馬場秀和のRPGコラム 2004年8月号



『都ちゃんに萌え萌え(2)』



2004年8月2日
馬場秀和 (babahide*at*da2.so-net.ne.jp)
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都萌シリーズ目次

   『まえがき』    (1)    ★(2)    (3)    (4)    『あとがき』    






 本コラムが公開される頃にはいささか古い話題になっていることでありましょ
うが、田中啓文さんが『蹴りたい田中』で第130回茶川賞を受賞なされました。
おめでとうございます。田中氏の愛読者の一人として、こみ上げてくる喜びを抑
え切れない思いです。

 思えば氏は、駄洒落SF、駄洒落ミステリ、駄洒落ホラー、駄洒落エッセイ等
多彩な分野において、「低きに流れる孤高の作家」「追随者なき第一人者」「誰
にも真似されない独特の作風に乗ってハイスピードで失踪しつづける作家」等々
と非常に高い評価を受けていながらも、主流文学界からは全くと言ってよいほど
無視されてきた不遇の小説家でした。

 ある文芸雑誌のインタビューで、かの片山恭一さんが、自作タイトルについて
「ハーラン・エリスンの『世界の中心で愛を叫んだけもの』のパクリではないか」
と質問され、「あれは小学館の編集者が勝手に決めた題名で・・・。それに彼は
田中啓文さんの『世界の中心でアイ〜ンと叫んだらのけもの』にインスパイアさ
れたと言ってましたよ」と、とぼけてみせたところ、インタビューアーは、大手
出版社(しかも田中啓文氏の本も出している)の編集者でありながら何のことか
全然分からず、思わず「はぁ?」と気の抜けた返事をしてしまった、というのも
彼女は、ハーラン・エリスンは知っていても、田中啓文については名前すら聞い
たことがなかったのだった、というようなエピソードが、まことしやかに囁かれ
たとしても決しておかしくないほど、それほど知られざる作家だったのです。

 それが、茶川賞という形で、ようやく現代日本を代表する優れた文学者として
世間に認められる日が来たのです。感無量です。

 私は、同じ土地(大阪です)で、同じ年に生まれた(誕生日は数日の差です)
ためか、一面識もないにも関わらず、田中啓文さんに特別な親近感を感じてきま
した。田中さんの作品を読む度に、ああこの人は、私と同じときに、同じものを
読んで、同じものを観て、同じものを聴いて、同じ空気を吸って、そうやって、
同じ様にダメになっていったのだな、という共感を感じずにはいられないのです。

 もちろん、私より熱心な愛読者はいくらでもいるでしょう。私は田中啓文さん
の著書を、出版されてすぐに絶版同然の入手困難になってしまったものを除いて
全て持ってますが、それはつまりほとんど持ってないということになりますから、
マニアックなファンからは鼻で笑われるに違いありません。ひょっとしたら、口
でも笑われるかも知れません。でも、私が田中啓文さんを応援している気持ちは、
決して、いい加減なものではありません。ハルウララのファンのそれと同様に、
熱烈なものなのです。

 そうそう。私には、自慢できる宝物があります。田中啓文さん直筆サイン入り
イラスト原画、怪獣エビラビラの絵です。といっても、短編集『蹴りたい田中』
(早川書房)に収録されてる大伴風イラスト(「越後屋三万人分の悪賢さをもつ
エビラビラ脳」などの科学解説がついている体内図)ではなく、e-NOVELSで販売
されたときの、表紙イラスト原画です。この世に1枚しか存在しないものです。
えっへん。

 e-NOVELSで原画プレゼントのお知らせを見たとき、私はほとんど反射的に応募
してしまいました。1週間ほどして、「厳正な抽選の結果、馬場秀和さんが当選
しました」という旨の通知があったときには、正直言ってうろたえたものです。
ほんま抽選したんか、ほんまにほんまかぁ、実は応募したんはワシ一人やったん
ちゃうんかぁーっ、などという猜疑心までが、むくむくと沸き起こる始末です。
困った、困った。さあ困った。

