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■2003年5月16日〜5月31日


5月31日(土)

photo1

 SANYOの動画デジカメDSC-MZ3購入。SANYOのデジカメはDSC-SX550以来2台目。
 上の写真は駅に飾ってあった生け花。クリックすると大きな画像が見られます。1600×1200→800×600にリサイズして、若干、シャープネスをかけています。撮影時の設定はフルオート。
 動画と連写と軽快な動作が売りのデジカメなんですが、発色も悪くないです。

photo2

 こちらははてなダイアリーのほうにもアップした画像。加工内容は上と同じです。

5月29日(木)
 現在、保坂和志のエッセイ集『言葉の外へ』を読んでいるんですが、その中に収録されている「文学というプログラム」に以下のような文章があります。前後の文脈を無視して恣意的に抜き出しているので(まあ、いつものことですが)、興味あるいは不審を覚えた方は原文にあたってください。

(前略)
遺伝子の発見はもっと物質的な次元で人間に襲いかかる。一番わかりやすい例は、不治の遺伝病ということだろうが、それは「だから前もって知っておいて、その発現を未然に防ごう」というような“人間的”な次元に引き下ろされた、本質を巧妙にずらされた議論なのではないか。遺伝子によってあらかじめ記載されているという気分は、旅先で病気になって設備のほとんどない汚れた病室に寝かされた男が、ベッドから天井を見上げたときに、自分の人生がその天井に詳細に書かれているような事態と考えるべきものではないだろうか。(P.104)

 実をいえば、本題はこの文章の内容ではなくて、これを読んで麻耶雄嵩『夏と冬の奏鳴曲』を思い出したというそれだけの話だったりします。

 これまでも何度か書いているとおり、麻耶雄嵩『夏と冬の奏鳴曲』は個人的なオールタイムベスト級の作品(いわゆる「新本格」作品に限定すれば、ベスト1)で、たいへん偏愛しています。
 この作品には大きな「謎」がいくつかあり、その「謎」に対する解釈はさんざん出尽くしていると思われますが、1998年に某所で書いたある「謎」にかんする文章が出てきたのでアップしてみます(特に目新しい内容ではないと思います)。

『春と秋の奏鳴曲』について
『春と秋の奏鳴曲』は可能なのか。烏有の人生と物語内容との類似の問題ではなく、そもそも映画として成立するのだろうか、という疑問だ。
 疑問点のひとつは、ヌルを演じている役者にかんする言及がないこと。果たして画面内にヌルは登場しているのだろうか。反復を強調するための技法上の要請(すでに物語中で語られている烏有の過去を流用するかたちで、固有名詞と微妙な細部の置換のみで語るということ)とはいえ、容姿にかんする描写がまったくないことはあまりに不自然だ。一人称的な視点で撮影された実験的な映画だったのだろうか。
 もうひとつの疑問点は、ヌルの心理描写がかなり克明になされていることである。例えば以下の部分。「こだわりすぎていた学歴意識を捨てる、そう云えば聞こえはいいが、云ったそばから自分でも体のいい逃げ口上、自己欺瞞に過ぎないと判っていた」「それは何処かで見覚えがあったはずなのだがすぐには思い出せなかった」「何の気もなく訊ねたことなので、それ以上は詮索しなかった。ちょっと気になっただけだ」「これはヌルの問題なのだから、他人がどうこう云っても仕方がない。ヌル独りにしか判らない問題なのだ」……などなど。果たして、これらの表現は映画という手法で可能なのだろうか。あるいは、ひっきりなしにヌルのモノローグがナレーションとして挿入されているのだろうか。
考えられるのは、烏有が一方的に映画に感情移入をして、ヌルに自分の心理を反映させているということである。もしそうだとすれば、作中における『春と秋の奏鳴曲』という映画はなし崩し的に客観的な価値を失うだろう。


 ところで、いろいろと『夏と冬の奏鳴曲』関連の文章を検索していて見つけたんですが、以前から気になっていた二階堂黎人『奇跡島の不思議』が『夏と冬の奏鳴曲』に似ているということにかんして、作者が自覚的にやっていたのだと初めて知りました(→こちら)。う〜む……。

5月25日(日)
「群像」7月号に舞城王太郎の新作が掲載! タイトルは『山ん中の獅見朋成雄』(情報元:ケムリズム)。「SWITCH」のイラストで予告されていた作品の1つですね。馬の絵の上に「
成雄 戻ってこい。」という文字があるので、「獅見朋」が姓、「成雄」が名ということなんだろうけど、試しに「獅見」「獅見朋」「獅見朋成雄」でGoogleで検索しても該当項目はなし。『九十九十九』の「ガジョブン」といい、前例のない名前を作ることで、そこに特別な含意を見い出そうとする視線を拒絶しているかのようにも思える。あるいは、Googleでちょっと検索した程度ではわからないけど、きちんと調べたら何か由来があったりするんだろうか?(余談ですが、『阿修羅ガール』に登場する「ハデブラ村」は、以前にも書いたとおり、スウェーデン語で「元気でね!」という意味の「Ha det bra!」だと思われます)。

