2000年4月16日〜4月30日

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4月30日(日)

 近所の古本屋(店名は失念)でくらもちふさこ天然コケッコー』1〜4巻を購入。阿部和重アブストラクトなゆーわく』にくらもちふさこの話題があって、久々に読みたくなったのだ。いやあ、やっぱりこの人、無茶苦茶うまいわ。『海の天辺』も読みたくなってしまった。
 ところで、まったくの余談だが、『海の天辺』の主人公が住んでいるところって、うちの近くなんだよな。

パワーストーン2』って、一人プレイ専用のアドベンチャーモードなんてあったんだ。気づかなかった。て、マニュアル読めよ>自分。

 殊能将之美濃牛』はようやく半分くらい。淡々とした文体が良い。

4月29日(土)

 フランク・ダラボン監督・スティーヴン・キング原作『グリーンマイル』を見る。
 原作は未読だったのだが、大失敗。これは絶対に先に原作を読んでおくべき作品。未読の方は要注意。楽しみがひとつ減ります。
 映画自体は、可もなく不可もなくといった感じ。恐らく原作にほぼ忠実な映画化だと思われる。それなりにおもしろい。小道具や細かなエピソードは非常に巧妙に配置されており、ほとんどが本筋において回収される仕組みになっている。従って、展開は良くも悪くも先が見える。3時間はちょっと長く感じた。残念ながら「感動」にまでは至らず。

 カプコンパワーストーン2』(DC)、セガサンバDEアミーゴ』(DC)とマラカス・コントローラ1個を購入。任天堂ゼルダの伝説 ムジュラの仮面』は意外にもどこででも売っており、逆に今買わなくてもいいか、という気分になって見送り。
パワーストーン2』は操作系・ゲーム性が大きく変わっている。4人での乱戦が可能で、通信対戦にも対応。とりあえず、前作での使用キャラワンタンでラスボスを倒す。もはや完全に対戦格闘ゲーム色は払拭されている。ステージに配置されている様々なオブジェクトを使って攻撃できるのは前作と同じ。今回は砲台なんてのもある。1人で遊んでも、あまりおもしろくない気がする。とりあえず多人数で遊んでみたい。
サンバDEアミーゴ』は、部屋が汚すぎてマラカス・コントローラのベースユニットを配置する場所がないので、とりあえずコントローラで遊ぶ。思ったよりおもしろい。しかも、マラカスでやるよりかなり楽にクリアできる。が、ABXYボタンでの2ボタン同時押しがやりにくいのが難点。一番人気があると思われるリッキー・マーティンの「LIVIN' LA VIDA LOCA」(と「THE CUP OF LIFE」)が収録されていないのは残念だが、きっとべらぼうな使用料をふっかけられたのだろう(憶測)。ともかく、早く部屋を片づけてマラカス・コントローラで遊んでみなくては。

 BOOKOFF板垣恵介グラップラー刃牙』21〜24巻、高橋ツトム地雷震』1〜3巻を購入。『グラップラー刃牙』は、正直なところ、絵的にも内容的にもまったく趣味にあわないのだが、こちらこちらを見てどうしても読みたくなったのだ。中途半端なところから買い始めているのも、そのため。『地雷震』は前から読んでみたいと思っていたのだが、1巻を立ち読みしたところ、オヤジ(中年男性の意)の顔がかわぐちかいじの描き損じみたいで、何となく今まで買いそびれていた。
グラップラー刃牙』は25巻が、『地雷震』は4巻がなかったので、まとめて読めるところまで購入した次第。どちらも近日中に続きを購入予定。
 しかし、『地雷震』は期待していたより作風がヌルくてちょっと残念。後半になるとまた違うのだろうか?

4月28日(金)

 今週発売されたゲームで購入予定のものは次の通り。
 カプコンパワーストーン2』(DC)、セガサンバDEアミーゴ』(DC)、任天堂ゼルダの伝説 ムジュラの仮面』の3本。このうち確実に購入するのは『パワーストーン2』。『サンバDEアミーゴ』はマラカス・コントローラが売っていれば購入するつもり。『ゼルダの伝説 ムジュラの仮面』は例によって売り切れらしいので、しばらく待ち(ネット情報。店頭未確認)。しかし、『ゼルダの伝説 時のオカリナ』も結局クリアしていないからなぁ。

 殊能将之美濃牛』はようやく人が1人死んだところ。まだまだ序盤。

4月27日(木)

 睡魔に負けました。

4月26日(水)

 高田馬場にもいつのまにかできていた「五右衛門」で夕食。気楽に食べられる店が好きなので、パスタを箸で食べる、というスタイルには非常に好感を持っております。結構、うまいしね。

