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■2003年5月1日〜5月15日


5月15日(木)
 久しぶりにタイトルロゴを変えてみた。

5月14日(水)
 スティーヴン・キングが『デッドゾーン』の映画のラストにおける原作との相違を批判して、「そんな偶然があるわけがない」という意味の発言をしたというのを読んだことがある(ソースは失念)。ラストの展開である重要な「役割」を負うことになる1人の子供は、原作では主人公とは何の関係もなくたまたまその場にいあわせたにすぎないが、映画では主人公の元恋人の息子に変更されているのだ。偶然その場に居合わせた子供が、主人公の元恋人の息子であったなんてできすぎている、とキングは言う。その文章の執筆者はキングの発言に対して、キングは映画の魔術というものを理解していなかった、という意味の批判的なニュアンスを含む意見を述べていた(記憶で書いているので、細部については正確ではないかもしれません)。

 映画に限らず、フィクションに偶然はつきものだ。私はどちらかというとフィクション内の偶然については鈍感なほうで、関係者が偶然出くわす、まったく無関係な事柄に偶然共通の関係者がかかわっている、といったご都合主義的な偶然も、あまり気にならない(たぶん)。だから、前述の『デッドゾーン』の映画版での変更にかんしては、まったく気にならないどころか、むしろ物語の圧縮方法としては実にまっとうだと思ったくらいで、まあ、このへんは個人的な感覚の差も大きいとは思うのだが、フィクションにある種のご都合主義的な偶然を許容する性質があるのは間違いないと思う。

 山口雅也『奇偶』には、さまざまな「偶然」が重要な要素として物語内にあらわれる。そのなかには、同じ人物と何度も出くわす、無関係な事件の現場に居合わせる、といった「偶然」が次々と起こるが、私にはフィクションが許容する範囲を大きく逸脱しているようには思えなかった。また、結末にてあかされるある極めつけの「偶然」は、それが物語の内部で「必然」として機能するように構成されているうえ、既知のネタであったという理由からあまり驚きを感じなかった(余談だけど、麻耶雄嵩『翼ある闇』で披露される「偶然」になぜ驚くのかといえば、それまでまっとうな「本格」であると思っていたところに突然投げ出されてくるからだろう。結局は、
偽の解決なわけだけど)。
『奇偶』のなかにあらわれる「偶然」で私がもっとも感心したのは、「
別に理由があるわけでもないのに、たまたま多くの人々が同じ方向に向かっていたという理由で、道路が渋滞する」というくだり(重要なネタバレにはあたらないと思うので、未読の方が読んでも問題ないと思いますが、念のため文字の色を変えます)。これは、フィクションが許容する偶然とはあきらかに質の異なる「偶然」だと思う。

5月12日(月)
 5/8の日記に対する自己つっこみなんですが、舞城王太郎の「
意図的に物語に組み込まれたミステリ的ガジェットに対する批評的ともいえる屈折した態度」というのは、決して「謎」→「解決」というプロセスそのものを破壊しているわけではなくて、その詰め込みかたの過剰さや、プロセスを駆け抜けるスピードや、そのあっけない処理手法に特徴の一部があるわけで、自分の作品に対して、結末部であからさまに図式的な構造や主題を示してみせるというのは、「倒錯」どころか、きわめて一貫した姿勢なのではないかと思えてきた。
 はい、これはこういうお話でした! 終わり! 深読みすんなよ! という感じ?

5月11日(日)
 東浩紀・大澤真幸『自由を考える 9・11以降の現代思想』を読んで、この本そのものもたいへんおもしろかったんだけど、その中で繰り返し述べられていた「偶有性」という概念から、舞城王太郎『九十九十九』に結びつけられそうな部分を、きわめて恣意的に抜き出してみる。

 以下、「偶有性」という概念についての、大澤真幸の発言より引用。

大澤 (前略)偶有性というのは、他でもありうる、ということです。様相の論理を使えば、偶有性は、不可能性と必然性の否定です。つまり、可能だけれども必然ではないことが、偶有性なわけです。たとえば、今、皆さんは、ここに来ていますが、やめて別のところにも行けたのだと考えると、ここにいることは偶有的です。しかも、単に他の行為の選択肢もあったという意味での偶有性だけではなく、さらにその前提には、私が私であったということがまるごと偶有的でありうるということ、つまり私がまるごと他者でありえたという意味での、もっと強い偶有性があるのではないか。(中略)私が他者であったかもしれないということは、私がこの私であるという単独性ということと対立しているように見えるかもしれませんが、僕の考えでは、そういう単独性と(根源的)偶有性は、不即不離につながっている。むしろ、同じことの二面だと思っています。(以下略/P.75-76)

