱っている「題材」の強度のみで「かぎ括弧」を突破できると考えている(ように見える)作家の作品、あるいは自分の用いる方法で「かぎ括弧」を突破できる(すでに突破した)と確信している(ように見える)作家の作品には、あまり興味を持てない。まあ、読まずに無視すればいいだけの話なんだけど。

 問題は、無視できない作家の場合。つまり、舞城王太郎のこと。『暗闇の中で子供』『阿修羅ガール』『九十九十九』の構成や主題の提示方法を見ていると、どうも舞城王太郎は本気で「かぎ括弧」を突破できると信じているように思える。あくまで私の主観的な感覚の話で申し訳ないのだが、それは「戦略的な愚直さ」とも違うように思え、どこか違和感を拭えない。


 2点、追記しおきます。まず、現在の風潮からすると、私の立場のほうが反動的であることは認識しています。また、引用部分からこのような論旨を展開するのは、我田引水の誹りをまぬがれないであろうことも自覚しています。

4月13日(日)
  舞城王太郎『九十九十九』の結末は、古谷利裕氏の偽日記1/17付『煙か土か食い物』評の以下の文章に対する、あまりにそのままの回答のようにも読める。

(前略)
そこで開かれるのは「あたかも独り言だけしかないような中性の領域」(=個の領域)などではなく、「家族」という、決して同一ではないが、しかし未分化であるような、逃れ難く耐え難い「ぐちゃぐちゃ」な相互依存の空間であり、問われているのは、そこからの脱出の可能性と不可能性であろう。
(後略)

「家族」という言葉は、同時に「ミステリ」とも置換可能で、この作品が仮にその両者から「外部」への脱出の試みだとしても、その先に目指すものがいわゆる「文学」でなければいいなぁ、と思う。

4月12日(土)
 以前のようなフォーマットに則った形で小説の感想が書けなくなっているのは、何というか、読み終えた直後にある評価をくだすことが半ば強迫観念のようになりつつあり、「結論」を早急に出すことに疲れてきたからで、もちろん、以前から「とりあえず」の評価であることは自覚しつつあえてそういう形式を選択したわけなんだけれども、「とりあえず」とはいえ、いったん出してしまった「結論」というのは意外と強固で、その「結論」にたいていは満足してしまい、私はその作品について考えることをやめてしまう。ちょっとした発見をしたり誤読から推論を立ててみたり誤読に気づいて訂正したり他の作品を参照したりそれらを文章として書いてみたりといった行為は、もちろん、「とりあえず」の「結論」を出したあとでもやろうと思えば可能なはずなのだが、感覚としてその作品はすでに私にとって過去のものになっており、ごく一部の例外を除いて、もうそんな気にはならない。
 それが何となくもったいない気がするのだ。ある作品について、読んでいる途中に何か書き、読み終えてからまた何か書き、ぼんやりと思い返しながら何か書き、別の作品を参照して何か書き、というだらだらしたスタイルのほうが、私にはあっているのではないかと感じている。


 例えば舞城王太郎『九十九十九』。この作品について、全体の「評価」めいたものを書こうとすると、私は途方に暮れてしまう。おもしろかったかと問われればおそらく私はおもしろかったと答えるだろう。不満はなかったのかと問われれば不満はあると答えるだろう。あとはそれを文章として書けばいいだけなのかもしれない。どこがおもしろかったのか。冒頭の赤ん坊による一人称記述。途中でちょっとだけ登場する一人称と二人称と三人称が入り混じった文章。「美しすぎるために顔を見たものが失神してしまう」という「九十九十九」の設定の戯画的だかどこか独特のリアリティを感じさせる表現。探偵役による事件の「真相」の捏造。常軌を逸した「見立て」とイラストによる解説。饒舌な語り口。どこが不満だったのか。だから何? と思ってしまうメタ・フィクション的な構成。ほとんど違いのわからない主人公の恋人(妻)たち。物語の構成や主題について説明しすぎる語り口。
 それらは、「おもしろかったけど、不満もある」ではなく、「不満もあるけど、おもしろかった」でもない。両者はほとんど同じくらい、無関係に両立しており、あるいは密接にかかわっており、おそらくどちらも私にとっては「正しい」。おもしろかったし、つまらなかった。興奮したし、退屈した。すごいと思ったし、くだらないと思った。
 いま、私は『煙か土か食い物』を再読している。それによって、『九十九十九』についてまた何か書こうと思うかもしれない。逆に、『煙か土か食い物』のなかに何かを「発見」するかもしれない。それはまた別の機会に書くかもしれない。


「群像」5月号を購入。いずれ読もうと思っている埴谷雄高『死霊』についての鶴見俊輔と高橋源一郎による対談が掲載されていたので。以下、印象的だった発言の引用。

高橋 (前略)考えてみれば、これは、単に頭のおかしい引きこもりたちがずっと会話しているだけの小説ですからね。(笑)それも日常語ではなく、変な言葉で。(P.219)

