馬場秀和のRPGコラム 2005年1月号



『都ちゃんに萌え萌え:あとがき』



2005年1月7日
馬場秀和 (babahide*at*da2.so-net.ne.jp)
    スパム対策のために@を *at* と表記しています。メール送信時には、ここを半角 @ に直して宛先として下さい。



  

都萌シリーズ目次

   『まえがき』    (1)    (2)    (3)    (4)    ★『あとがき』    






 『都ちゃんに萌え萌え』は、2004年にほぼ1年がかりで連載された馬場コラム
最大の作品で、まえがき、本編である4本のコラム、あとがき、合計6つの文章
から構成されています。本コラムは、その「あとがき」に相当するものです。

 『都ちゃんに萌え萌え』の構成は、19世紀後半にマリウス・プティパが完成さ
せたとされる古典バレエの様式、“グラン・パ・ド・ドゥ”を模しています。
すなわち、アントレ(まえがき)、パ・ド・ドゥ(4つのパートから構成される
本編)、アポティオーズ(あとがき)ということになります。ただし、本編たる
4本のコラム、(1)〜(4)は、古典的な物語構成である「起・承・転・結」
にそれぞれ対応させました。

 『都ちゃんに萌え萌え』は、そのテーマもまた、古典バレエにならったものと
なっています。2つの軸が、あるときは対立し、またあるときは調和しながら、
その間の緊張関係により全体の流れを形作る、というわけです。2つの軸とは、
秩序に対する闊達、理性に対する情動、規律に対する奔放、大地に対する天界、
そして吉田都さんに対する萌え、ですね。タイトルもこの格調高いテーマを象徴
していることは言うまでもありません。(それはちょっと嘘かも知れません)

 『都ちゃんに萌え萌え』は、従来の馬場コラムと違って、TRPGファン以外
の読者にも興味深く読んでもらえるように、様々な工夫をほどこしてあります。

 例えば、前半のコラムにはTRPG関連の話題はほとんど登場しません。後半
のコラムの、さらに後半になって、ようやくTRPG論議が書かれますが、この
部分は読みとばしても面白さが損なわれないよう配慮してあります。TRPGに
関して何の知識も興味も持ってない読者であっても、十分に楽しんで頂けるよう、
現時点で私が持っている文章表現技法の全てを駆使しました。
これで全てなんかいっ! という突っ込みはごもっともですが、はいそうです。

 また、作中では作家や漫画家やダンサーの名前、作品タイトルなどの固有名詞
を頻出させています。これは、検索エンジンでたまたまひっかけた読者が読んで
くれることを狙ったものです。さらに言うなら、そういう読者がこれらのコラム
をきっかけに、TRPGに少しでも興味を持ってくれたらいいなあ、という淡い
期待もあります。

 最後に、『都ちゃんに萌え萌え』は、馬場秀和が今まで書いてきたTRPGに
関する論考や理論の入門編たることも意識してます。これまで書いた論考のうち、
重要かつ分かりやすいものを慎重に選んで、関連する他者の論文と合わせて分類
整理し、参考文献としてこまめにリンクを張りました。本編と合わせてこれらの
参考文献に目を通して頂くだけで、全体像を手早く把握することが出来るように
なっていると思います。

 以上が『都ちゃんに萌え萌え』の狙いです。これらの狙いがどれほどの成功を
おさめているかは、読者の判断にお任せしましょう。私には私なりの自己評価が
ありますが、それを正直に書くと、自画自賛にもほどがあるとか、いくら何でも
傲慢すぎるとか、そういう文句が出そうなので、あえて控えておくことにします。



『都ちゃんに萌え萌え(1)』について

 うつ病を発症して、起き上がることすらままならない状態になったのは、本文
にも書いた通り、2003年の秋頃でした。ろくに睡眠も食事も出来ず、むろん外出
なんて論外。私のつたない筆力では、到底描写できないような、無限地獄の底で
のたうち回っていました。なにしろ自我が存在しているという、そのこと自体が
果てしない責め苦と化すかのような、どこにも逃げ場のないあの絶望と苦しみを、
文章で他人に伝えることが可能だとは到底思えません。ていうか可能だとしたら
すげえ迷惑。

 ようやく這うようにしてたどり着いた精神病院で『パキシル』という抗うつ剤
を処方してもらいました。SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)といって、
脳内のセロトニン濃度の低下を防止する薬です。

 ところが、飲んでも何の効果も感じられません。相変わらずひどい抑うつ状態
のままです。私の場合、午前中は少し症状が軽くなるので、その間に『パキシル』
なる薬についてインターネットで調べてみました。

 
    抗うつ剤を服用している4400人以上の患者を対象にした24件の臨床試験
    で、治療を始めてから最初の数ヵ月の間に、自殺願望や自傷行為の危険
    性が高まることが明らかになっている。研究によれば、『セレクサ』、
    『プロザック』、『ゾロフト』は子どもへのリスクが比較的低く、
    『ルボックス』(デプロメール)、『エフェクサー』、『パキシル』
    は、自殺願望や自傷行為が増加するリスクが比較的高いという。 *1

 
    グラクソ・スミスクライン社(『パキシル』製造元)の幹部たちは、
    抗うつ剤の子どもへの影響に関するデータを、公表しないよう、従業員
    に指示していたという。 *2

 
    2001年ウイオミング州の裁判では、グラクソ・スミスクライン社が製造
    するSSRI系抗うつ剤『パキシル』に対する裁判で、アメリカ人男性、
    ドナルド・シェル(60歳)はストレスや憂鬱などの症状を医師に訴えて
    いました。
    医師はパキシルを渡して治療を開始したところ、服用から2日後、ドナ
    ルドは銃で妻、娘、そしてまだ幼い孫娘を射殺し、最後は自らを撃ちぬ
    いて自殺しました。この事件に関して陪審員は、『パキシル』が自殺や
    殺人願望を抱かせる作用を持ち、それがドナルド・シェルの事件につい
    てもそのように作用が働いた事も認めました。 *3

 
 おおおおーいっ、これじゃ『パキシル』は、子供から老人まで自殺衝動や殺人
衝動を引き起こす悪魔の薬で、しかも、製薬会社はそのことを意図的に隠蔽して
いる悪の組織じゃないですか。陰謀だ! *4