 続いて、東浩紀の発言より引用。

東 (前略)たとえば誰かを愛するというときに、彼女は背が高いから低いから、顔がかわいいから、性格がかわいいからという理由で愛するとすると、これは、彼女の属性、哲学の言葉で言えば「確定記述」を根拠に愛するということです。「相手が……の属性を持っているから」愛するという経験は、その属性をもっと強力にもっている対象が現れたら、乗り換えることができるということを意味する。しかしこれは彼女自身を愛することとは違う。ふたたび専門用語を使えば、「固有名」で愛することとは違う。こういうふうに言うと柄谷行人さんみたいだけど、こんなことは、愛するということについて真剣に考えたら、高校生にもわかることです。
 しかし、では愛とは何か。そう考えると、恋愛をするということは、原理的に相手が誰であろうと好きになる、そういう精神状態しかないだろうという結論になる。これは奇妙に聞こえるかもしれませんが、論理的にどうしてもそうなる。相手を固有名で愛するとは、相手からいかなる属性が剥脱されても愛することである。たとえば相手が交通事故に遭って、意識がなくなっても愛し続けることができるのか。これはきわめて具体的な問題でもあるわけです。つまり、恋愛の概念を突き詰めていくと、相手が何者であってもいいという、「運命的」とでもいうか、ある種空無化した概念に到達せざるをえない。
(以下略/P.115-116)

 さらに、大澤真幸の発言より引用。

大澤 (前略)もしここに、「俺は君たち一人一人を愛しているのではなく、人類を愛しているんだ」という人がいたとすれば、その人は、ほんとうは誰も愛していないし、誰にも共感していないんです。しかし、その対極には、自分の共通の趣味や感覚を有する特定の集団だけを愛するという人がいる。これが島宇宙化を導く。両者をつなぐものはあるのか。あるわけです。たとえば、全然違う文脈ですけれども、東さんが第二回の対談でこう言っていました。誰かを真に愛するということがあるとすれば、それは、その誰かの特定の性質への愛ではありえないはずだ、と。言い換えれば、真の愛というのは、偶有性への愛のわけです。単一の他者への愛には、必ず、偶有性への愛ということが含まれている。その部分が、普遍的な連帯への芽になる。偶有性という媒介項を入れれば、単一の他者への愛や共感が、普遍的な愛や共感と矛盾しない、ということです。(以下略/P.248)

『九十九十九』における、主人公と「妻」たちとの関係は、上記のような文脈で読むことができるのかもしれない、という単なる思いつきなんだけど。

 で、逆に徹底して「偶有性」に対する想像力が欠如した人物として、『夏と冬の奏鳴曲』〜『痾』の如月烏有があげられるのかな、という気がする(自分の「過去」にかんする特権的な意識、ならびに、『夏と冬の奏鳴曲』の結末における「選択」)。

5月8日(木)
 昨晩深夜、舞城王太郎「我が家のトトロ」の感想めいた文章をアップしたんですが、朝になって読み返してみると、自分でも意味のよくわからないところがあって、さすがにどうかと思ったので、トップページからはいったん削除させていただきます。


 ↓修正版をアップしました。


 昨日、会社帰りに書店によって「新潮」6月号を購入し、さっそく電車の中で目的の舞城王太郎「我が家のトトロ」を読んだのだが、ちょっと(というか、かなり)がっかりした。今までの舞城王太郎作品に感じていた魅力的な部分が大幅に減って、不満に感じていた部分がことさら強調されているように感じたのだ。

 この作品には今まで必ず(その扱いの重要性の違いこそあれ)作品の要素として含まれていたミステリ的ガジェットや暴力描写がまったく含まれておらず、その意味では新機軸といえないこともない。実際、そういう作品を一度読んでみたいと思っていたことは確かで、例えば「熊の場所」や「バット男」であっても、いわゆる「ミステリ」の延長線上に位置づけることは可能だから、この作品で初めて「ジャンル」の束縛から自由になったといえるのかもしれない。
 とはいえ、ミステリ的ガジェットや暴力描写を排除した以外は、今までの作品と大きく変わるものではない。個人的に舞城王太郎作品の結末部における「主題」の処理に不満を持っているんだけど、この作品では結果的にその不満な部分がより強調されてしまっていると感じた。
 いくつかの印象的だったり感動的だったりくだらなかったり笑えたり残酷だったりする複数のエピソードから、ある特有のパターンを抽出し、結末において「主題」として集束させるという舞城王太郎の得意とする物語の手法は、素朴な「手がかりの収集」→「解決」という手順をふむミステリにとてもよく似ている。結末における、すでに語られた複数のエピソードに対する意味づけと、教訓めいた「主題」(=結論)の提示は、ミステリの解決編における名探偵の長広舌を思わせる。

 意図的に物語に組み込まれたミステリ的ガジェットに対する批評的ともいえる屈折した態度との落差はいったい何なのだろう。いかにも典型的な「ミステリ」の形式に対して屈折した態度を示す一方で、素朴な「ミステリ」を思わせる手つきで愚直に「主題」を提示してみせるというのは、一種の倒錯ではないだろうか(それはそれでおもしろいんだけど)。
 この作品では、その倒錯すら機能していない。少なくとも私にとってこの作品は《面白い小説》ではなかった。

