馬場秀和のRPGコラム 2004年3月号



『都ちゃんに萌え萌え:まえがき』



2004年3月1日
馬場秀和 (babahide*at*da2.so-net.ne.jp)
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都萌シリーズ目次

   ★『まえがき』    (1)    (2)    (3)    (4)    『あとがき』    







 私は占星術を信じてないし、大して興味も持ってない。だが、自分が生まれた
ときに“魂の根源に影響を与える惑星たち”が、“百年に一度の珍しい配置”
になっていた、という話を聞けば、そこはそれ、大いに好奇心をかき立てられる
ではないか。

 というわけで、我が配偶者にお願いして、私のホロスコープなるものを調べて
もらった。それによると、私が生まれたときに冥王星と天王星の会合、いわゆる
合(ごう)が起きており、そのため私の魂はその最も深いところで、この合によ
る支配を受けているとのことだ。ちなみに合というのは、複数の惑星が地球から
見て天球の同一地点で重なる配置になることである。(実際には視差が一定角度
以内になるまで近づけばよいらしい)

 私はひどく感心した。はるか古代に生まれた占星術に、天王星だの冥王星だの、
近代になるまで発見されなかったはずの惑星の情報が含まれていたとは。さすが
古代人の神秘的な叡智・・・、ということに感心したわけではもちろんなくて、
天文学者が観測して発見した惑星を後からちゃっかり体系に組み込んでおいて、
「占星術こそ、天文学よりもずっと歴史が長く、由緒ある知の体系なのです」と
主張する厚かま、いや、したたかさに感心したのである。

 で、冥王星と天王星の合だが、確かにこれは珍しい配置といってよいだろう。
天王星は80年以上、冥王星にいたっては250年近い公転周期を持っている。
ちょっと考えただけでも、両者の合は、百年やそこらに1回の現象に違いない。

 では、冥王星と天王星の合に支配された魂とはどのようなものなのか。

 以下は、『ハーモニクス占星術』(松村潔)からの引用である。



  ・冥王星と天王星の組合せはもっとも強烈なアスペクトで、この強烈さに
   匹敵するものは他にありません。

  ・自己の本当の意志に忠実である限り、この人はこれまでの社会システム
   という大きな範囲のものを改革しようという行動に出ることになります。
   従来までの古い習慣やシステムを破壊し、新しい規律を創造するという
   破壊、創造のプロセスが進むことになるのです。

  ・その行動は極めてラジカルなものとなり、神のように、あるいは悪魔の
   ように見られることになるでしょう。

  ・孤立に対しては異常に強靱で、いかなるものにも従わない、という自由
   への渇望は極端なところがあり、あらゆるものを犠牲にしても目的を達
   することになります。何かをおとなしくそのままにしておくことがどう
   してもできないのです。

  ・このアスペクトは、へたに使うのなら、具現化しないほうがましです。
   多くの人は、この人にはとてもついてゆけず敬遠しがちになるでしょう。



 いやー、えらい言われようですな。「具現化しないほうがまし」とまで書かれ
てしまう私の魂って一体・・・(ちびまるこちゃん風に)。
 これじゃ、私の生きる道は、革命家か犯罪者しかないじゃありませんか。

 幸いなことに、私は革命にも犯罪にも関わりなく、ごく慎ましい小市民として
生きてきたし、これまでのところそのような人生に大いに満足している。ただし、
TRPGについての活動(馬場講座や馬場コラムの執筆など)には、ほーんの少し
冥王星と天王星の合の影響が見られるやも知れない。あなた、どう思いますか?


**


 しかし、改めて考えてみれば、確かに私と同世代には「古い習慣やシステムを
破壊しようとするラジカルさ」「孤立に対する異常なまでの強靱さ」「あらゆる
ものを犠牲にしても自分がやりたいことを追求する」といった特性を持ってる者
が多い、という気はする。

 例えば、以下のことを全て一人でやってのけた奴がいるが、

    ・小松左京(SF作家)氏の妹と結婚
    ・小学生のときの恩師と結婚
    ・小学生を何人も惨殺して死刑判決
    ・それでもめげずに獄中結婚
    ・最後まで反省や謝罪をすることなく処刑執行

あいつも私と同年代だよなあ。いや、1年違いだったか? まあ、外惑星の合は
数年続くし、誤差の範囲でしょう。

 これは極端なケースとしても、とあるシンポジウムでは「どうして1962年生ま
れには、キ××イと猟奇犯罪者とSF作家が多いのか?
」というテーマでパネル
ディスカッションが開かれたという話だし、やはりわしらはちょいヤバい世代、
というのは共通認識であるようだ。