 というわけで、慌てて主治医に相談しました。

  「パキシルなんですが、飲んでも効果が感じられないんです」

  「効果が出るまで時間がかかりますから、継続的に飲み続けて下さい」

  「しかし、副作用が気になるんですが・・・」

  「パキシルには、頭痛、眠気、倦怠感、意識混濁、発熱、発汗、痙攣、硬直、
   吐き気、食欲不振、胃痛、肝機能障害、渇き、便秘、下痢、性欲低下、
   発疹、かゆみ、排尿不良、精神錯乱、それに激しい離脱症候群などの作用
   が出ることがありますが、特に有害な副作用はありません。大丈夫です」

  「自殺衝動を引き起こすという話もありますが・・・」

  「子供だけです。40歳過ぎての自殺は、薬の副作用ではなく自然の摂理です」

  「そうは言っても、全て経験則でしょう。セロトニン濃度の維持が、どうして
   うつ病を治癒するのか、基本原理すら分かってないそうじゃありませんか」

  「馬場さん。実はね、脳の活動が精神を作り出すというのは、経験則なんで
   すよ。基本原理すら分かってないんです。でも、ご自身に精神があるよう
   な気がすることで不安にはなりませんね? それと同じです。大丈夫です」

  「あー、でも、米国では、成人に殺人衝動が生じた原因がパキシルだと裁判
   で認められたケースがあると聞いたのですが・・・」

  「処方した医師が刑事責任を問われたことはありません。大丈夫です」


 患者が精神科医と論争しても、勝ち目はありません。あきらめて、おとなしく
パキシルを飲み続けることにしました。

 結果的に、パキシルはめざましい効果を発揮しました。服用開始から1カ月も
たつと、急速に症状が改善してゆきました。同時に、自分の脳の働きが“再構成”
されてゆく感じがひどく生々しく、何と言うのでしょうか、実存的不安のような
ものに襲われるくらい劇的な薬効でした。

 投薬によって根本的に機能が変わってしまうような生化学反応の集積、それが
“自我”の全てであって、他には何もない、という冷厳な事実を“実感”として
突きつけられるのは、実のところ、かなり不快な経験でした。このことは本編に
書きましたが。

 不快と言えば、悪名高いパキシルの離脱症候群。あれはことのほか不快なもの
でした。薬物の投与量を徐々に減らしてゆく、いわゆる減薬処理に入った途端、
激しい目眩と、平衡感覚失調に襲われたのです。24時間、常に船酔い状態です。
地面がゆっくり左右にゆ〜らゆ〜ら傾き、足の着地感がおぼろげになります。
耳鳴りがひどく、四六時中、頭の後ろでハウリングが鳴っているような感じです。
もう嫌になりました。

 実は、これを書いている今も、まだ減薬処理は続いています。1年前に比べて
服用量は1/4になっていますが、まだ投薬カットは危険なんだそうです。結局、
精神障害をかかえたまま年を越すことになってしまいました。

 うつ病の症状がピークに達したときは、恐ろしいほどの無力感と不安と何とも
言い難い嫌な感じに、付け狙われます。仕事のこと、人生のこと、社会のこと、
将来のこと、何もかもが厭世色の空虚に置き換わります。もちろんTRPG論考
活動についても、例外ではありませんでした。

 無理もないと言えましょう。TRPGについて真摯に書き続けて、はや10年。
何ら実質的な成果が出ていません。市場が拡大したわけでもなく、世間の偏見が
緩和されたわけでもなく、責任ある批評媒体や教育機関が出来たわけでもなく、
学術的な理論研究が深まったわけでもなく、社会に対する説明責任が果たされた
わけでもない。結局のところ私の書いた文章は、それ自体を除いて、事実上何も
生み出していないのです。命や人生とまでは言わないものの、私生活にかなりの
犠牲を払って書き続けたこの10年の艱難辛苦は、ほとんど徒労だったわけです。
それを否定することは出来ませんし、否定してはならないと思います。

 「自分はどうせ23世紀までは生きられないだろう。その頃には、TRPGなん
て世の中からとっくに忘れ去られているだろうし、私の文章の読者は、ゲーム史
の研究者か、馬場秀和を卒論のテーマに選んだ学生しか残ってないんだ」という
陰々滅々な気分から長いこと抜け出せませんでした。それはそれとして、コラム
は書き続けましたが。(ときどき思うのですが、私は責任感が強いような気がし
ます)

 うつ病からほぼ回復した今でも、基本的な事実認識は変わっていません。私が
書いてきたことはほとんど徒労だったし、これから先何を書こうとも、何を訴え
ようとも、おそらくはTRPG界に何ら実質的な影響を与えることは出来ないで
しょう。そして、私の目標が達成されることは決してないでしょう。

 しかし「努力は徒労に終わる」「目標達成は不可能である」という事実を認め
ることは、それらを断念することを正当化しません。これは大切なことなので、
繰り返します。努力が報われることはなく、目標が達成される日はやってこない、
というのは、長い目で見れば瑣末なことです。なぜなら、自分にとって本当に、
切実に、大切な目標は、それを追求する努力とその継続、それ自体に価値がある
からです。もしそうでないのなら、核兵器廃絶や、貧困撲滅や、差別意識撤廃や、
環境負荷ゼロ社会の実現を目指して努力するのは、無意味で愚か極まりない行為
となるでしょう。しかし、私はそれらが無意味だとも愚かだとも思いません。

 正しいけれど実現不可能な目標に向かって、徒労だとこの上なくはっきり認識
しながらも努力を止めない人々を嘲り貶めることほど、簡単なことはありません。
冷笑的な態度は、常に優越感という甘美な報酬を与えてくれます。でも、それは
間違っています。いや、それ以前に人として恥ずべき姿です。それだけはうつ病
の底にあってなお信じることのできた価値観でした。私は、正しく生きたと自分
で納得できる人生を送りたい。人として恥じることのない生き方をしたいのです。

 そして、私はやっぱりTRPGが大好きで、そのことがとても大切なのです。
だからこそ私はTRPGについて書いてきたのだし、今もこうして書いているし、
これからだって書き続けるに違いないのです。



『都ちゃんに萌え萌え(2)』について

 疑いもなく、都萌シリーズで最も多くの人に読まれたコラムです。少なくとも、
TRPGとは無関係な読者の人数で、群を抜いていることは間違いありません。
それもこれも全ては人気作家、田中啓文さんをネタにしたおかげ、ではもちろん
なくて、Aセクシャルの話題を取り上げたためです。
 
