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■2003年4月16日〜4月30日


4月30日(水)
 探偵小説研究会・編著『本格ミステリこれがベストだ!』購入。タイトルや執筆者やとりあげられている作品から興味を覚えたものだけを拾い読み。
 別にこの本に限った話ではないんだけど、こういった「年間総括本」に対する興味が年々薄くなっているのを感じていて、例えば「2002年本格ミステリ10選」にあげられている10作品のうち、既読のものは5作品だけなんだけど、残りの5作品をあえて読もうという気にはならないのだった(まあ、これは私の性格の問題かもしれない)。


 それはともかく、西尾維新のインタビューを読んで、なぜ私は「思わせぶりな世界設定」が嫌いなのかと考えてみた。とりあえず、関連する発言を引用してみる。

巽 作品の設定の中で、背後でいろんな陰謀が企まれていて、その全体がよく見えない、登場人物のそれぞれが陰謀に操られているような感じがいつもありますね。これはご自分では意識的に。
西尾 わりと意識的です。だから巨大にして得体の知れない世界があってその一部分ですよね、書いているのは。
巽 そういうふうに世界を作っていきたいという動機は何ですか。
西尾 面白そうじゃないですか。巨大な正体不明の世界があると思えばドキドキするでしょう? ましてそれを創り上げるとなれば、もう面白いではすまされない。
巽 先ほどからおっしゃっている書きたいものとの関連が。
西尾 そんな深いこととか企んでないんですけど。
巽 なんとなくそういうのを作っていくのが気持ちいい?
西尾 そうですね。気持ちがいい。一部分しか見えないとその全体を想像するじゃないですか。おもしろい小説というのは、全体像が、これからどうなるのかと一部分ずつ見えてきて、その異常さにドキドキしながらページをめくる、そういうものだと思います。だから、想像力豊かに読書する糧ですよ。私がそういう読書の方法をしてきたから、書くときもついそう匂わせてしまう。あと、自分の中ででっかい世界みたいなのを持っておくと書きやすいというのもあります、それは方法論の話になっちゃいますけど。
(P.64-65)

 まず、経験的にそういった「正体不明の世界」を匂わせる作品で、その趣向そのものがおもしろかった作品をほとんど読んだことがない、ということがある。思わせぶりなだけで終わってしまったり、「謎」があきらかになっても驚きもなにもない作品をいくつも読んでいると、最初のうちは「
巨大な正体不明の世界があると思えばドキドキする」ものの、すぐに飽きてしまうのだ。どうせ、たいしたことじゃないに決まってる、と醒めた目で見るようになり、実際、そのとおりだったりする。
 仮に、その世界の全体像が明らかになることによって、ある種の「驚き」が誘発されるのだとしたら、その「世界の断片」の提示に必要なのは、思わせぶりな記述ではなく、計算に基づいた的確な描写だろう。これは、スケールの違いこそあれ、一般的なミステリにおける「伏線」と「真相」の関係と何ら変わらない。今までにも何度か書いたことがあるが、「伏線」を思わせぶりな「伏線」としてしか提示できないのだとしたら(「漠然とした違和感を覚えた」「彼の顔色が変わったのを見逃さなかった」などなど……)、それは単なる手抜きでしかないと思う。
 また、基本的に、作品世界の奥に「謎」を見出すのは、読者の側の資質によるところが大きいということ。極論をいえば、「サザエさん」だろうが「ドラえもん」だろうが、世界の全体像を見出そうとすれば、いくらでも可能なのだ。作者によって小出しにされる(小さな単位での)物語と直接かかわりのない「世界の全体像」なんて、鬱陶しいだけだと思う。
 だから、これは読者に対するサービスではなくて、単なる作者の自己満足なんじゃないかなぁ。

4月29日(火)
 
……再び……ギリシア人たちは「自由人」の世界を「肉体」を巡る倒錯的な世界として作り上げた。「その空腹を快楽に変えられないかな……」。つまりギリシア的快楽主義であり、そしてそれは快楽に溺れることでは無論なくて、「肉体」の欲求を、それへの隷属を片っ端から「快楽」に変え、それを管理する術、要するに「肉体における倫理」を意味した。それはむしろ複雑な節制の体系を意味するのである。例えば彼らは空腹と食事を分離し、そして(ローマ的美食と異なり?)、食事の快楽と美食への欲求を分離した。或いは性と生殖を分離し、そして性の快楽を「肉体の快楽」からも分離しようとする。何故なら美食の快楽や性の快楽が「肉体の快楽」となるとき、すでに「肉体」への隷属が始まってしまうからである。我々は「肉体」を悦ばせるためにではなく「自己」を悦ばせるために存在する! そこに倫理が生ずる。その倫理─エチカにおいてギリシア人たちは社会全体を「肉体」への隷属に対する倒錯的で倫理的な闘争に変えてゆこうとしたのである。過度に美化するのは無意味だが、ともあれギリシア人たちは「肉体」の要求を自身の運命として承認した後に、如何にしてその要求を命令から逸脱させ、そこから「肉体」が予想した、或いは「罠」として人間に提供するものとは異質の快楽を導き出し、そしてさらに如何にしてその快楽を管理し活用するかを巡る複雑な倫理からなる世界を編み出した訳である。(以下略/丹生谷貴志『家事と城砦』収録「肉体の使用法」P.45-46)