**


 ところで私は、とある文芸サークルに所属して同人誌活動を行ってきたのだが、
そこのメンバーの多くが同世代人で、やはり何かしら合を背負っている感じの人
が多かったように思う。

 我々は「例会」と称して定期的に集まっては、馬鹿話や、大馬鹿話や、小説論
について何時間も語り合ったものだ。小説論といっても、青臭い文学論議をして
たわけではない。みんな、自分が面白いと信ずる“変な作品”をどうしたら売る
ことが出来るか、と真剣に考えていたのだ。メンバーの大半はプロ指向で、作家
としてデビューする機会を狙って切磋琢磨していた。

 後に、そのころ一緒に活動していたメンバーからは、いわゆる新本格ミステリ
の旗手の一人として作家デビューした者、押しも押されぬ人気作家になった者、
オリジナル・ホラーアンソロジーの編集で出版界の風雲児と呼ばれた者、人語を
しゃべるぶたのぬいぐるみの話を書いた者、アベノ橋ドラマCDの脚本を書いた者、
などプロが続出している。当時の仲間の5人に1人は作家となり、文章を書いて
(大いに“変な作品”を売って)生活しているのだ。それを思うと、こんなとこ
ろで(失礼)金にもならない趣味のコラムを書き散らしてるだけの私としては、
何だか肩身の狭い思いを禁じ得ない。

 ただ、あの頃、会社の仕事が忙しい中、文芸サークル活動をがんばって続けて
おいてよかったと思う。理由は3つある。その1、真剣なメンバーと共に修行し
たおかげで、そこそこ読める文章を書けるようになったこと。その2、ラジカル
さと粘り強さと真摯さを失いさえしなければ、本当の意味で負けることはない、
と悟ったこと。その3、詩を書いている魅力的な女性に見初められたこと。彼女
は後に我が配偶者となるのだが、そこら辺の話は、また別の機会に。


**


 言うまでもなく(というのは私と結婚したことから明らかなようにという意味
だが)、我が配偶者もやはり合を背負った女だ。そのことを書こうと思う。

 我々夫婦は、年に2回(すなわち春茶の季節と冬茶の季節)に台湾へ旅行する
のだが、去年から配偶者がやたらと台湾の雑誌を買いあさっては、日本に持って
帰るようになった。大きな鞄を用意して、そこに買い込んだ雑誌をどかどか放り
込んで、自分で担いで帰国するのだ。(残念ながら私には手伝えない。私は私で
自分で買い込んだものを運ぶので手一杯だからだ)

 日本に帰ってからしげしげと観察した私は、それらの雑誌に共通するポイント
を発見した。どれにもこれにも李心潔(アンジェリカ・リー:マレーシア出身の
女優、歌手)の写真が載ってるのだ。"ELLE"台湾版(表紙が李心潔)、映画雑誌
(李心潔特集号)、芸能雑誌(李心潔インタビュー)・・・。

 なぜ? どう考えても我が配偶者の趣味とは思えない。さらに不可解なのは、
配偶者は、それらの雑誌を丁寧に包装してはあちこちに郵送しているようなのだ。
いったい彼女にどのような秘密が? アルカイダと何か関係があるのだろうか?

 好奇心を抑えられなくなった私は、互いの趣味活動に干渉しない(例えば私が
TRPGについて何を書こうと、彼女は一切関知しないことになっている)とい
う我が家の暗黙のルールを破って、一体それはどういうことかと尋ねた。

 彼女は、映画『プリンセスD』(想飛、"Princess D")のDVDを取り出して
きて、まずは黙ってこれを観ろ、と言った。私はこの映画を観て、一発で李心潔
にヤラれてしまった。うっ、うわあ、可愛い。かあいい、かわいいぞ、李心潔!!

 それから続けざまに『擯榔売りの娘』(愛イ尓愛我、"Betelnut Beauty")と
「アイ」(見鬼、"The EYE")を観せられ、一晩中、李心潔のミュージックビデオ
を何枚も続けざまに観せられた。これはもう、完璧に洗脳である。それまで私の
心の中でずっと“最も可愛い女優”の地位を占めていたのは舒淇(スー・チー:
台湾出身の女優、モデル)だったのだが、この洗脳のおかげで今やこの栄誉ある
地位は李心潔のものとなった。(ちなみに、舒淇は“最も美しい女優”の地位に
格上げとなった)

 私が李心潔にメロメロになったことを確認してから、配偶者はようやく秘密を
明かしてくれたのだが、それは私にとって世にも奇妙な話であり、実のところ今
でも正確に理解しているという自信がない。何かとてつもない勘違いをしている
か、または配偶者にデタラメを吹き込まれたのでは、という疑惑を振り払うこと
が出来ない。が、とにかく、聞いたことを私なりにまとめて、とまどいながらも
懸命に以下に記すものである。(後世の研究家の方々へ。21世紀初頭の日本の
文化風俗に詳しい民俗学者に確認をとることをお勧めします)