 発表直後から、仰天したり、呆れたり、なぜか憤ったりする読者(おそらく、
その大半がヘテロセクシャルと思われます)が、あちこちの掲示板やブログなど
にちらほら現れていたのですが、何といっても、ASEXUAL-JAPAN のコラムで取り
上げられてから、大きな反響がありました。 *5

 Aセクシャルとヘテロセクシャルのカップルが幸福なパートナーシップを築く
ことが出来る、という実例が、多くの“やさぐれた”Aセクシャルの方々に希望
を与えたようです。いやあ、嬉しいなあ。でも、団塊世代のオヤジと幸福な家庭
を築くことが出来る人間が存在することを思えば、人間同士のセクシャリティの
相違など比較的些細な障害としか私には思えないのですが・・・。

 そうそう。Aセクシャルの女性からファンレターをもらいましたよ。読者から
嫌がらせ以外のメールをもらうことはあまりないので、思わずにこにこしながら
読みました。そしたら「ところで馬場さん本人はどうやって性欲を処理してるん
ですか?」とか突っ込んできた上に「それでは、ご自愛(文字通り)ください」
でしめるという、それはただのセクハラです。

 ところで、自慰と言えば(言ってませんが)、島野律子さんからコラムの記述
について抗議がありました。彼女が「毎日マスターベーションしてる」と知って
慌てふためくシーンがありましたが、あれは新婚当初の話であって、現在は週に
3回程度なんだそうです。本件については、謹んでお詫び申し上げるとともに、
訂正させて頂きます。私の配偶者は、週に3回くらいしか、マスターベーション
してないとのことです。・・・・・・俺より回数が多い。



『都ちゃんに萌え萌え(3)』について

 いよいよ、というか、満を持して、というか、吉田都さんについて全萌投入の
勢いで書きました。まさに、都ちゃんに萌え萌え。バレエファンから何か反響が
あるかと期待したのですが、今のところ何もありません。寂しいです。お便り、
お待ちしています。



『都ちゃんに萌え萌え(4)』について

 さて。

 (4)では、一部のTRPGファンの間に見られる理論軽視、論説敵視、思考
停止礼賛の姿勢がいかに間違っているかを示したが、ここではその補足として、
こうした無責任な発想がどうして広まっているのかを分析しておくことにする。

 まず、一部の妬み屋については、特に改めて考察する必要もないだろう。彼ら
は、要するに、他人が偉そうな物言いをしたり、注目されたりしていることが、
疎ましく、気に障って、妬ましくて、妬ましくて、妬ましくて、仕方ないだけだ。
自分の気にいらない主張は全て自分に対する非難だと曲解する奇形的な自意識を
持ってるが、きちんとした読解も、建設的な批判も出来ない彼らは、論説という
行為それ自体を貶め、著者の動機を卑しめ、辱め、泥を塗り、引きずり下ろし、
後足で砂をかけることに、幼稚で歪んだ卑小な喜びを見い出してるに過ぎない。
自分では何の努力もしないで、ただ他人をけなすことだけが、彼らに出来る全て
である。彼らは論ずるに値しないし、それを言うなら、そもそも何にも値しない。

 だが、そのような妬み屋に比べれば、はるかに高度に発達した知性と、ずっと
豊かな人間性と、格段に優れたコミュニケーション能力を持っている人々、具体
的に言うとチューリング・テストに合格し得るレベルの人々でさえ、理論や論説
に対して否定的な態度をとることがあるのは、一体どういうわけなのか?

 私の見るところ、その背後には3つの誤謬が存在するようだ。

 ここでは、この3つの誤謬をそれぞれ「パーティ会場のタブーの濫用」「動機
と目標の混同」「自由と責任からの自由」と呼んでおこう。これら3つの誤謬が
互いに支え合うことで、誤った価値観が構築され強化されているのである。


**


 まず、第一の誤謬である「パーティ会場のタブーの濫用」について説明しよう。

 パーティ会場のタブーというのは、“パーティ会場で、政治や宗教の話題を持
ち出すのは御法度”というやつだ。政治や宗教に関する議論は、簡単には決着が
つかないし、つい熱くなって感情的に対立しがちなので、パーティ会場の楽しい
雰囲気を台無しにしてしまう恐れがある。だから、そういう話題は避けましょう
ということだ。

 パーティの目的は議論ではなく、参加者が楽しんだり、親睦を深めたり、献金
を集めたりすることにあるわけだから、このタブーは真っ当なものである。私も
もちろん同意する。ただし、それには重要な前提がある。「パーティ会場とは別
の場で、政治や宗教に関する重要なテーマについて有意義な議論が行われている」
という前提だ。

 この前提を見失って、タブーを拡大適用してゆくのが「パーティ会場のタブー
の濫用」という第一の誤謬だ。この誤謬は、危険である。特に「議論が分かれる
ような政治的テーマについて論じ合うのは、我々の社会(あるいは国家、民族、
階級)の分裂を招き、その結束を弱めることにつながるので、避けるべきである」
などと政治家や権力者が言い出したときには。

 1940年、米国の国会図書館長だったアーチボルド・マクリーシュ氏は、戦争を
批判する書物は「ファシズムを前にして民主主義を弱体化させるという点で最も
悪影響が強いものです」と述べ、今はファシストに対して力を合わせて戦うべき
ときなのだから、戦争に疑いをはさむことで、自由と民主主義に害をなすような
書物を出版すべきではない、と論じた。

 この言葉を、ここ数年間に米国の政治家が述べた言葉、例えば「テロの原因に
ついて論じることそれ自体、テロの正当化につながるので、避けるべきである」
「今は戦争の大義について議論すべきときではない。そのような議論は、米国民
の結束を弱め、結果的にテロリストにつけ込む隙を与えることになる」といった
言葉と比べてみて頂きたい。

 ファシズムがテロリズムに変わっただけで、ほとんど内容に変わりがないこと
が分かる。要するに大衆の恐怖心を利用した言論統制、思想弾圧なのだ。これが
「パーティ会場のタブーの濫用」の誤謬の危険性だ。確かにパーティ会場で戦争
について論じるのは、慎み深い紳士や淑女がすべきことではないかも知れない。
しかし、それを社会全体に適用して戦争批判を封じようとするのは、極めて危険
な誤謬であろう。

