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■2003年7月1日〜7月15日


7月14日(月)
 heliotropism、ヘリオテロリズムともに、更新を休みます。
 早ければ1週間くらい、遅くても1か月以内には更新を再開する予定です。
 ではでは。

7月13日(日)
 ↓で描いていたイラスト、どうにも手の施しようがなくなってしまったんで、いったんボツにして描き直します。あと、今日は小説のほうも更新はなしです。本も読んでいません。

7月11日(金)
「ヒトクイマジカル」で検索して来た方は、永世の「『ヒトクイマジカル』感想リンク集」が便利ですよ。


Thank You!

 予定では日曜日(早くても土曜の夜)までは大丈夫だと思っていたんですが、『ヒトクイマジカル』効果で予想以上にカウンタの回転が速くて恒例のイラストの準備が間に合いませんでした。
 とりあえず、仮のイラスト(というか、書きかけのイラストの一部)でごまかしてみます。
 完成版は日曜日にアップできればいいなぁ、と思っております。
 そんなわけで、今後ともよろしくお願いします。

7月9日(水)
 西尾維新『ヒトクイマジカル 殺戮奇術の匂宮兄妹』についての雑文。
 
ネタバレがあります。『クビシメロマンチスト』にも言及しています。

「本格ミステリこれがベストだ!2003」に収録されているインタビューの作者の言葉を真に受ければ、これは裏『クビシメロマンチスト』ということになるのだろう。ミステリ板の西尾維新スレッドでも、おそらくその発言を前提としているらしい『クビシメロマンチスト』と比較した発言がいくつか見られたが、個人的はどうもぴんとこなかった。『サイコロジカル』が裏『クビキリサイクル』というのは何となくわかるんだけど。
 ふと思い出して、古谷利裕氏の『クビシメロマンチスト』評(偽日記2003年2月11付)を読み直して驚いた。そして、『ヒトクイマジカル』は確かに裏『クビシメロマンチスト』といえるかもしれないと思い直した。

 古谷利裕氏は、『クビシメロマンチスト』に「
主に歪みは二つある」と指摘する。
 ひとつは、葵井巫女子の積極的なアプローチに対し、語り手である「ぼく」がそれに「気づかない」ように語られる記述の歪み。
 もうひとつは、葵井巫女子の死体を前にした「ぼく」の、それまでの人物像にそぐわない異様な動揺ぶり。

『ヒトクイマジカル』では、この2つの歪みが反復されている。形を変えて、ではなく、その内実を変えて。そこに見られるのは、以前のような「歪み」ではなくて、むしろ「歪み」が見られないがゆえに歪んでみえるという逆説的な状況だ。
 たぶん、「ぼく」は葵井巫女子のときとは違って、本当に紫木一姫の気持ちに気づいていない。また、葵井巫女子の死体を前にした動揺とは違って、「ぼく」は自分が心底動揺していること気づいて動揺している。これは、ちょっとした、しかし決定的な変化の兆しではないだろうか。
 ……という読み方は、あまりに感傷的かもしれないけど。

 ところで、木駕峰約の口癖である「〜ということを、この私はあらかじめ予測していました」という台詞は、彼女の「師」が語る「物語論」の歪な模倣に思える。ちょうど、「師」が捨てた不死の研究を引き継いでいたように、彼女はその言葉を口にしていたのかもしれない。
 ……まあ、これもあまりに感傷的、かつ強引な解釈だけど。

7月8日(火)
「RLS」(略称)の、現時点でアップしている分のPDFデータをつくりました。印刷に制限はかけていませんが、基本的に画面上で読むことを前提に組んでいます。とはいえ、私は組版にかんしては素人も同然なので、まだまだ読みづらい部分も多いかと思います。
 誰が読むんだ? というつっこみはなしで。


 なんだか最近、いろいろと思いつきでやりはじめて迷走していますが、飽きっぽいのでいつまで続くのやら、という感じです。というか、さっさと正気にもどって、以前のような小説の感想を中心とした更新形態にもどすべきじゃないか、と自分でも思うんですけど、どうも本の感想の書き方を忘れているっぽい。

7月6日(日)
「RLS」(略称)の続きです。
 一応、ここでひとくぎり。次はちょっと間があくかもしれません。


 こちらに、「PDFで読む小説」について書いています。「RLS」の前回までの分をまとめたサンプルPDFデータを作ってみたので、どういうページの体裁、文字の組み方が読みやすいのか、ご意見をいただければうれしいです。

7月2日(水)
 西澤保彦『神のロジック 人間のマジック』を読んで、改めてこの作家は謎の見せ方……というとちょっと意味あいが違うんだけど、物語中での謎の展開のさせ方がうまいなぁと思った。うまいというか、より正確にいうなら、単に私好みの書き方をしているということなんだけど。

 
以下、内容に踏み込んで書くので、未読の方はご注意を。

 作中で中心となる大きな謎とは別に提示される小さな謎のひとつとして、登場人物が買い置きしていたスナック菓子や飲み物がいくのまにかなくなっている、という「事件」がある。これは、最終的には中心となる大きな謎につながっていて、その謎の真相があきらかになると同時に小さな謎の真相もあきらかになる、という構成になっているから、あくまで結末に至るまでは「事件」にかんする言及を謎の提示のみにとどめて、「真相」を宙づりにしておく、という書き方も可能なんだけど、実際にはかなり早い段階で犯人とその犯行手段はあきらかになる。
「事件」を構成している謎の要素は、大雑把にいって「誰が」「どのようにして」「なぜ」それを行ったのか、という3つに分割することができる。そのうち、中心となる大きな謎に密接に結びつくのは「なぜ」という部分のみで、「誰が」「どのようにして」という要素があまり重要ではないことは、物語を最後まで読めばわかる。つまり、「誰が」「どのようにして」という謎の真相をあきらかにするタイミングは、物語の要請というよりは、あくまで作家の裁量という側面が大きい。
 これは『ファンタズム』を読んだときに感じたことだけれども、西澤保彦は、隠す必要のない謎はできるだけ早い段階であきらかにする、という方法を自覚的に選択しているように思える。
 この方法のメリットとしては、部分的な真相の解明そのものが物語の推進力となる、ということがひとつ(作者の好んで用いる「推理合戦」的な趣向は、その部分的な真相の解明を物語の推進力とするための有効な手法のひとつだろう)。また、不要な謎をあらかじめ処理しておくことによって、結末における真相の提示がよりシンプルになる、ということもメリットといえる。何より読者としては、必要以上にうっとうしくないのがいい。
 これはつまるところ、作者自身が、自分が物語る謎の焦点を明確に自覚しているか否か、ということだと思う。

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