5月23日(金)
「メフィスト」の姉妹誌として刊行される太田克史氏(=編集者J)が編集長の「ファウスト」で「
たとえば『ファウスト』では登場する作家さんそれぞれの小説の文体に合った書体や段組を選んで誌面を構成してみたらすてきじゃないかなと考えています。そういうこともDTPならそれほど負荷がかからずにできるんだよね。作家さんそれぞれにカスタマイズされたオートクチュールな誌面ってやつが」という試みを行うらしいけど、例えば(太田克史氏が担当している)清涼院流水の本での本文ではない部分で使われている書体やページのデザインを見ていると、漠然とした不安を感じなくもない。本文が丸ゴシック系やPOP体や太いゴシック体で組まれていたらどうしよう。デザインや組版はちゃんとプロがやるんだろうから大丈夫だと思うけど。それとも自分たちでやろうとしているんだろうか。

 森川嘉一郎『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』では、著者本人が組版や作図を行ったためか、巻頭のカラーページの見出しに半角カナを使っていたり、図で奇妙な書体が使われていたりといった「素人っぽさ」がところどころにうかがえて、つめの甘さが感じられた。まあ、「ファウスト」の場合は京極夏彦というブレーンもいることだし(協力するかどうかは別問題)、あまり心配しなくてもいいのかもしれない。

 どうせだったら「ファウスト」では、『たかがバロウズ本。』みたいに全文PDFで公開とかやってくれないだろうか。語句を検索できるだけでもだいぶ読み方が広がると思うんだけど。Web上で公開ではなく、付録CD-ROMに添付とかでもいいから(コピーがばらまかれるのは織り込み済みで)。

5月22日(木)
 
以下の文章に全面的に手を加えました。

「新現実」Vol.2に掲載されていた佐藤友哉「世界の終わりの終わり」に付された「
新しい世代のための庄司薫」という惹句と、たまたまその直前に読んでいた丹生谷貴志『家事と城砦』に収録されている「肉体の使用法」という庄司薫作品を扱った評論(詳細はこちらを参照)に誘われて、はじめて庄司薫を手にとってみたわけだけれども、今日、ようやく〈赤白黒青四部作〉の完結編である『ぼくの大好きな青髭』を読み終えた。

 さすがに細部の風俗描写に時代を感じるけれど、どの作品も意外と古びた印象はなく、登場人物たちは誰もが魅力的で、いわゆる青春小説特有の青臭い語り口がときに鼻につくこともあるけれど、作者の周到な登場人物の配置によって相対化され(登場人物は自分自身の思考や行動を相対化し、その自己批判的な振る舞いそのものがさらに他の登場人物によって相対化されるという具合)、特に『白鳥の歌なんか聞えない』と『ぼくの大好きな青髭』の2作はかなり好きな作品で、また時間をおいて読み直したいと思っている。

 庄司薫を読んだことで、さらに読みたい本があらわれて(例えば連合赤軍関連の本)、まあ、別に今回に限ったことではないにしろ、その興味の連鎖は本を読むことのおもしろさであると同時に、その連鎖を網羅することの不可能性が、ちょっとした憂鬱の種というか虚しさを感じる原因でもある。しかし、その絶望にも似た感覚は、『白鳥の歌なんか聞えない』の反復にすぎず、私は途方に暮れてしまう。

 とはいえ、私は「途方に暮れる」ことが嫌いではなく、私が四部作のなかで特に『白鳥の歌なんか聞えない』と『ぼくの大好きな青髭』が好きなのは、その「途方に暮れる」感覚を強く味わわせてくれるからなのかもしれない。

5月21日(水)
 やっぱりタイトルロゴは元に戻しました。でも、そろそろ変えたいとは思っています。またフラットなデザインに戻したいのです。


 はてなダイアリーで気楽な更新をしていると、ついついこちらの更新が疎かになってしまいます。
 最近はさすがに間隔があきすぎなので、こちらももうちょっと気楽な更新スタイルで行こうかと考えています。


 いわゆる叙述トリック作品で、完璧に騙されていたにもかかわらず、それが驚きに繋がらなかった作品というのがいくつかあって、例えば有名どころでいえば我孫子武丸の某作品(1)とか、今年に入ってから読んだ講談社ノベルスの某作品(2)とか、前者の場合は一読した時点では意味がよくわからなくて最後の部分を何度も読み返してようやく意味がわかるという具合で、後者の場合は真相があきらかになる直前で「これしかないよな」と思い実際にそのとおりだったんだけど何となく釈然とせず、しかし、どちらの作品も世評を見るとちゃんとサプライズとして機能しているようで、自分が肝心な部分を読み損なったようで何となく損をした気分になる。