 これに比べると、うんとスケールダウンするが、一部のTRPGファンもこの
誤謬に陥っている。“そもそもTRPGとは何か?”であるとか“正しいプレイ
スタイルと誤ったプレイスタイルの違い”であるとか、“特定システムの評価”
であるとか、そういった話題は容易に決着がつかず、互いに自分のやり方や愛好
しているものが非難されていると感じて、感情的な対立を引き起しがちなので、
例えば「コンベンション会場で、そういう話題を持ち出すのは止めましょう」と
いうのであれば、私だって賛成する。ただし、もちろん、前述した前提(会場の
外では、ちゃんとした有意義な議論が行われている)が守られていればの話だが。

 ところが、ここですぐに「パーティ会場のタブーの濫用」が始まってしまう。

 「TRPGについての議論や主張は、喧嘩や対立を煽る効果しかなく、みんな
の楽しみを台無しにしかねないので、あらゆる場面で避けるべき」というわけだ。
ときには、「初心者が敬遠してしまう」といった後付けの理由がつくこともある。
いずれも「パーティ会場のタブーの濫用」であり、自分たちの決定に口を出して
ほしくない政治家が持ち出してくる理屈と同じである。前述したように、これら
は全て、誤謬にもとづく言論統制、思想弾圧であるという、その本質に変わりは
ないのである。

 「TRPGについて議論だの論考だのやっている暇があるなら、もっとプレイ
経験を積むべきだ」とか「実践に勝る論考なし」とか「論考や主張なんて、やる
だけ無駄。話の通じない相手は無視すればいい」などといった、よくTRPG界
で聞かれる言葉について、じっくり考えてみて頂きたい。まさにこれらは「パー
ティ会場のタブーの濫用」という、第一の誤謬に基づいた思考停止の強制に過ぎ
ないことに気づくだろう。ことを荒立てるな、不和の種を蒔くな、黙って働け、
質問するな、深く考えるな、青臭い議論などしない大人になれ、良き常識人たれ、
そして政府の方針に疑問を持つな・・・。同じ誤謬に基づいた、これらのうさん
臭い命令と同じである。思考停止せよ、しない者は集団の圧力で黙らせよ、以上。


**


 第二の誤謬である「動機と目標の混同」について説明しよう。
 
 中国に、新袴子楽隊(New Pants) という若手ポップパンクバンドがある。 *6

 日本でいうと、アジアン・カンフー・ジェネレーションあたりが、不真面目に
パンクしてみましたという感じのグループである。私は好きだ。中国本土で販売
されている彼らのCDを苦労して個人輸入した直後、ちゃんと日本版が出ている
ことに気づいてがっかりした、なんてのも懐かしい思い出だ。でも、今はその話
じゃない。彼らが、あるインタビューで語っていた言葉を紹介したいのだ。


    俺たちは、金のために音楽をやってるんじゃない。

    女にモテるためにやってるんでもない。

    お金持ちの女にモテるためにやってるんだ!!


 もちろんこれはジョークだ。(他のバンドに対する皮肉でもある)

 野暮を承知で、なぜこれがおかしいのかを考えてみよう。まず「俺たちはXの
ために音楽をやってるんじゃない。Yのためにやってるんだ」という形式の定型
文があって、Xには身も蓋もない“動機”(金のため、異性にモテるため、有名
になるため)が入り、Yにはかっこいい“目標”(偉大な音楽を創る、人を感動
させる、伝説的なミュージシャンになる、誰にも真似できない凄い演奏をやって
のける、とにかくロックな生き様を貫く)が入る、という決まり事の存在が前提
である。ここで、XとYの両方に“動機”を放り込むことで、聞き手の予想を裏
切って笑いを誘う、というのがこのジョークのキモである。

 このように、ある文化的活動における“動機”と“目標”は別であり、両者を
意図的に混同することでジョークが成立するくらい異なるものなのである。

 動機と目標が異なるのは、もちろん音楽だけではない。

 何かスポーツをやっている人に、その“動機”を尋ねたとすると(なぜそれを
やっているのですか)、おそらく「楽しいから」「運動すると気持ちいいから」
「チームメイトと一緒に練習したりプレイするのが好きだから」「身体を鍛える
ため」「健康に良いから」「ジャージ姿が可愛い美人マネージャに惚れたから」
といった答えが返ってくることだろう。

 同じ人に、その“目標”を尋ねたとすると(何を目指してそれをやっているの
ですか)、おそらく「勝つこと」「優勝すること」「記録を出すこと」「誰より
も上手くなること」「誰それを追い抜くこと」「頂点(奥義)を究めること」と
いった答えが返ってくるに違いない。

 演劇をやっている人に“動機”を尋ねたとすると、たぶん「他人を演じること
が楽しいから」「舞台に上がるのが好きだから」「劇団仲間と一緒に劇をやるの
が嬉しいから」「お下げ髪の可愛い美人女優に惚れたから」といった回答がある
はずだ。

 同じ人に、その“目標”を尋ねたとすると、たぶん「観客を強く感動させる」
「優れた演技をものにする」「大きな舞台を成功させる」「(特定キャラクター)
を究める」「(特定演目)の神髄をつかむ」といった回答があるのだろう。

 小説を書いている人に“動機”を尋ねたとすると、「書くことが楽しいから」
「自分の感じたこと考えたことを文章で表現できると嬉しいから」「皆で同人誌
を創るのが好きだから」「眼鏡が可愛い文芸部の美人副部長に惚れたから」など
の言葉を語ってくれるに違いない。

 同じ人に、その“目標”を尋ねたとすると、「良い作品を書く」「偉大な文学
を創り出す」「読者を感動させる」「文学界に新たな潮流を起こす」「文学賞を
受賞する」といった言葉が聞けるはずだ。

 もうこのくらいでいいだろう。“動機”と“目標”が別であることは納得して
頂けたことと思う。ここで、動機と目標の違いについて、一般化してみよう。


   ・文化的価値を持つ活動に取り組んでいる人々には、動機”と“目標”が
    あり、両者は異なったものである。

   ・動機の多くは、快楽、帰属感、利益である。「その活動が楽しいから」
    「仲間と一緒に活動するのが好きだから」「利益(金銭、異性、名声)
    が得られるから」というのが最も典型的な動機となる。