 何が困ったんだってあんた、そのイラストは、見るもおぞましく忌まわしい、
ぬとぬとのべとべとのきしゃーけしゃーな絵だったからです。長時間の鑑賞は、
脳腫瘍を引き起こす恐れがありますのでご注意下さい、優先座席のそばでは開か
ないで下さい、というような絵です。勢いで応募したものの、実際にあの絵が送
られてくるかと思うと憂鬱でした。まあ、届いたら速効『宇宙人の死体写真集』
(中村省三)とか『天使の緊縛』(藤野一友=中川彩子)とか、本棚のそこら辺
の領域に突っ込んでしまって見えないようにすればいいや、とか思っていたので
すがね。それが何と額縁付きで送られてきたんですよ、額縁付きで。壁にかけて
鑑賞したらんかぃ、おらぁ、という私に対する挑戦ですね。これは。

 いよいよ送られてきたそれの、包装を解いている間は、ドキドキものでした。
あの絵を飾れというのか。あんな謎の怪電波を放っているような絵を、壁にかけ
たりして、友人がいなくなるくらいならまだしも、ガラモンがおびき寄せられて
来たらどうするのだ。いや、実際どうするのだ。

 ところが、包装を解いて絵を見ると、あれっ、てな感じでしたね。カラー版の
毒々しさが全くない、素朴なモノクロ絵です。率直に言うならば、まぬけな絵、
でした。如才なく遠回しに評するなら、おまぬけな絵、でした。脱力しました。
田中啓文さんは、文章を書くだけでなく、楽器も演奏なさるし、絵まで描けるの
です。まことに、天は二物を与えず、です。

 あの絵が放っていた毒電波は、原画に着色してデジタル加工を施した牧野ねこ
いや牧野修さんのなせる技だったのです。しかし、どうやったら、この、まぬけ
な原画を、着色加工しただけで、あのような禍々しいイラストに仕立てることが
出来るのでしょうか。オヤジのセクハラ発言と、インキュバス言語ほどの違いが
あります。どうやら牧野修さんには近づかない方がよさそうです。

 というわけで、エビラビラの原画はめでたく書斎の壁にかけられ、私はそれを
見ながら原稿を書いています。意欲が湧いてきます。宝です。ボクの宝物。


**


 という長い前ふりを書いているうちに収拾がつかなくなって来たのだが、何が
言いたかったのかというと、短編集『蹴りたい田中』の帯に書かれている“41
歳の瑞々しい感性が描く青春群像”というキャッチコピーに、ぐっ、ときたのだ。
いや、そんだけかいっ、そんでこの長い前ふりなんかいっ、という突っ込みは、
まことにごもっともですが、そうです。そんだけです。それが何か?

 というわけで、41歳のみずみずしい感性。そうだ、私にもそれがある。もう
RPGだゲームだ意志決定だ、などとしおしおなことを書いている場合じゃない。
41歳のみずみずしい感性で、語るべきなのだ。何を? そうだ。愛について。
愛について書くのだ。おし。

 というわけで、さっそく主治医に相談しました。


  「先生、次のコラムのテーマは愛です。瑞々しい感性で愛を描きます」
  「前に言っていたコラムはどうなったのですか」
  「書き上げて投稿したんですが、2カ月近くたっても公開されません」
  「そうですか・・・」
  「それで、愛についてのコラムですが、書いてもいいですか」
  「なるべく具体的に書くようにして下さい。抽象的なことじゃなく」


 というわけで、具体的に愛について書くことになったわけだ。しかし、具体的
な愛ってなんだろう? 愛は本質的に抽象的なものではないのだろうか。

 まあとにかく、今回のコラムでは、この上なく具体的で、かつ切実な愛の苦悩
をテーマに書こうと思う。つまり、自分の問題について考えてみようというのだ。
これが、その問題である。

  ・付き合い始めてから14年、同棲してから13年、結婚してから8年経つ
   のに、どうして私の配偶者は一度もセックスさせてくれないのだろうか?

 いや、本当に切実なんです。EDとかそんな甘っちょろい悩みじゃありません。
入れさせてくれないんですよ。一度も。14年も。さきっぽも。どこにも。


**


 そもそも私の家系は、女性がその配偶者を振り回すというジンクスを抱えてい
るようだ。

 例えば私の祖母は、夫(つまり私の祖父)と離婚して、幼い息子(つまり私の
父)を残したまま行方不明になってしまった。

 あの頃に女性の方から離婚するなど、正気の沙汰ではなかった。人生を捨て、
世間から見捨てられるのと同義だったのである。そういう時代だった。ちなみに
我が配偶者の曾々祖母は、夫から一方的に離縁されたにも関わらず、実家に戻る
ことも許されず、どこにも行き場をなくした挙げ句、とうとう川の淵に身を投げ
てしまったという。しかも、それでも、孫の代になるまで、お骨を両家とも引き
取ろうとしなかったらしい。そんな時代だったのだ。