 30歳にもなって庄司薫を初めて読む、というのはもしかして「恥ずかしいこと」なのかもしれないし、そのうえ、単純に「感動」というか「共感」してしまうというのは、さらに「恥ずかしいこと」なのかもしれない。
〈赤白黒青四部作〉の第1作である『赤頭巾ちゃん気をつけて』は、普通に良質の青春小説として楽しんで読んだんだけど(個人的には佐藤友哉よりは庄司薫のほうに「親近感」を覚える)、第2作である『白鳥の歌なんか聞えない』には、ちょっとまいってしまった。
 感触としては、この作品だけシリーズとはしては特異なのかな、という気がしている(少なくともこの作品には時事的な「事件」は導入されておらず、交換可能な風俗的な細部描写のみに止まっている)。とりあえず、シリーズの続きを読んだうえで、改めて何か書いてみたい。

4月27日(日)
 歌野晶午『世界の終わり、あるいは始まり』では、物語の結末において、それまでの奇妙な構成を収束させるように、あまりにストレートな「主題」が提示される。『葉桜の季節に君を想うということ』も同様で、こちらの場合は「構成」ではなくあるトリックなのだが、それはやはりひとつの「主題」へと集束する。これは、物語的な主題と、「構成」(あるいはトリック)が不可分のものであるという印象を読者に与え、「奇を衒っただけの構成」「必然性のないトリック」といった、あらかじめ予想されうる批判を封じる役目を果たしている。

 では、これらの作品において、「主題」と「構成」(あるいはトリック)のどちらが先に作品の中核として構想されたのだろうか。もちろん、それは作者にしかわからない(作者にもわからない?)。まあ、根拠のない個人的な印象を述べれば、「主題」はあくまで「構成」(あるいはトリック)に説得力を持たせるための技術的な要請による後づけだろうと思えるのだが、もしかしたら、その順序が逆であるかもしれないと思わせる程度には、両者が結びついている。

 個人的には「奇を衒っただけの構成」や「必然性のないトリック」も嫌いではない。とはいえ、物語としての「おさまりのよさ」を考えれば、両者の結びつきが強固であるに超したことはない。これは「主題」の切実さや重要性といったものとはまったく無関係で、むしろ「構成美」といったものに対する好みの問題だろう。ここでいう「構成」(あるいはトリック)と「主題」は、「伏線」と「真相」のような関係にある。

 どちらかというと、そういった作話手法というのは、「古くさい」部類に入るのかもしれないとは思う。しかし、それが近年の歌野作品の魅力のひとつであることは間違いないと思う。

 とはいえ、事後的に技術的な要請で捏造された(であろう)「主題」を半ば本気で作者自身が信じているように見えるところが、歌野作品に感じるあやうさでもあるんだけど。

4月24日(木)
 できるだけはてなダイアリーと書く内容が重複しないように、重複する場合は、こちらでは多少なりとも詳細な文章を書こうと決めてみたのはいいけれど、もともとそんなに手持ちの札が多いわけではないので、早々に手づまりになってしまった。無理に更新する必要はないとはいえ、あまり使いわけを意識しないほうがいいのかもしれない。


 歌野晶午『葉桜の季節に君を想うということ』読了。こういう、アイディアだけなら誰でも考えつくんだけど、普通だったらまじめに作品として書き上げようとしないようなネタを、大まじめに、細部をつめて、実に丁寧に作品として結実させてしまうあたりが歌野晶午の強みだと思う。

 最近の歌野作品は、物語を複数の「小さな事件」の積み重ねで構成している、という点で共通しているんだけれども、それらをひとつの物語としてまとめる手法が、作品ごとにまったく異なっているので、いい意味でなかなか物語の全体像が見えてこないのが魅力的。

 この作品では、典型的なミステリ的ガジェットを、いかにもミステリ的な文脈ではない形で物語に組み込もうとしているところがおもしろかった(
店の名前のメモの扱いとか)。ミステリのガジェットを肥大化させて戯画的に扱う舞城王太郎の手法の、ちょうど正反対という感じ。

4月20日(日)
 西尾維新「きみとぼくの壊れた世界」(体験版)の「真相」を検討するにあたって、初めて西尾維新の小説を再読する、ということをやって改めて感じたのは、その伏線描写が非常に巧みだということ。いや、もちろん、私の導き出した「解答」が間違っている可能性はあるんだけど、もし間違っているとしても、それは作者が意図的に誤りへと誘導しようとした結果であることは確実で、物語のなかに埋め込まれた伏線描写を、ひとつの「真相」(あるいは偽の「真相」)に集約させるという意味では、技術的には同じことだろう。この小説は「読者への挑戦状」が付された「ミステリ」であると同時に、一読してわかるとおりあからさまな「キャラクター小説」でもあるのだが、「キャラクター小説」的な描写が、そのまま「ミステリ」としての伏線を提示する場面を不自然なものと感じさせないための装置として機能している。また、この伏線で示されるのはひとつの「共通点」だが、まず、AとBの「共通点」を提示し、次にBとCの「共通点」を提示することによって、結果的に、「真相」(あるいは偽の「真相」)の解明に必要なAとCの「共通点」を示す、という手法がとられている。
 もっとも、私自身は伏線をたどることによって「真相」(あるいは偽の「真相」)に到達したわけではなくて、経験的な勘で漠然とあたりをつけて、逆に伏線を拾っていった結果、はじめてその巧妙さに気づいたんだけど。……ただ、この小説そのものはいわゆるミステリ的な意味において「論理的」に「真相」を求められるようには書かれていないように思える(私が気づかなかっただけ、という可能性はもちろん否定できない)。

4月16日(水)
 こちらに「メフィスト」掲載の西尾維新「きみとぼくの壊れた世界」(体験版)の「真相」の推理を書いてみました。興味のある方はどうぞ。

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