**


 まず、週刊少年マガジンに『はじめの一歩』(森川ジョージ作)というボクシ
ング漫画が連載されてますよね。人気作品だし、アニメ化もされたので、たぶん
皆様もよくご存じのことだと思います。私の書斎にも、コミックス全巻が揃って
います。ちなみに台湾版である『第一神拳』(このタイトル、かっこ良すぎ)も
持ってますが、これを読むと、日本語の人称敬語は中国語には訳せない、という
ことがよく分かります。いや今はそんなことはどうでもいいですね。

 さて、このコミックには、宮田君というヒロインが登場します。いや、設定上
は、宮田君(男)は主人公である一歩(男)のライバルということになっている
のですが、何と申しましょうか、コミックの文脈として彼は“ヒロイン”の役割
を果たしているわけですよ。読めばすぐに分かる通り、この二人が会うシーンは、
シチュエーション、構図、セリフなど、漫画表現技法の全てが典型的なラブコメ
の文法に沿って描かれているのです。おかげで設定上のヒロイン(女)の存在感
が薄いこと薄いこと。気の毒です。

 で、『はじめの一歩』の読者のなかには「わたし宮田君のファンなの」という
女性が多々いらっしゃるわけです。彼女達にとって『はじめの一歩』という作品
は、一歩と宮田君のラブコメ、というのが共通認識となっているようです。ここ
まではよいですね?

 かような宮田ファンの女性たちは、一歩と宮田君が登場するパロディコミック
を自分たちで描いて、ファンジン(ファンのための同人誌)に載せるわけです。
ちなみに、日本では、これは“ふ女子のたしなみ”と呼ばれる活動であり、ごく
普通のことです。

 ここで問題となるのは、宮田君の絵をどのようにして描くか、という点です。
オリジナルを模写すれば問題ない、というわけにはいきません。いや、法律上の
問題ではなくて(そんなこと誰も気にしません)、技術的および心理的な問題が
あるのです。

 技術的な問題というのは、任意のポーズをとらせるのが難しいということです。
オリジナル宮田君は二次元の絵ですから、別の姿勢をとらせたり、別の角度から
見たりした絵を描くことは、そんなに簡単ではありません。プロの漫画家にすら、
特定方向から見た特定ポーズのキャラしかまともに描けない方々もいらっしゃる
くらいです。特にどなたとは申し上げませんが。

 心理的な問題というのは、こういうことです。オリジナルの宮田君を「模写」
しても、それはあくまでオリジナル宮田君のコピーに過ぎません。当たり前じゃ
ないかと突っ込むなかれ。彼女たちが描きたいのは、自分の、自分なりの、自分
だけの宮田君、つまり「わたしの宮田君」なのです。オリジナル宮田君を複写し
ても意味がないのです。なぜかと私に聞かれても困ります。

 そういうわけで、彼女たちは宮田君のイメージに合うモデルを探します。その
モデルの写真や映像をたくさん集めて、それをもとにデッサンして、「わたしの
宮田君」を描くのです。

 まだ大丈夫ですね? ついてきてますね?

 さて、ここでやっと話はアンジェリカ・リー、すなわち李心潔につながります。
彼女は「わたしの宮田君」のモデルに最適なんだそうです。我が配偶者が李心潔
の写真を宮田ファンである知人に見せたところ「似てるーっ、もろに宮田君」と
いたく感激されたようで、その話がわっと広まって、いまや李心潔はその方面の
友人知人たちから「ナマ宮田」と呼ばれているそうです。

 ともあれ、それまでは手近なモデル(釈由美子とか)で間に合わせていた宮田
ファンの方々が、やっぱナマ宮田を使うのが本道よね、ということになっちゃっ
たらしく、我が配偶者は宮田ファンの友人知人のために李心潔の写真を集めて、
せっせと配布することになった、というのが事の真相。

 よく分からない? 私にもよく分かりませんが、とにかくそういうことなんだ
そうです。

 ちなみに、同じように一歩のライバルである千堂君のファンの間では、Jay
(周杰倫:台湾出身の男性歌手)が「ナマ千堂」として需要が高まっているそう
で、配偶者は、買う雑誌が増えたと嘆いています。困ったものです。ちなみに、
またもや私はJayのミュージックビデオを全部観せられるはめになりました。
それでようやく、Jayのコンサート会場につめかけた台湾の少年少女たちが、
「大好きJay」と日本語で書かれた横断幕を振っていた理由が分かったという
次第ですが、これもどうでもいい話ですかそうですね。