   ・目標の多くは、技量向上、価値実現、(自己および社会からの)評価の
    獲得である。つまり、その活動が生み出す(そしてその活動にしか創り
    出せない)価値を高めた、という達成感、およびその価値を社会に認知
    させ、高い評価を受けることが目標となる。
    「上達する」「優れた作品を創り出す」「作品の受け手を感動させる」
    「優勝、受賞、認定、記録、などにより、社会的に高い評価を受ける」
    というのが、最も典型的な目標となる。


 第二の誤謬である「動機と目標の混同」は、文字通り動機と目標を混同してし
まい、“動機を満たすこと”が目標だと錯覚することだ。前述した「お金持ちの
女にモテるために音楽をやってる」というのは、つまりこの誤謬をあからさまに
することで笑いをとるジョークなのだ。

 しかし、この誤謬は常にあからさまに表れるわけではないし、笑えるとも限ら
ない。

 「楽しければそれでいいんだ」と放言してつらい練習をさぼるスポーツマン、
「皆で仲良くやるために集まってるんだから」といって仲間内の馴れ合いに甘ん
じる同人誌作家や素人劇団の団員、「安直な二番煎じでも売れればそれでいい」
と開き直って作品の手を抜く小説家や漫画家。彼らは、意識的にか無意識的にか
はともかく、動機と目標を混同して、動機を満たすことを目標にしてしまったの
である。これが「動機と目標の混同」という第二の誤謬が引き起こす問題だ。

 もしも、ある文化的活動を行っているメンバーの大半がこの誤謬に陥ったなら、
その文化的活動は衰退してゆくことだろう。誰もその活動が生み出す文化的価値
を高めようとしなくなり、またその価値を社会に対して認めさせようともしなく
なるからだ。このように、スポーツや芸術や文学等を含むあらゆる文化的活動に
とって、この誤謬はまことにやっかいなものである。これらの分野における教師
やコーチの存在意義の一つは、初心者がこの誤謬に陥らないように指導すること
である。

 ところが、初心者であった頃に良い教師やコーチにめぐり合えなかったためか、
一部のTRPGファンはまさにこの誤謬に陥っており、しかもそれが誤謬である
ことを誰からも教えてもらえないのである。

 「TRPGの目標は、参加者全員が楽しむことである」などといった、空虚な
スローガンがいまだに幅を利かせているのを見れば、この誤謬の深刻さが分かる。
この手のスローガンは20年、いや30年前からずっと唱えられ続けているが、今日
に至るまで何ら問題を解決できなかった。なぜなら誤謬に基づいているからだ。

 楽しむこと、皆で仲良く遊ぶこと、それらはTRPGをプレイする“動機”で
ある。それは大切なことではあるが、しかしTRPGの“目標”ではない。

 TRPGは文化的価値を持つ活動であり、他の文化的価値を持つ活動と同じく
“目標”を持っている。前述した通り、それは、技量向上、価値実現、評価獲得
である。すなわち、TRPGに上達する、TRPGが生み出す(そしてTRPG
にしか創り出せない)高い価値の実現、そしてその価値を社会に認知させ、高い
評価を得る。これらがTRPGにおける“目標”となる。この点で、TRPGも
他の文化的活動と何ら変わりはないのだ。

 ところが、上で述べた目標を追求しようとすると、「TRPGに上達するとは
どういうことか」「良いゲームとは何か」「優れたセッションとは何か」「そも
そもTRPGにしか創り出せない価値とは何か」「社会に対してTRPGの価値
を訴えるため、我々はどのような言葉を持てばよいのか」といった、重要な議論
を避けて通ることが出来ない。(むろん、これは他の多くの文化的活動について
も同様である。他の分野では、長い歴史を通じて、この手の議論をずっと続けて
きたのだ。TRPGは、歴史が浅いこともあって、必要な議論をさぼっているの
である)

 このような議論は、愉快なものとは限らないし、対立を招くことも多いため、
“楽しむ”や“仲良く”といった動機にとっては必ずしも望ましいものではない。
ましてや、議論の結果として出てくるであろう「我々は××に向けて努力すべき
である」といった結論は、決して望ましいものにはならないだろう。

 こうして、「目標と動機の混同」という第二の誤謬に陥り、動機を満たすこと
を目標だと勘違いした一部のTRPGファンは、議論や努力を封じようとする。
そんな議論や努力は、TRPGの目標には関係ないし、むしろ議論や努力のせい
で我々は目標から遠ざかってしまう(楽しめなくなる、仲良くできなくなる)。
だから、そういう不快で迷惑なことは止めよう、というわけだ。驚くべきことに、
この手の歪んだ主張に共感するTRPGファンは決して少なくないのである。

 そう。これは他の文化的活動ではまず見られない、非常に歪んだ主張だという
ことを、まずはよく認識しなければならない。

 他の文化的活動においては、次のような主張は幼稚なものと見なされるだろう。

 「スポーツは楽しむためにあるんだから、苦しい基礎練習なんて止めよう」

 「皆で仲良くするための同人誌なんだから、作品の批評は止めましょう」

 「演劇理論なんて学んだら、演技を純粋に楽しめなくなるじゃないですか」

 ところがTRPG界においては、練習/努力/批評/理論などの重要性を主張
するだけで、逆に非難されるのである。

 「TRPGをプレイするのは、参加者が楽しむためではない」といった、
他の文化的活動なら当然だと見なされること(シェークスピアを上演するのは、
劇団員が楽しむためではないし、ベートーベンを演奏するのは、楽団員が楽しむ
ためではないし、甲子園に出場するのは、野球部員が楽しむためではない。そん
なの当たり前じゃないか!)を主張しただけでも、轟々たる非難を浴びるのだ。

 他の文化的活動においては、次のように主張する人は相手にもされないだろう。

 「試合に勝つより、サポーターを喜ばせる方が大切」

 「モーツァルトの音楽より、楽団員のメンバーが仲良くするほうが重要」

 「優れた小説を載せると、うまく書けない同人仲間が傷つくから止めよう」

 ところが、TRPG界においては、自分たちが仲良くやることよりもTRPG
の価値を追求することの方が優先だと主張するだけで、苦情が出るのである。

 「TRPGファンより、TRPGの方が大切」といった、他の文化的活動
なら当たり前と見なされること(良い音楽のためなら、見込みのない演奏者には
去ってもらうしかない。良い劇のためなら、どんなに本人が傷つこうが、劇団員
の間に不和が起こって皆が苦しむことになろうが、駄目な役者には主役を降りて
もらうしかない。試合に勝利する方が、メンバ全員が出場できることよりも大切。
メンバーよりも音楽/演劇/試合の方が大切なんだから当然でしょう!)を明言
しただけで、たちまち四方八方から叩かれるのだ。

 一体全体、これはどういうわけだろう? なぜ、TRPG界は他の文化的活動
と比べてこんなにも異常なのだろうか?