4月10日(木)
 舞城王太郎『九十九十九』読了。これは、数日中にまとまった感想を書くつもりです。
〈奈津川血族物語〉が好きな人であれば、JDCシリーズに興味がなくても、楽しめるのではないかと思います。清涼院流水のJDCトリビュートという、まあ、いってしまえばイロモノ企画にも関わらず、詰め込まれたガジェットや趣向のボリュームは、今までのどの作品よりも盛りだくさんになっています。もちろん、作者の手によるイラストもあり。
 とはいえ、個人的に舞城王太郎作品に感じる微妙な違和感の原因が少し明確になってきた気もしていて、そのあたりは後日の感想でまとめてみたいと思っています。

4月9日(水)
『阿修羅ガール』もそうだったんだけど、いま読んでいる『九十九十九』も、冒頭は「うお〜、舞城すげ〜、やっぱ天才!」とか思いつつも、読み進むにつれだんだんと(読者である自分の)テンションが下がってくるのがはっきりとわかる。特定の作家に入れ込むのはいいとして、ものすごいスピードで「消費」してしまっているような気がする。


ヘリオテロリズム」のほうで、hglo2さんと、舞城王太郎『九十九十九』に関連して、「清涼院流水と大量死」についてのやりとりがありました。初期作品の印象のみで抱いていた清涼院流水に対する認識がちょっと変わりました。興味のある方はどうぞ。

4月7日(月)
ミステリ系更新されてますリンク」に、「ヘリオテロリズム」ともども加えていただきました。


 このサイトでは「新本格」以降の国内ミステリ作品を中心に取り扱っています。わりと意識的に動向をチェックしている作家の名前としては(非ミステリ作家を含む)、舞城王太郎、小川勝己、麻耶雄嵩、佐藤友哉、西尾維新、法月綸太郎、伊坂幸太郎、竹本健治、歌野晶午、京極夏彦、佐藤亜紀、奥泉光、高橋源一郎、三浦俊彦、金井美恵子、といった感じでしょうか。
 明確な主義主張があるわけではないのですが、本の感想では、作品に対する批判的な表現を特に退けようとはしていません。また、反転文字によるネタバレを含む場合があります。著者別索引から過去の感想をたどっていただければ、だいたいの方向性を察していただけるかと思います。どちらかというと、物語の内容やテーマよりも、技術的な側面に目を向ける傾向があるようです。


 舞城王太郎によるJDCトリビュート作品『九十九十九』購入。598ページ、税別1,500円。


 memoにも書きましたが、「まったりcafe」オフ会(→詳細)に参加します。なんと、OKさんも参加されるとのことで、お会いできるのが非常に楽しみです。しめきりは4/12(土)とのこと。

4月6日(日)
 庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』中公文庫版巻末に付されている佐伯彰一による解説には、この作品の風俗小説としての側面を評価して、以下のように書かれている。

(前略)
たしかに電話のいちじるしい普及と、とくに若い世代における電話愛好癖は、最近の見逃しがたい新現象であるのに、案外現代小説には描かれていない。(P.167)

 文末の日付によれば、これは1973年の6月に書かれたものであるらしい。「
電話のいちじるしい普及」ってそんな最近なの? とちょっと驚いた(この作品が刊行されたのは1969年8月。高校三年生である主人公は学園紛争によって東京大学の入学試験が中止になる学年なので、ほぼリアルタイムということになる)。
 物語は主人公が女友達に電話をかける場面からはじまる。携帯電話、というのは当然存在しないから、相手の家の電話にかけることになる。電話に出るのは女友達の「ママ」で、電話をとりついでもらう前に、ひとしきり会話をかわさなくてはならない。もちろん、電話はコードレスでもないから、主人公はコードを引っ張って客間の隅に持ち込むことになる。具体的な描写はないものの、おそらくダイヤル式の黒電話なのだろう。ここまでは私にもわかる(私は1972年生まれ)。
 作中では「電話の普及」にかんする特別な記述はなく、ごく当たり前に電話をかけるシーンが描かれており、私も感覚的に違和感なく読めたので、逆に解説の一文にひどく驚いたのだった。

 それに関連して思い出したのが、「Soft You Now」の以下の文章。

 
押井守1993年の作『機動警察パトレイバー2』はいま見てもぜんぜん古びていないのがすごいのだけど、そのわけは横浜ベイブリッジ爆破テロにより戦争状態が引き起こされるというストーリーの予見性よりもむしろ、すべての人が携帯電話を持っている世界をごく自然に描いている点だと思う。詳しく見ていくと実は固定電話もけっこう出てくるのだけど。(引用元はこちらの2002年12月25日付)

 比較的新しい風俗的な細部をフィクション内で描くとき、その先、数年、十数年、あるいは数十年通用する形で描けるかどうか、というのは、当たり前だけど作品の寿命と無縁ではないのだろうな。