 ところで、行方不明になった私の祖母であるが、身投げなどせず、ちゃっかり
と九州近くの島に上陸し、そこで山にこもって滝に打たれて修行を積んだ。など
と書くと、またぞろ出たかホラ話、と読者は思うやも知れないが、これは私が父
から聞いた話そのままである。そうしてある夜、祖母は、真っ白い蛇を見たのだ
そうだ。

 そして山を降りてきた祖母は、御告げ(予言)、千里眼、などの力を発揮し、
またそれが恐ろしいほど正確に当たるので、いつしか島の生き神様として有名に
なった。ついには島の神社の神主から声がかかり、正式な巫女となって、幸せな
余生を送ったという。嘘のような本当の話である。

 実は、私は幼い頃に、一度だけこの祖母に会っている。もっとも幼すぎて記憶
にはないのだが。私が生まれた後、父が「実の母に孫の顔をみせよう」と決心し
(祖父は既に他界していた)、私を連れて島に渡り、祖母に会ったのだという。
そのとき、祖母は私について様々な予言をしたらしい。成人した後、そのことを
尋ねると、父は「そんなこと、お前は知らんでええ」とものすごく恐い顔つきで、
そのように答えた。どういう話の流れでそんな話題になったものか、そこら辺の
記憶は定かではない。けれども、なぜかそのときの父の顔だけは、今でも鮮明に
覚えているのである。


**


 私の母は、突然「茶名がほしい」と言い出した。茶名というのは、宇治茶とか
凍頂烏龍茶とか、そういうのではない。茶道の師匠になりたい、というのだ。

 茶道の師匠として免許皆伝となると、「茶道の正統後継者」の証としての名を
名乗ることが許される。これが茶名である。茶名を得るためには、まずは10〜
20年の修行、それに家一軒建てるほどの資金が必要となる。突然「ほしい」で
手に入るものでは、ない。

 しかし、母の執念は尋常ではなかった。資金集めのために会社(有限会社)を
興して商売を始めると言うのだ。大阪という土地は、経験のない素人が商売に手
を出して生き残れるような、そんな甘い場所ではない。当時、高校三年生だった
私は、破滅の予感をひしひしと感じて、必死で受験勉強に取り組んだ。破局の前
に東京へ逃げるためだ。出来れば火星まで逃げたかった。一家心中の巻き添えに
なるのは御免だ。どうか災いが自分には及びませんように、遠くへ逃げられます
ように、と祈った。親不孝な話である。ともあれ無事に大学に合格した。東京へ
引っ越す日、母がお祝いに実印を作ってくれた。もうお前も一人前なんだから、
自分の実印を持っておけ、と。私は何だか胸が一杯になって、黙ってそれを懐に
入れて東に向かった。

 さて、おりしも日本をバブル景気が覆った。母の興した会社は急成長を遂げた。
商売相手から「ものごっつ、えげつない」と評判をとるような商いだったらしい。
そして、5年でいきなり会社を潰すと言い出した。まさに急成長中の会社を、で
ある。誰もが驚いたらしい。私も不思議に思って、なぜかと問うてみた。すると、
母いわく「最初の5年間は、税務署の監査が入らへんねん。来年、監査が入った
ら手が後ろに回ってまう。そやから会社潰して証拠を消すんや」と。

 周囲の人が必死で止めたにも関わらず、結局、母は商売を畳んだ。その直後だ。
ついにバブルが崩壊して、日本を未曽有の大不況が襲ったのは。

「危なかったなあ」と私が言うと、母は「ふんっ」と笑って、「もしヘタ打った
としても、創業資金はあんた名義で借りてたんやから、うちはばっくれて夜逃げ
するだけのことやった」と言い放った。周囲の人は冗談だと思って笑っていたが、
私は笑えなかった。夏休みに帰省するとき、ひつこく「ちゃんと確認したるから
実印と印鑑証明書を持って帰れ」と言われて、その通りにしたことを思い出した
からだ。母は、冗談を言わない人だ。

 そうして得た金を、母は全て茶道につぎ込んだ。師匠への謝礼金、茶室、陶器、
着物、掛け軸、和菓子、茶道具。お金は、排水口に流れ込むような勢いで消えて
いった。ちなみに、茶道というのは、お茶を飲むためのものではない。お茶は、
あくまで茶会を開くための言い訳であって、実際には茶会で集まった有閑階級が
自分の教養(と財力)を互いに見せびらかすという、例えて言うなら古書マニア
と稀覯本コレクターが古書店で開く集会のようなスノッブな活動なのだ。