 逆にある程度、作者の意図は把握できるんだけど、そこが逆に楽しい作品もあったりして、これは例えば依井貴裕の某作品(3)とか、一作しか書いていないので作家名を書いただけでネタバレになってしまう某男性作家の某作品(4)とか、そういう作品はどちらかといえば馬鹿トリック(褒め言葉)に属するものが多い気がする。

 さらに、ある程度、読者の「読み」を誘ったうえでその裏をかくテクニックも用いる作品もあって、乾くるみの某作品(5)とか、それとは若干方向性が異なるけど前述の(4)もそうで、これはすれっからしの読者であるほど引っかかりやすいのだが、逆に叙述トリックに不馴れな読者には意味をなさないという弱点もある。個人的には、この系統をつきつめた作品がいちばん読みたい(上記の(2)もこれに類するテクニックを用いている)。

 問題なのは、二者択一的な叙述トリックが物語の冒頭部に仕掛けられているような作品で、当然、作者としてはアンフェアな記述はできないのでよく読むとどちらともとれるように書いてあるんだけど、最初から身構えて読んでいる場合、どちらが真相でどちらが叙述的な引っかけなのか判断がつかないまま読み進めなくてはならない場合があって、これは非常に困る。具体的にいうと、今は亡き某女性作家の某作品(6)がそうだったんだけど。

 以下、作品名を伏せ字で。100%自信がある方の答えあわせ専用です。
(1)
『殺戮に至る病』
(2)
北山猛邦『「アリス・ミラー城」殺人事件』
(3)
『歳時記』
(4)
中西智明『消失!』
(5)
『塔の断章』
(6)小泉喜美子『弁護側の証人』

5月17日(土)
 私は以前から繰り返し以下のように書いている。

「漠然とした違和感を覚えたが、それが何なのかはわからなかった」みたいな、ここに伏線がありますよ! と作者が言いたいがためだけに書かれたような文章は、あまりに安直なので勘弁してほしいと思う。(元の文章はこちら

 ただ、その理由については「安直」という以外に明確に書いたことはなかったように思うので、改めて書いてみたい。

 最近、読んだ本の中から具体例をひとつあげてみよう。以下は北山猛邦『「アリス・ミラー城」殺人事件』の一節(念のために書いておくと、こちらにも書いたとおり、この作品自体はたいへんおもしろかった。これはあくまで、細部の処理の問題だ)。

 
山根が僅かに身体を傾げたことで、彼女の背後にある人形の顔がちらりと映った。それは大きく見開いた目を、じっと画面の方に向けていた。この時、堂戸は云い知れない違和感を覚えたのだが、それが何故なのかはわからなかった。(P.150)

 ここで行われているのはつまり、情報の分割だ。まず、上記のとおり人形に対する違和感が表明される(対象)。次に、その違和感の理由があきらかになる(具体的な現象)。最後に、その現象の原因(=意味)があきらかになる(真相)。ミステリとしてもっとも重要なのは、「具体的な現象」から「真相」への飛躍だろう。では、「対象」から「具体的な現象」の過程はどうか(というか、この2つを分割する意味があるのだろうか、というのが私の疑問だったりする)。
 上記の引用部分から読者がわかるのは、「人形が事件に関わっている」というだけのことでしかない。逆にいえば、どうかかわっているのかはまったく推測のしようがない(それ以上は何も書かれていないから)。仮に、この時点で「具体的な現象」まで記したとしたとして、何か問題が生じるだろうか? 「具体的な現象」から「真相」へのミステリ的な飛躍がきちんと用意されているなら、この時点で「具体的な現象」まで明かしても何の問題もないだろう。加えて、その「具体的な現象」を読者の印象に残る形で描写できるのなら、わざわざ「違和感を覚えた」などと書いて伏線であることを強調する必要もない。

 もっとも、上記引用部分にかんしては、視点人物が「具体的な現象」を認識できなかったことに対する理由づけがなされている。とはいえ、そうなると逆に、そもそも上記のような場面は必要ないのではないかと思えてしまう。

 これは言ってみれば、『探偵学園Q』などの本格ミステリ漫画で、殺人現場の描写でコマの真ん中に「!」とか「?」が書かれているのと同じようなものなのかもしれない。漫画であれば、その描写のなかにヒントを隠すことも可能だから、まったく意味がないとはいえない。しかし、小説の場合は、「対象」と「具体的な現象」がセットになっていなければ、「違和感を覚えた」と書かれていても読者にとっては何の意味もない記述でしかない。

 繰り返しになるけど、作者が注力すべきことは、「違和感を覚えた」などと書いて伏線があると読者に告知することではなく、その伏線となる「具体的な現象」をいかに読者の印象に残るように描写するか、ということであるはずだと思うし、本当にその情報を伏せる必要があるのかどうか、充分に吟味することだと思う。


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