 答えはお分かりだろう。「目標と動機の混同」という第二の誤謬に陥っており、
それを正してくれる者がいないせいだ。繰り返すが、動機を満たすことは目標
ではない。TRPGの目標は、参加者が楽しむことではない。TRPGよりも
TRPGファンの方が大切なはずはない。こんなことは当然であって、わざわざ
主張しなければならないというTRPG界の現状こそ、他の文化的活動に比べて
あまりにも歪んでいるのである。


**


 第三の誤謬である「自由と責任からの自由」について説明しよう。

 何だか変な言葉だが、これはジョン・マニフォールドが書いた諧謔詩の一節に
登場する表現である。私はこの一節が気に入っているので、拝借させてもらった。


    幸いなるかな庶民! 四つの自由は汝のものなればなり・・・。
    思考からの自由。理性の奴隷にならぬよう。
    変化からの自由。家から会社、ゆりかごから墓場まで、従順な道を
    踏み外さぬように。
    情報からの自由。議員たちが何をしようと心を動かされぬように。
    仕事やら祖国やら家族やら・・・もっと楽に生きられるように。
    自由と責任からの自由を!


 自由は素晴らしい。誰もが自由を望んでいるはずである。そうだろう?

 ところが、実はそうでもない。自由には、責任がつきものである。その責任を
負うのが嫌さに、自らの自由を否定し放棄する人は多い。とても、多い。

 あなたには自由があり、何をなすべきかを自分で選ぶことが出来る。あなたに
は、問題を解決するための能力と機会と情報と資源がある。あなたは問題の解決
に向けて取り組むことを選択できる。そう言われたら嬉しいだろうか? 嬉しく
ないかも知れない。なぜなら、問題について、特にその解決に取り組んでいない
ことについて、責任を負わなければならないからだ。

 むしろ、あなたはこう言われた方が嬉しいかも知れない。あなたは不自由だ。
あなたに出来ることは極めて限られており、状況に影響を与えることは不可能で、
必要な資源や情報は誰も与えてくれない。もし何か問題があり、それが放置され
ているとしても、それはあなたのせいではない。あなたは全くの被害者である。
「問題の解決に取り組まないのは、あなたの責任だ」などと、あなたを非難する
人がいたとしても、それは全く不当な言いがかりであり、真に非難されるべきは
その人の方である・・・。

 自由(フリー)を放棄すれば、責任から解放(フリー)される。あなたは様々
な問題に対し責任を負う必要がなくなるばかりか、問題を指摘する人を非難し、
そのことで優越感を感じることさえ正当化されるのである。何と素晴らしいこと
だろう。ビバッ、自由と責任からの自由!

 これは、危険を通り越して、非常に恐ろしい誤謬である。社会の構成員の大半
がこの誤謬に陥ったとき、その社会がどうなるか容易に想像できるだろう。誰も
が深刻な社会問題の存在を感じていながら「自分には何もできない」「自分には
関係ない」「自分には、問題の解決に向けて取り組むための能力、機会、資源、
情報が欠けている」と信じることで自己免罪を決め込み、自らが持つ自由と権利
を喜んで放棄し、思考停止に安楽を覚え、問題の解決を訴える人々を喜々として
非難し、優越感と共に彼らの弾圧に協力する・・・。『自由からの逃走』である。

 この話は根深いし、現代日本社会の風潮について色々と論じることも出来るで
あろうが、ここでは(比較的気楽な)TRPG界の話題に専念することにしよう。


 聞きたまえ。日本のTRPG界は深刻な問題を抱えている。市場はちっぽけで
不安定で、魅力がないため、新規参入する企業はほとんどなく、将来的な展望も
ない。製品をきちんと評価・批評することで消費者の見識を高めようという責任
を担う媒体はなく、消費者主導で健全な市場競争を維持させる消費者運動もない。
そもそも、製品やデザイナーを批判することが許されないような雰囲気すらある。
世間には、TRPGに関して正しい認識が広まっておらず、偏見や誤解も多いと
いうのに、それを是正するために本格的な啓蒙活動を起こす者はいない。入門者
は、TRPGの文化的価値や魅力からして当然と思われる人数に比べると非常に
わずかで、増えてゆく様子は見られない。プレイ中のトラブルは日常茶飯事で、
それを解決するために必要な、何が正しく何が間違っているかという合意もなく、
ましてや正しいやり方を教えてくれる教師や学校や訓練所はない。何より、製品
評価、社会運動、啓蒙、合意、教育といった重要な活動を行うために必要不可欠
な「TRPGの基礎理論」すら確立しておらず、それを目指す理論家は嘲笑され、
こきけなされ、封殺される。どれも大問題だ。

 聞きたまえ。実は、あなたは、その気になりさえすれば、これらの問題の解決
に向けて取り組むことが出来るのだ。まず、混乱の元になっている誤謬を、誤謬
だと自覚して捨て去ることから始めよう。そして、真摯な考察と議論を通じて、
「TRPGの基礎理論」を確立し、広めよう。基礎理論さえあれば、判断基準を
しっかり打ち立てることが出来る。つまり、どんなプレイが正しくどんなプレイ
は間違っているかについて、ごく大雑把でもよいから、大半のプレーヤーが合意
できるようになるのだ。そうすれば、正しいプレイスタイルを身につけるために
有効な練習方法を編み出せるし、あなた自身が教師やコーチとして初心者の練習
を引き受け、人材を育てることだって可能だ。そのために、教育施設を創るのも
いいだろう。その上、判断基準がしっかりしていれば、それに基づいて、客観的
で公正な製品批評を載せる雑誌なり同人誌を発行することも出来るはずだ。オン
ラインでもオフライン(紙媒体)でもいい。ゲーム会社やゲームデザイナーに、
建設的なレスポンス(批評、要求、提案)を返すことも可能になる。デザイナー
と判断基準を共有しているのだから。それから、消費者が高い見識さえ持てば、
優れた製品が売れ、そうでない製品は売れないという、当たり前のことがちゃん
と実現されている健全な市場を育てることが出来る。市場が健全で将来展望さえ
あれば、たとえ今は小さくとも新規参入する企業が出てくるだろうし、TRPG
のゲームデザイナーを目指し、その夢をかなえる若者だって増えることだろう。
そして何より、基礎理論さえあれば、TRPGに関する正しい理解に基づいて、
社会に対する説明責任を果たすことが出来るのだ。そうすればTRPGの価値や
魅力に納得した人々が、入門してくることだろう。何だ、簡単じゃないか。