 私は聞いたことがある。茶会では、お茶はどんなものを飲むのかと。母の答は
「知らん。お茶はただの緑色の粉や」・・・それが茶道というものなのである。

 そうして、バブルで儲けたあぶく銭をはたいて、当初の目標通り、母は茶名を
得た。裏千家『馬場宗弘』、それが母の茶名だ。いずれ戒名にもなるだろう。

 茶道の師匠の資格を得たのだ。これからは、弟子をとるだけで、謝礼金がざく
ざく入ってくるというのに、母は弟子は取らないという。なぜかと問うと「謝礼
の2割を家元に渡さないかんのや。あほらし。何で赤の他人にタダで金渡さんと
いかんねん」と。いや8割は自分のものになるんだから大儲けだろうに、と私は
思ったが、そこではっと気づいた。母は最初から茶名を得ることが目的であり、
それ以外には目もくれなかった。あれだけの金を儲けて、費やしながら、一度も
金に使われたり、気が変になったりすることなく、目標だけを見つめ、とうとう
それを達成したのだ。何という人だろう。

 「茶名たって、4文字のうち3文字は本名そのままなんだから、結局のところ
手に入れたのは漢字ひと文字じゃない。それにあれだけのお金を費やして、後悔
してないの?」と私が尋ねると、母は真剣な顔つきでこう言った。

 「ええか、お金というもんはな、お金では買えんもんを手に入れるために使う
ものや。よう覚えておき。もっともお前には遺産は一文も渡す気はないけどな」

 いや、遺産は全て妹夫婦にやって下さい。私はそのありがたいお言葉だけで、
充分です。


**


 そして私の番である。

 私は島野律子という女流詩人と結婚したのだが、出会ってから今日まで一度も
セックスさせてもらったことがない。私はヤル気まんまんなのだが、彼女が頑と
して許してくれないのである。私はしたいのに。猛烈にしたいのに。前からでも
後ろからでも上からでも下からでも。

 なぜ彼女がさせてくれないのかを理解するまで、実に10年近くの歳月が必要
だった。最初は、恥ずかしがっているのかと思った。次に、性的モラルあるいは
戒律のようなものかと考えた。何らかの事情でセックス恐怖症、あるいは嫌悪症
なのか、とも想像した。それなら私の深い愛で癒してあげるよ。さあリラックス
して、ボクを信じて、惹かれあう魂を感じて、とりあえずパンツ脱いで。

 実は、真相は、もっとずっと単純なことだった。彼女は性欲異常、性的倒錯、
ってのは表現がよくないのだな、要するに特殊なセクシャリティの持ち主だった
のだ。

 セクシャリティというのは、性的指向のことである。例えば、異性にしか性欲
を感じない大多数の人は、ヘテロセクシャル(異性愛)という性的指向を持って
いる。ややマイナーな性的指向として、同性にのみ性欲を感じるホモセクシャル
(同性愛)、異性・同性どちらにでも性欲を感じるバイセクシャル(両性愛)が
ある。

 むろん、他にも様々なセクシャリティがあり得るし、実際に存在する。機関車
トーマスにしか欲情しない人、とか、爬虫類の死体にしか欲情しない人、とか。
しかし、これらはまあ例外ということにしておいてもよいだろう。人類の大半は
さきほど述べた3つのセクシャリティのいずれかに分類できることになっている。

 ところが、実は例外というほどマイナーではないが、しかし3つのセクシャリ
ティのいずれにも属さない人がいる。それが、ノンセクシャルである。
つまり、異性にも同性にも何にも欲情しない。そもそも他人とセックスをしたい
という性的欲求を持ってない、理解すら出来ない、という人である。
そう、島野律子はノンセクシャルだったのである。


**


 このことを私が納得するまでに、ずいぶんと時間がかかった。私は完全な異性
愛者で、もちろん同性愛者が存在することは知っていたし、それは理解の範囲内
だった。要するに性欲がどこに向かうか、というだけの違いだ。しかし、生まれ
つき性的欲求がない、恋愛というものを理解も想像もできない、などという人が
存在するとは夢にも思っていなかった。ましてや、自分の妻がそうだなどと。