**


 このまま延々と書き続けていると、この原稿、Scoops RPG史上初の“没”を食
らいそうな気がしてきたので、申しわけ程度にTRPG(テーブルトークRPG)
の話をしようと思う。

 昨年は、TRPGを建物に見立て、その土台(ロールプレイング)、柱(背景
世界)、屋根(物語)、について考えた。今年は、その続きとして、まずは住人
(キャラクター)について考えてみたい。

 キャラクターとは何か。それは背景世界の中で活動しているプレーヤーの分身
なのだろうか。それとも豊富な属性を持った特別なゲームトークンなのだろうか。
あるいは物語の登場人物という字義通りの存在なのだろうか。

 ナマ宮田のことを考えてみよう。彼女は、いや彼なのか、よく分からないが、
とにかくナマ宮田は李心潔ではない、別のキャラクターである。もちろん李心潔
だって、入念に作り上げられた偶像=キャラクターであり、実際に生きて呼吸し
ている生身の女性とは別の存在なのは明らかだ。私が萌え萌えなのは、李心潔と
いうキャラクターに対してであるから、存在論的に別人である現実の女性が何を
しようと私の萌えとは無関係ということは明白であるはずなのに彼女が「アイ」
の監督とデキてるとか聞いたりすると大いに動揺したり激昂したり嘆き悲しんだ
りしてしまう自分は矛盾していると思いつつも悩んでしまう厄年の私。

 落ち着いて最初から。

 李心潔とナマ宮田、それをモデルに描かれた多数の「わたしの宮田君」たち、
その元ネタであるオリジナル宮田君。これらのキャラクターたちの関係はどう考
えればよいだろうか。アイデンティティはどこまで保存されているのだろうか。
原作とぜーんぜん異なる設定、例えば学園モノに登場して学ラン(萌え、らしい)
を着て教室にいる「わたしの宮田君」が、それでも何のためらいもなく宮田君と
して受け入れられるのはなぜか。

 キャラクターについて存在論的に考えると、次から次へと疑問が湧いて収拾が
つかなくなる。しかし、こういう疑問について考えてもあまり有益な結論が出て
くるとはとても思えない。

 そこで、ここは一つ思い切って、キャラクター自身がアプリオリに存在してる
と考えるのは止めて、キャラクターに対する「思い入れ」こそが全てである、と
見なすことにしてみよう。つまり、キャラクター自体は単なる記号か、あるいは
ゲームであればゲームトークンに過ぎず、キャラクターに対する思い入れ、すな
わち「萌え」こそが本質的に重要であり、考察の対象として意味がある、と考え
るのだ。哲学では、このような立場を「唯萌論」と呼ぶ(嘘)。


**


 次回から馬場コラムでは萌えについて考察してゆくが、唯萌論の立場から誠実
に話を進めるためには、どうしても「都ちゃんに萌え萌え」とか、そういう恥ず
かしいことを告白しなければならないことが予想される。40過ぎのオヤジが萌え
萌えいうのは相当に恥ずかしい。こう書いているだけで恥ずかしい。この恥ずか
しさが快感になったり性癖になったりしたら嫌だなあ、という不安も伴う。

 ここでふと我にかえって自問するに、そもそもなぜ私はこうまでしてTRPG
コラムを書き続けなければならないのであろうか?

 昔の仲間たちは原稿を書いて収入を得てるというのに、私が貴重な休日を潰し
睡眠時間を削って一生懸命に原稿を書いても、得られるのはせいぜい非難や罵倒
だけだ。そろそろ損な役割は他人に任せることにして、連載終了した方がよいか
も知れない。

 いや、マジにそうだよね?

 私は占星術を信じてないし、大して興味も持ってない。だが、中年期に入って
自分のやるべきことに迷いが生じたとき、占ってみるのも悪くないのではないか。

 というわけで、我が配偶者にお願いして、私のホロスコープなるものを調べて
もらった。それによると、中年期の行動は、木星の支配を受けているとのことだ。
木星よ、我を導きたまへ。1962年11月4日の午前5時に生まれた私は、中年期をい
かにして過ごす運命にあるのか。

 以下は、『決定版!! サビアン占星術』(松村潔)からの引用である。


  ・本当に価値があると感じ、もっと発展させるべきだと思う思想、体系、
   物品などを、風化から保護するために努力する人です。
   また、価値の評論者としても有能な働きをする人でしょう。



馬場秀和
since 1962


馬場秀和が管理するRPG専門ウェブページ『馬場秀和ライブラリ』


 この記事はScoops RPGを支える有志の手によって書かれたもので、あらゆる著作権は著者に属します。転載などの連絡は著者宛てにしてください。

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