 これらはゲーム会社やゲームデザイナーだけでは不可能なことだし、TRPG
を愛する我々が自ら立ち上がって始めない限り、いつまで待っても、誰も代わり
にやってくれはしないし、いつか自然にそうなるわけでもないのだ。

 聞きたまえ。これらのことは全て可能である。にも関わらず、そうなってない
し、そうなる見込みもないのは、全てのTRPGファンの責任である。もちろん
あなたの責任でもある。あなたは、問題の解決に取り組まないという選択をする
ことで、TRPGに害を与えているのだ!


 さあ、ここまで読んできて、あなたは「なるほど。確かに、もっともな話だ。
よし、今日から問題解決に向けて立ち上がろう。自分に出来ることから始めよう」
と思っただろうか? たぶん、そうは思わなかったはずである。反論や非難を山
ほど思いついたに違いない。(私は、そう確信できるだけの経験を積んできた)

 それらの反論や非難について、落ち着いて、できる限り客観的に内省してみて
ほしい。それは「自由と責任からの自由」という第三の誤謬に基づいてはいない
だろうか? 以下に、この誤謬に基づいた反応の典型的なものをいくつか示す。


  ・問題の否認

   「そんな問題は存在しない。嘘である」「それは何ら問題ではない」
   「自分はちっとも困ってない。問題だと騒いでいるのは君だけだ」

  ・自由の否認

   「そんなこと出来るはずがない」「そんな暇(能力、資金、気力)はない」
   「非現実的だ」「不可能だ」「馬鹿げている」

  ・責任の否認

   「私の知ったことか」「何で私がそんな苦労をする必要がある」
   「どうでもいい」「なぜ解決に向けて取り組まなければいけないのか
    さっぱり分からない」「他の人も何もしてないではないか」

  ・問題提起の正当性の否認

   「偉そうな言い方が気に入らない」「自分だって何もしてないくせに何様
    のつもりなんだ」「自分で勝手にやればいいだろう」「要するに他人を
    非難したいだけなんだろう」


 これらは「あなたには自由があるのだから、問題の解決に向けて取り組まない
のはあなたの選択であり、ゆえにあなたの責任である」と指摘されたとき、人間
が示す典型的な誤った反応だ。なぜそういう誤反応が生ずるかというと、つまり
以下のA〜Dの認識と、Eの本音が、いわゆる認知不協和を引き起こすためだ。


    A.問題が存在するが、自分はそれを放置している

    B.自分には自由があり、何をなすかを自分で決定することが出来る

    C.ゆえに、問題の解決に向けて取り組まないのは、確かに自分が選択
      したことである

    D.ゆえに、それを糾弾する人の言っていることは正しい

    E.自分は苦労したくない。または、問題のせいで自分が受けるダメー
      ジ(害)に比べ、その解決に向けて取り組むためのコスト(労力)
      の方が大きいので、放置することは自分にとって有利である。


 認知不協和は心理的に非常に不快な状態なので、人は簡単に「自由と責任から
の自由」という誤謬に逃げ込んでしまう。すなわちA〜Dのいずれかを否定する
ことで、E.との不協和を解消する。A.問題、B.自由、C.責任、D.問題
提起の正当性、いずれかを否定すれば、E.すなわち自分は今後ともその問題に
関わりたくない、という事実を自分の中で正当化でき、自己免罪が果たされて、
認知不協和はうまく解消されるのだ。

 言っておくが、もちろん、客観的に見て本当にA〜Dが間違っている可能性は
ある。しかし、真剣な内省なしに、反射的・感情的な反発からA〜Dのいずれか
を否定した場合、その判断は、おそらく「自由と責任からの自由」の誤謬に基づ
いている。その判断自体は、後から熟慮してみても客観的に正当だということは
当然あり得るが、最初にその判断を下したとき、誤謬に基づいて行ったものだと
いう事実には変わりがない。

 そこを勘違いしてはいけない。あなたの判断が、結果的に正しいか否かという
ことと、あなたの判断が誤謬に基づいて下されたか否かということは、独立命題
である。私が言いたいのは、誤謬に基づいた判断をそのままにしてはいけない、
必ず(誤謬を元にしてないか)厳しく検証しなければならない、ということだ。

 「自由と責任からの自由」は、言ってみれば人間の本性のようなものなので、
この誤謬に陥ること自体は仕方がない。しかし、その誤謬に基づいた判断に固執
してはいけない。最初の判断を保留し、まずは自らの誤謬の可能性を真剣に内省
しなければならない。そのような吟味の手間を省いて、最初の、誤謬に基づいて
下された可能性が高い判断に固執し続けるというのであれば、それは無責任で、
許されない態度である。


**


 以上が、一部のTRPGファンが陥っている3つの誤謬である。

 これらの誤謬の面倒なところは、それぞれの誤謬がお互いを支えあい、互いを
裏付けるようになるという、そこにある。一本の矢は折れるが、三本の矢を束ね
れば、簡単には折れなくなるのだ。

 一例として、私に対して寄せられる非難の典型的なものを見てみよう。


  ・馬場秀和の問題意識など、他人(俺)の知ったことではない。
   (第三の誤謬)

  ・それなのに、馬場秀和は自分勝手な主張を繰り返すことで、TRPGを
   純粋に楽しみたい人々を不快にさせ、その楽しみを台無しにしている。
   実にけしからん。
   (第二の誤謬)

  ・また、それに同調する連中がいるので、あちこちで論争が起きて皆が迷惑
   に思っている。許しがたい話である。
   (第一の誤謬)

  ・こういう無意味ないさかいこそが、TRPG界の問題(例えば初心者が
   敬遠する)を引き起こしているのだ。トラブルの原因は馬場秀和である。
   (第三の誤謬の強化)