 「だから、性的欲求もないし、恋愛したこともない。何度も説明したでしょう」

と彼女は言うのだ。それは確かにそうだが、私としては、何か他に私とセックス
したくない理由があって、無茶な言い訳をしているのだ、としか思えなかったの
である。

 考えてもみてほしい。性的欲求や恋愛感情が、というよりも、そういう概念が
すっぽり抜け落ちた世界を生きている、などという状態が想像できるだろうか。
誰を見ても、誰と一緒にいても、何ら性的なことや恋愛的なことを意識しない、
という精神のあり方を。それは、私の観点からは、異星人のように想像を絶する
奇妙な存在にすら感じられるのだ。

  「子供の頃は、恋愛というのはフィクションの中の設定だけだと思ってた」

  「周りの友達が本当に恋愛感情なるものを持っていると知っても、嘘でしょ
   という感じだった。さすがに成人する頃には、恋愛感情を持つ能力が欠落
   している自分の方が特殊だということに気づいたけど」

 それは、それは。さぞやショックだったことだろう。自分の友達はみんな人間
なのに、自分だけがイグアナだった、と気づくようなものだろうか。

  「生理的欲求はある。でも、性的欲求はない、っていうか理解できない」

と彼女は言う。性的欲求と生理的欲求が違うということを、私は初めて知った。
私にとっては両者の区別はないに等しいからだ。射精したい、というのと、誰か
とセックスしたい、という欲求は、根本的に異なる欲求らしいのだ。

 というわけで、以降では「性欲」という曖昧な言葉は避けて、性的欲求(他人
とセックスしたいという欲望)と、生理的欲求(男性の場合でいうと、とにかく
一本抜きたいという欲望。下品ですまん)という用語を使うことにする。

 しかし、それにしても、性的欲求と生理的欲求はそんなにはっきり分離できる
ものなのか。そこら辺が私によく理解できないため、彼女の方はなぜ理解できな
いのかを理解できないため、私たちは夫婦間の珍問答を繰り広げることになった。

  「じゃ、生理的欲求の方はどうやって解消しているの?」

  「オナニーで」

  「お、オナニーって言うなあっ。せめてマスターベーションと言ってくれ」

  「どう違うの?」

  「よく知らんが、オナニーは卑猥語で、マスターベーションは批判語なんだ」

  「・・・とにかく、わたし、三歳のときから毎日してるから」

  「え? 何を?」

  「マスターベーション」

  「さ、三歳って、えっ、生まれて3年目ってことですか。エブリディですか」

  「そう」

 ががーんっ。そ、そんな。幼稚園に入る前からですか。小学校、中学校、高校
ずっとですか。んで、同棲していたときも結婚してからも、私に内緒でオナニー
三昧の日々ですか。そうなんですか。そうなんですか。そ、それでも、セックス
したいとは思わないんですか。

  「セックスしたいとはちっとも思わない。一度も思ったことない」

  「じゃ、その、今だに処女なわけ?」

  「セックスの経験はないけど、挿入したことはあるから処女膜ないと思う」

  「そ、そ、そ、挿入って、いつ? 何を?」

  「四歳のとき。椅子の背もたれの出っ張り」

 イスノセモタレノデッパリって何ですか、埼玉に棲息する妖怪ですか。ってか
四歳ですか。四歳というのは、もしかして、生まれて4年目ということですか。
ショックのあまり絶句してしまった私の気持ちを察して頂きたい。

  「よよよ、四歳、イスノセモタレノデッパリ、そそそ、挿入」

  「詳しい状況、知りたい?」

  「いや、いいです(ぶんぶん)、結構です」

  「そういうわけで、セックスも恋愛もしない」

  「じゃ、何で付き合って結婚したんよ」

  「んとね、可愛いかったから。そばにいて欲しかったから」

  「それは、恋でも性的欲求でもないと」

  「全然。純粋な愛」

 これは喜ぶべきことなのだろうか。恋心や性的欲求に流されてではなく、純粋
な愛で私と一緒になることを決めたというのだ。喜ぶべきなのだろう。でも、私
としては、愛欲ただれるみだらな交際をしたかったなあとも思うのだ。


**


 ところで、こういうことを書くと、セックスレス=夫婦仲が悪い、と短絡する
読者がいるといけないので念のため強調しておくが、うちは夫婦仲は良い。いや、
私たちほど仲が良い夫婦も少ないのではないかと思う。