4月5日(土)
 くらもちふさこα』上・下。
「α」と題されたSFあり恋愛ありコメディありの(一見)それぞれ独立した短編6編と、「+α」と題された、「α」という連作ドラマに出演する男女4人の役者の物語が6話、交互に語られる構成になっている。
 私は、「OHP」のレビューにある「
単行本で読む場合はまず「α」だけまとめて読み、その後「α」「+α」を通読していく……という2回読みをするのがオススメ」という読み方を試してみた。この読み方は、「α」のパートを2回違う楽しみ方ができるので、得した気分になれる。

 くらもちふさこは物語の構成がうまい、というのは今さらいうまでもないことだと思うけど、この作品でもその技量が存分に発揮されている。多用される手法のひとつを大雑把に要約すると、登場人物の行動原理には一貫性があるが、その行動原理の一部があからさまではなく隠されているため、物語の序盤ではその言動から異なる意味が読み取れるようになっており、物語の終盤に行動原理が明かされることによって、それまでの行動の意味が書き換えられ、ちょっとしたサプライズとして機能する、ということがあって(例えば『海の天辺』)、手法そのものとしてはありがちといえばありがちなんだけど、それを作品の中で活用するのが抜群にうまいと感じる。以下、ちょっときわどいネタバレに近い形で書いてしまうと、「α」第2話で落ち着きなく店内を見回す主人公の視点にもちゃんとした意味があったり、大学での会話が一種のミスディレクションとして機能していて、その直後の行動の本当の意味を隠している、とか、さりげない形で実に巧妙に物語を組み立てている。
 物語の構成だけではなく、絵の表現も実に説得力があって、例えば耀という登場人物がいて、美人ではあるけれど決して「かわいい」というタイプのキャラクタではないのだが、主人公(女)がちょっとした仕草を見て「かわいい」と思う場面があって、そのときの仕草は本当に「かわいい」と思える。
 なにより、30年ものキャリアがある漫画家であるということが信じられないくらい、物語にも絵柄にも「古さ」を感じさせないあたり、本当にすごいと思う。

4月4日(金)
 今さらなんですが、30000ヒット記念イラストの色調を修正したものを再アップしました。多少、ましになっていると思います。
 色調確認用にサブのCRTを買うべきかもしれない。


 最近の読了本。西尾維新『ダブルダウン勘繰郎』、庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』、有栖川有栖/太田忠司/麻耶雄嵩/若竹七海『ミステリ・アンソロジーV 血文字パズル』。

4月2日(水)
 はてなダイアリー「ヘリオテロリズム」は基本的には簡単なメモばかりで、内容も、こちらと重複する場合もありますが、わりと頻繁に更新してます。
 あ、トップページのタイトル下にあるはてなダイアリーへのリンクが間違っていたのを修正しました。

4月1日(火)
 小川勝己新刊情報。
 ・『葬列』文庫化 5/24発売
 ・『ぼくらはみんな閉じている』 5月発売
 新作は短篇集らしい。
 ちなみに情報元は例によって2ちゃんねるの小川勝己スレッドから。


【以下はエイプリルフールのネタで、実在しない小説の感想です。】
 
加賀都志馬『柩の塔』読了。第2回NEXT賞受賞作。
 双子のような55階建てタワーマンションを舞台にした吸血鬼ホラーで、タイトルが示しているように、それぞれのマンションの一室一室を「柩」に見立てている。吸血鬼ものとしてはかなりオーソドックスな作りで、前半では、マンションに引っ越してきた一家(吸血鬼)が少しずつ仲間を増やしていく過程と、それぞれ問題を抱えている主人公たちの日常が淡々と語られていく。後半に入り、主人公たちが合流してからは一転して吸血鬼との派手な戦闘シーン(銃器使用)の連続となり、同時に発生した火災によるパニック・サスペンス的な展開を見せることになる。
 例えば小野不由美の『屍鬼』とは違って、吸血鬼となったものの悲劇、のような視点はほとんどなく、もちろん、吸血鬼となった肉親に襲われるといった定番ともいえる場面はあるにはあるんだけど、善悪の価値観が大きく揺らぐようなこともなく、わりと単純な世界観に徹しているため、あるいは物足りなく感じる人もいるかもしれないが、個人的には和製「モダンホラー」の娯楽作品として楽しめた。実際、章タイトルは『呪われた町』『奴らは渇いている』『殺戮のチェスゲーム』『フィーヴァードリーム』といったモダンホラーに属する吸血鬼小説のタイトルからとられている。
 また、結末部にはあきらかに
綾辻行人『殺人鬼』を意識していると思われるミステリ的な趣向もあるので、ミステリ読者にもおすすめ。

 しかし、せっかくホラー小説を書いたのに、なぜ同じ角川書店とはいえわざわざNEXT賞に送ったのかは謎。
 詳細な感想はまた後日(たぶん……)。


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