 ここでは、全ての判断がいちいち誤謬に基づいているにも関わらず、それらの
誤謬が互いに裏付けを提供し合い、強化し合っている様子が良く分かると思う。
一つ一つの誤謬は浅はかで、指摘されれば簡単に自覚し反省し撤回できるレベル
のものかも知れないが、このように絡み合って相互に強化された複数の誤謬は、
いわば誤った価値観を構築してしまう。こうなると、その誤りに自分で気づくの
は非常に困難となる。仮に一つの誤謬を疑ったとしても、残りの誤謬が「いや、
そうではない。自分の判断は正当だ」と考える根拠を提供するからである。

 さらにやっかいなことに、これらの誤謬に基づいた価値観は、当人に心地よさ
を提供する。誰だって、問題など存在しないか、存在したとしても自分の知った
ことではない、と考える方が気楽である。さらに、問題の原因や責任を、問題を
提起した者に押しつけてしまえば、自分には責任がなくなる上に、その者を非難
することで手軽に優越感を味わうことも出来る。意見が合わない人々とは、真剣
に議論するのではなく、単に無視して、話の通じる気心知れた仲間だけで仲良く
楽しんでいればそれでいい。自分は何も困らない。

 こうした理由から、誤謬に陥っているTRPGファンの多くが、決して自らの
誤謬を自覚しないだろうし、それに基づいた誤った価値観を捨てないことだろう。
そして、日本のTRPG界が抱えている問題は、一人一人のTRPGファンが、
自ら立ち上がって、解決に向けて取り組まない限りどうしようもないものである
以上、私は悲観的にならざるを得ない。すなわち、私の問題提起は自らに対する
轟々たる非難を招くだけだし、解決に向けた私の努力は徒労に終わるだけだし、
問題が解決する日よりも、問題自体が消滅する日の方が先にやってくるだろう。
私は知っている。私には分かっている。

 しかし、それらを全て承知の上でなお、私は求め訴えたい。全身全霊を込め、
他でもない、あなたに訴えたい。集団としてのTRPGファンではなく、これを
今読んでいる、まさにあなたに。耳を貸す読者がたった一人しかいなくても良い。
あなたに聞いてほしいのだ。

 TRPGに関するあなたの考えが、実は誤謬に基づいている可能性はないか、
内省してほしい。次の質問について再考してほしい。

 本当に、TRPG界の問題などあなたの知ったことじゃないのだろうか?
 本当に、TRPGの目標は単に楽しむことなのだろうか?
 本当に、友達や仲間に合わせる方がTRPGよりも大切なのだろうか?
 本当に、社会に向かってTRPGの価値を説明する必要はないのだろうか?

 「仮に馬場秀和の訴えに応えたとしても、立ち上がったとしても、何かを始め
たとしても、その先に待っているのは徒労感と悲観だけだ、と自分で書いている
ではないか。他人を同じ目にあわせようとする理由がどこにあるというのか?」
あなたは、そう尋ねるかも知れない。

 昔なら、私はきっと「TRPGの価値、目標、責任について深く考えることで、
TRPGを本当に楽しめるようになるのですよ」とか何とか答えたに違いない。

 しかし、もうそういうことは書かない。それも誤謬であり、嘘であるからだ。
TRPGの価値、目標、責任、についていくら真剣に考えても、楽しくもないし、
愉快でもない。興奮あるいは高揚することはあるが、それが他人の行動を引き出
すには至らない。自己満足に過ぎないと言われれば、それを否定するのは困難だ。

 でも、やっぱり私は、ここで原点に戻ってきてしまう。私はTRPGが大好き
で、そのことが本当に大切なのだ。だから、TRPGに関して、誤謬に基づいた
考え方をしたくない。誤謬を誤謬だと気づきながら、思考停止した方が楽だから、
他人から非難されたくないから、黙ってそれを受け入れるというようなことは、
したくない。責任を転嫁するため、あるいは優越感を得るために、真摯だが徒労
に終わるであろう努力を続ける人を嘲笑するようなことはしたくない。そして、
TRPGを愛好する人には、誰にもそういうことをしてほしくないのだ。

 なぜなら、それは間違っており、人として恥ずべき姿だからだ。

 他に何か理由が必要だろうか?



馬場秀和
since 1962



[出典、注釈、および参考文献]

 
  *1 :自殺願望や自傷行為が増加するリスクが比較的高い

      Hot Wired Japan 2004年10月15日
       http://hotwired.goo.ne.jp/news/technology/story/20041018305.html


 
  *2 :データを公表しないよう、従業員に指示していた

      Hot Wired Japan 2004年4月22日
       http://hotwired.goo.ne.jp/news/news/20040427303.html


 
  *3 :ドナルド・シェルの事件

      本件は都市伝説の匂いがぷんぷんしているので、くれぐれも鵜呑みにしないように。

      『プロザックの秘密』 第5話 【最後の審判】
       http://adbusters.cool.ne.jp/prozac6.htm


 
  *4 :陰謀だ!

      言うまでもなく、これは、うつ病の患者がインターネット上の記事を読んで、
      パニックに陥ったという面白おかしいエピソードに過ぎず、『パキシル』とその
      製薬会社に対する非難の意図はない。また、『パキシル』を服用している人々に
      対して不安を与えるつもりもない。SSRI系の抗うつ剤は、副作用が比較的少ない
      ことから広く臨床で使われており、実際、私も『パキシル』のおかげで問題なく
      回復しつつある。むろん『パキシル』の副作用についてはきちんと調査され情報
      公開されており、医師はそれらを総合的に判断した上で処方する。リスクはある
      が、それは他の医薬品も同じであり、社会的に容認できるものである。

      参考:医薬品・医療用具等安全性情報 2003年9月 厚生労働省医薬食品局
       http://www.mhlw.go.jp/houdou/2003/09/h0925-1.html


 
  *5 :"ASEXUAL-JAPAN"のコラム

      アセクシャルの人またはアセクシュアルについて知りたい人のための
      情報交換&コミュニケーションサイト【ASEXUAL-JAPAN】
      Aセクシャル的コラム『こういう関係も築けるのだ!』

      (サイト消滅により、リンクを削除しました。2008年2月付記)

 
  *6 :新袴子楽隊(New Pants)

      北京の若手ポップパンクバンド。真剣かつ不真面目にパンクしている。
       http://www.yaogun.com/artist/modernsky/newpants.htm



馬場秀和が管理するRPG専門ウェブページ『馬場秀和ライブラリ』


 この記事はScoops RPGを支える有志の手によって書かれたもので、あらゆる著作権は著者に属します。転載などの連絡は著者宛てにしてください。

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