 私たちは同じ布団に寝ている。ダブルサイズの布団に、枕を並べて、お互いに
くっついて、すやすや眠る。朝は一緒に手をつないでマンションを出る。途中、
私たちが「別れの交差点」と名付けたところまで来ると、ぎゅ〜っ、と手を強く
握り会う。ここで二手に分かれるのだ。私は右折して福生駅に、彼女は左折して
東福生駅に。「また夕方にね」と再会を約束して。さすがに毎日のことなので、
今ではもう涙目にはならないけれど。

 夕方も、待ち合わせて二人で一緒に帰宅する。手をつないで、横田基地の住宅
地域との境になっているフェンス沿いの小道をとぼとぼ二人で歩く。歩きながら
今日のことを話し合う。主な話題は「ばばこ(夫婦間での私の呼び名)がいなく
て寂しかった」「りつころ(夫婦間での彼女の呼び名)がいなくて、寂しかった」
というものだ。

 夕食の後、もちろん一緒にお風呂に入る。「おなかっ」とか「せなかっ」とか
「おしりっ」とか言いながら互いの身体をぺたぺた触る。しかしながら、性器と
乳房を触るのは禁止、というルールになっている。いや、私は一向にかまわない
のだけど彼女が嫌がるので。私は背中をごしごし洗ってもらい、出てからタオル
でふきふき拭いてもらう。これは我が家では彼女の特権と見なされており、私に
拒否権はない。

 その後、布団を敷いた上で、ひざ枕で耳掃除をしてもらう。それから、お互い
の足裏、膝裏、アキレス腱、腰、をマッサージしあう。かなり痛いけど、これが
実に気持ちいい。事実上、これがセックス代わりになっているのかも知れない。
どんなに眠くても、毎晩これだけは欠かせない。というか、これをやらないと、
寝つけないのである。

 布団に入ると腕枕をしてもらう。私が「うでまくら〜」と頭を持ち上げて催促
して(結構、腹筋を使う)、彼女が「はいはい。ばばこはかわいいねぇ〜〜」と
応えて伸ばした腕に、私が頭を乗せる、という手順が決まっている。それから、
「りつころ好き〜〜、愛してる〜、ちゅうう〜(キスキス)」「ばばこ好き〜〜、
大切大切〜、ちゅうう〜(キスキス)」というようなやりとりをしてから、二人
ですやすやと眠る。

 あるとき、私が書斎から廊下に出ようとしたときのことだ。彼女も、ちょうど
居間から廊下に出たところだった。突然、彼女は衝動に駆られて「ばばこーっ」
と叫びながら、私めがけて廊下を突進してきたのだ。

 彼女の目論見としては、私に抱きついて、きゅーっ、とする予定だったのだが、
何しろこちらはとっさのことで状況が把握できない。何やら奇声とともに廊下を
突進してきたので、反射的にさっと身を引いてしまった。

 彼女は、一瞬前まで私の身体があった空間に飛びついてしまい、勢い余って止
まることも出来ず、また廊下が滑りやすいもので、そのままつつつーっと滑って
「ばばこーっ」と悲鳴をあげながら玄関に突入、くつ箱を派手にひっくり返して
やっと停止した。私が慌てて玄関の照明をつけると、靴が散乱した中に、彼女が
しりもちをついて唖然としている様子が浮かび上がったのである。

 そろそろ納得頂けたことだろうか。読解力が非常に乏しい方(本コラムの読者
には多いのだ)のために解説しておくが、これらのエピソードは、私たちの夫婦
仲は非常に良好で、彼女と私は互いに愛し合っているということを示しているの
である。文句ありますか?


**


 薄々思うのだが、実はノンセクシャル、特に女性のそれは、知られているより
もずっと多いのではなかろうか。というのは、ノンセクシャルの女性でも性交し
て妊娠することは可能なので、世間どころか配偶者ですらノンセクシャルである
ことに気づかない可能性が高いからである。(配偶者にはっきりと言われても、
それを心から納得するまで何年もかかった私のように、セクシャルマイノリティ
に対する理解のない男性は珍しくない)

 特に昔であれば、本人の恋愛感情や性的欲求の有無など関係なく、世間の圧力
で結婚し、淡々と性交して妊娠し、出産して子育てする、そんなノンセクシャル
の女性がいたとしても、決してノンセクシャルだと気づかれることはなかったに
違いない。それどころか自分がそうであることを知らない無自覚ノンセクシャル
女性も多かったのではなかろうか。