【追記】とはいえ、もしかしたら私はあまりに単純に読みすぎているのかもしれない。名探偵によって捏造された「偽の真相」を、「真相」だと信じてしまっているのかもしれない。

5月5日(月)
 現在、三浦俊彦の新刊『シンクロナイズド・』を読書中。1994年から2002年にかけてさまざまな媒体で発表された作品をまとめた短編集。

 三浦俊彦の小説はどれもおもしろい(とはいえ、個人的には『これは餡パンではない』と『離婚式』はそれほど好きではない)んだけど、河出書房新社より刊行されていた初期作品の装丁(ミルキィ・イソベによるデザイン、吉田戦車、しりあがり寿、岡崎京子などによるイラスト)から抱く「ポップなイメージ」は確かにこの作家の一側面を示しているとはいえ、同時に、一貫して「読む努力」を強いる小説であることもまた確かで、意味深げなアフォリズムや、どこかで見たような過剰なレトリックを駆使しつつ、きわどいところで「意味」に結びついてしまうことを回避し続ける脱臼したユーモアに満ちた文章は、基本的に読み飛ばすことを許さない。
 初期作品の装丁は確かに「豪華」だといえるし、作家としては「恵まれていた」といえると思うのだけど、それによって与えられた「ポップなイメージ」が、作家と作品にとって幸福なことだったのかどうかは、今になって振り返ってみると少々疑問で、実際、『シンクロナイズド・』の装丁は『離婚式』以来久々のミルキィ・イソベによるデザインなのだが、年月の経過や版元(岩波書店)の違いを考慮したとしても、あきらかに方向性が変化している(ちなみに、手元にある2003年2月28日発行で同じ岩波書店発行の『21世紀文学の創造 別巻 日本語を生きる』の装丁は、一目でミルキィ・イソベによるものだとわかるデザインで、どちらかというと、河出書房新社から刊行されていた三浦俊彦作品の装丁に近い)。
 参考までに、三浦俊彦作品の全装丁はこちら。『21世紀文学の創造 別巻 日本語を生きる』はこちら。ただ、上記で書いているのは帯も含めた装丁のことなので、リンク先の画像ではちょっとわかりづらいかもしれない。

5月1日(木)
 別にネタバレというわけではないんですが、今日の日記は庄司薫『白鳥の歌なんか聞えない』を読了してから読んだほうがより楽しめると思います。


 庄司薫の〈赤白黒青四部作〉の第3作『さよなら怪傑黒頭巾』を読みはじめた。まだ冒頭。
 そのなかでちょっと驚いたのが以下の記述。

(主人公が女性週刊誌に載っている「相性テスト」をやった結果)
そして具体的には、たとえばぼくと合う理想のタイプは「スターでは」松原智恵子さん風清純タイプになったり、吉永小百合さん的世話女房タイプになったり、加賀まりこさん的妖精タイプになったり、時には新珠三千代さん的しっかりした年上タイプ(でも、まあどうでもいいけれど、彼女はぼくの倍以上の年なんだよ)になったり(以下略/P.21)

 この作品は1969年11月に刊行されたものだから、今から30年以上も前で、当然、「スター」だって年をとるわけだけれども、たいへん失礼ながら、「
加賀まりこさん的妖精タイプ」というのはちょっと想像できない。
 で、Googleのイメージ検索で当時の画像を探した結果、見つけたのがこちら(→ミラー)。カレンダーをデジカメで撮影したものらしいので、細部ははっきりとはわからない。でも、まあ、漠然と当時の雰囲気は感じられるのではないでしょうか。

 その過程で、『赤頭巾ちゃん気をつけて』と『白鳥の歌なんか聞えない』が映画化されていることを知った(→こちら)。なぜ「加賀まりこ」で検索していて見つけたのかというと、『白鳥の歌なんか聞えない』の出演者のなかに、加賀まりこの名前が入っていたのだ。名前は、出演者リストの頭から数えて3番目にある。1番目は「薫くん」を演じた男優で。2番目は「由美」を演じた女優だろう(前述のサイトには『白鳥の歌なんか聞えない』のサントラのジャケット画像がアップされている。たぶん、映画の1シーンで、写っているのは「薫くん」と「由美」を演じた役者だと思われる。→こちらミラー)。で、3番目に名前が出てくる女性といえば、「小沢さん」としか考えられない。そうか、「小沢さん」は加賀まりこだったのか!

 いや、まあ、それだけの話なんですけど。
 ちなみに、映画の情報がアップされているサイトには、『赤頭巾ちゃん気をつけて』が芥川賞を受賞したときの選評の抜粋などもあって、なかなか興味深いです。

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