 朝日新聞社が出しているオヤジ雑誌『AERA』が、5月10日号に「若者よ
セックスを嫌うな」というタイトルの記事を載せている。それによると、“過去
1年間にセックスをしたかどうか”についての20代のデータを比べると「この
3年間で、男性は74%から68%、女性では81%から62%と激減している」
とのことで、これは異常な事態だと騒ぎ立てている。

 これには、他にも理由は色々あるかも知れないが、一因としてノンセクシャル
の女性が「自分がしたくないものはしない、させない」とはっきり主張するよう
になったこともあるのではないか。同記事では「セックスに苦痛を感じる、性欲
がわかない」という女性が増えていることを指摘しているが、実は増えているの
ではなく、昔は、そういうことを堂々と言えない、セックスを拒否できない、と
いうだけのことだったのではないかと思う。

 さらに同記事はこのような女性を「女性性機能障害」だとし、それは「治すも
の、ととらえる動きが進んでいる」としている。まるで同性愛を病気であるとし、
治療すべきものとしていた、同性愛解放運動以前の保守派のような言いぐさだ。
そろそろノンセクシャル解放運動を始めないと「セックスはしたくない。興味も
ない」というノンセクシャルの女性は、性機能障害、病気、わがまま、負け犬、
少子化の元凶、社会の敵、非国民、なんていうレッテルを張られて迫害されるの
ではないだろうか。

 さあ、セックスしたくないあなた、嫌なのに仕方なく応じているあなた、世間
に合わせて恋愛話に付き合っているが実は何の興味もわかないあなた、まず自分
がノンセクシャルではないか、と内省してみましょう。そして、そうだ、そうだ
私はノンセクシャルなのだ、そしてそれはセクシャルマイノリティであるという
だけで、異常でも性機能障害でも悪いことでも恥ずかしいことでもないのだ、と
いう自覚に目覚めたあなたは、堂々とカミングアウトしましょう。
「私はノンセクシャル。自分が嫌で興味もないことは、しないし、させない」

 おお、今回は政治的なコラムになった。

  「誰と付き合っても、恋愛感情や性的欲求を感じない自分は異常だと思って
   悩んでいましたが、馬場さんのコラムを読んで安心しました。これからは、
   自分に正直に生きようと思います」

といったお便りを待っているぞ。あるいは

  「結婚したのに妻がセックスに応じてくれず、自信喪失して夫婦仲も険悪に
   なっていましたが、馬場さんのコラムを読んで気がつき、妻と話し合って
   みて、ようやく彼女のことが理解できました。感謝しています」

なんていうお便りもすごく嬉しい。それから

  「私は某貿易会社の55歳管理職ですが、職場にいる若い女性にいくら声を
   かけても振り向いてもらえず、無理に誘ってもセクハラだと嫌がられるの
   で不思議でしたが、彼女らがノンセクシャルだということにようやく気が
   付いて納得しました」

というようなお便りは不快なので送ってこなくてよろしい。


**


 ところで、不思議なのは、恋愛感情も性的欲求もないノンセクシャルであるに
も関わらず、彼女が「萌え」の良き理解者であることだ。以前にも書いた通り、
彼女の知人には萌えさかっている人が多いし、彼女は何がどう「萌えポイント」
なのかを実に的確に指摘してのける。本人も様々な対象に対して「萌えっ!」と
強く主張する。私より、むしろ彼女の方がずっと都ちゃんに萌え萌えである。
ノンセクシャルでありながら、彼女は萌えを感じる能力を間違いなく持っている
のだ。

  「別に不思議じゃないでしょ。恋愛や性的欲求と“萌え”は関係ないから」

  「え? 仮想対象に向かった恋愛感情や性的欲求こそが萌えの正体だと」

  「そんなはずないでしょ」

 そうなんですか。いや、確かにノンセクシャルである彼女の言うことだから、
正しいのだろう。これは私にとって大いなる発見であった。萌えは、恋愛感情や
性的欲求とは別のもの、それ自体で独立した何か、なのである。

 私は、恋愛感情や性的欲求といった人間の本性が、近年になって異常発達した、
いわゆる“萌えキャラ”に向かうようになったものがすなわち萌えの実体である、
という説明を疑うことなく受け入れてきた。しかし、実はそうではないらしい。

 萌えも、人間が持っている本性の一つなのだろうか。だとすれば、それは古来
から綿々と受け継がれてきた伝統的表現の中にも見いだせるはずである。そして、
実際に私は、数百年前に表現された、現代日本を席巻しているそれと全く同質の
“萌え”としか言いようのないものを見つけたのだが、それはまた別の話。

 それより、私にはもっと個人的で切実な問題がある。

 確かに、私たちは夫婦仲が良い。しかし、本当に彼女は私を愛しているのだろ
うか。恋や性欲を一切含まない純粋な愛。そんなものが真に存在するのか。彼女
はペットを可愛がるように私を可愛がり、キャラに萌えるようにして私に萌えて
いるだけではないのだろうか。

  「なんでそんなことを気にするの? 幸せなんだから問題ないでしょ」

  「いや、こっちにとっては大切な問題なんだよ。そうなんだよ」

  「愛してる、というだけじゃ駄目なの?」

  「ノンセクシャルに言われても、それがいわゆる愛なのかどうか・・・」

  「じゃ、詩で表現するというのはどう?」

 それは、素晴らしいアイデアだ。何しろ彼女は詩人なのである。今こそ、詩の
力が問われるときだ。恋や性欲とは無縁な、純粋な愛とは何か、詩で表現できる
のだろうか。彼女は出来ると言う。じゃ、書いてみて。

  「でも、ばばこも自分の思いを詩にして」

  「詩なんて書けないよ」

  「自分だけの言葉を探して書けばいいのよ」

というわけで、夫婦でそれぞれの思いを詩にすることにした。

 まず私の作品である。とくとご鑑賞あれ。


    したいんだ

      出したいんだ。とにかく出したいんだ。
      というか入れたいんだ。
      いや、入れて出したいんだ。
      じゃなくて、入れたり出したりしたいんだ。
      何だかわけ分かんなくなったけど。
      とにかく、したいんだ。


 我ながら、思いがあふれている。自信作である。ひょっとして私は詩才がある
のかも知れない。彼女にこれを見せて、「どう、詩の才能あるかな」と尋ねたの
だが、彼女は何やら困った顔で「いや、才能とかそういう問題じゃなくて・・・」
と語尾を濁したのだった。


 次に島野律子の作品である。


    ふたりひきこもり

      曾々祖母は淵に沈んだ 引き上げられたお骨を
      収める場所はなく 今 孫の隣に戻されるのは
      望み通りのことでしたか 白い蛇を見たひとの
      孫と暮らす不肖の曾々孫は物語のように聞いた
      身投げした女の名を持つ 幾つもの淵の 色が
      好きだったのです蛇に選ばれたひとのようには
      未来を聞く耳を 持つことのなかった 二人は
      まるで 選ぶ時間が あったかのような 型に
      振る舞って暮らすのです あの日の 淵の色が
      覆っている部屋で とてもとても幸せに暮らす
      のです 淵の下 白い蛇の泳ぐ影に濡れながら


 これは良い詩なんでしょうか。詩心のない私には、よく分かりません。
 でも、何度も口に出して読み上げてみると、何となく二人でいることが嬉しく
て幸せだという気持ちになるような気がします。

 どうやら、私は妻に愛されているようです。

 結局、のろけかい、どこが政治的コラムじゃい、という突っ込みはごもっとも
ですが、そうだよ、のろけるために書いたんだよ。悪いかよ。自分の妻のことを
のろけることも出来ないような夫にはなりたくないね。ふんっ。

 もうセックスレスでもいいじゃないか。愛があるんだから。もういいじゃない
か、配偶者がノンセクシャルでも、そのことをコラムに書いてしまっても、それ
がまたのろけまくりであっても、RPGコラムなのにRPGのことに一言も触れ
てなくても。もういいじゃないか。『かってに改蔵』(久米田康治)の最終回が
アレでも。愛があるんだから。


馬場秀和
since 1962



『付記』 2004年8月29日


 本コラム公開後に親切な読者からご指摘を受けたのですが、「ノンセクシャル」
は性的指向が定まってない、または固定されてないという人を指す用語であって、
私の配偶者のセクシャリティは「アセクシャル」または「Aセクシャル」と呼ぶ
のが正しいそうです。失礼いたしました。

 本文中の用語を全て修正しようかとも思ったのですが、己の失敗を糊塗するよ
うな卑怯な真似は止めて堂々と恥をさらせ、と配偶者に説教されたもので、本文
はそのままにしてこの付記を追加することにしました。まあヘテロの中年男性の
セクシャルマイノリティに対する意識なんてまだまだこんなもの、という駄目な
事例だと思って頂ければ、と思います。


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