 久々に「どんどん橋」関連の話題に進展が。奈落の井戸の掲示板のほうに、もぐらもちさんの現時点での見解が記されている。
 とはいえ、今でも頻繁にこの話題に触れているのは、市川憂人さんくらい。他の方々にはもはや話題にする気はないのでしょうか。

 しかし、もぐらもちさんの今回の態度変更にも弱点はあって、これは、4月20日の日記でそらいけいが引用文の一部を一度は「中略」とした理由とも重なるのだが、要は、否定のための否定と受け取られかねない、ということ、つまりは、作品そのものを評価しないという態度をその作品を否定するための戦術だと判断される可能性がある、ということなのだ。
 そういう意味でも、当初から「『どんどん橋、落ちた』を推理小説としても全く評価していない」と書いていた市川憂人さんの態度は首尾一貫していて隙がない。

4月25日(火)

 金井美恵子彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄』読了。おもしろかった、という以外の詳細な感想はまた後日に書くとして、この小説を読んで得た豆知識を披露。「働かざる者は、食うべからず」という諺というか慣用句の「働かざる者」というのは、いわゆる怠け者のことではなく「投資の金利で利益を貪る資本家や銀行」のことなのだそうだ。知らなかった。
 といっても、自分で調べて確認したわけではありませんが。

 ところで、「もし世界中に男性が三島由紀夫皇太子しかいないとしたら、あなたはどちらと結婚しますか?」。やはり、『彼女(たち)について〜』に書いてあったネタなのだが、昭和33年のミッチー・ブームの時、「女性自身」に掲載されたアンケート(当然、「皇太子」というのは現天皇のことですね。そらけいは生まれていなかったので詳しいことは知りませんが)。ものすごい二者択一である。
 ……いや、実話かどうかは知りませんけど。
 さて、あなたはどっち?
 ちなみにアンケート結果は80%以上の女性が「一生独身を通す」と答えたそうです。

 次は、中断していた殊能将之美濃牛』を再開予定。

4月24日(月)

 いつもはこうして確実に座って通勤しているのだが、今朝は運悪く座れず、久々に電車に立って乗ったら途中で貧血に。どうしても耐えきれず混んでいる車内でしゃがみこんでしまう。
 すげえ、迷惑な奴である。
 というわけで、明朝からは、もう一本早い電車に乗って万全を期すつもり。

 金井美恵子彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄』。まだ半分くらい。どうでもいいことだが、「五目かたい焼きそば」ってのはちょっと変じゃないでしょうか?

 今週の「ビッグコミックスピリッツ」の一番の見所はやはり、唐沢なをきの『NHKファイト』だろう(他の雑誌にも掲載されているかもしれないけど)。
 ぜひ、実写版を放映してもらいたいものである。

4月23日(日)

 一日中、部屋でだらだらとすごす。

 阿部和重アブストラクトなゆーわく』をぱらぱらと拾い読み。結構おもしろい。しかし、一本一本が短すぎ。ああ、それにしても、もろもろの話題に対するスタンスの取り方がやっぱり高橋源一郎とだぶって見える。

 今日は格ゲー三昧。というわけで、久々にPS2を起動する。まずは『DEAD OR ALIVE 2』をプレイ。何だかんだ言って非常によくできている。例えば『鉄拳TAG TOURNAMENT』と比べて見ると、技術の進化を単なる演出に止まらず、まっとうにゲーム性に反映させているあたり(複数の階層を持つ戦闘フィールド、様々なデンジャーゾーンのギミック)、ポリゴン格闘ゲームの現時点での最新進化形態であることは間違いない。しかし、一人で遊んでいると、どのモードでも多少の物足りなさを感じてしまう。ストーリーモードとタイムアタックモードの中間くらいのモードが欲しかったな。具体的にいうと、ラウンド制を採用していて、ステージの制限がなく、ボスが最後に登場するモード。
 あと、もし国内DC版が出るとしたら、PS版のトレーニングモードにあったコマンド入力のチェック機能をぜひ復活させてもらいたい。あれは非常に便利だし、それだけで結構遊べると思うのだが(もっとも、はじめて『ファイターズ・メガミックス』でそのモードを採用したセガにしても、DC版の『バーチャファイター3tb』では入れていなかったし。結局、時間が足りないということなのだろうか?)。
 続いて『鉄拳TAG TOURNAMENT』。まだ三人しかエンディングを見ていない。ちなみに、エンディングは今までと違ってムービーではなくリアルタイムポリゴン。噂に聞くところによると、ボスキャラのエンディングだけはムービーで、その出来がかなりすごいらしいのでぜひ見てみたいのだが、そのためには恐らく全キャラのエンディングを見る必要があるのだろう。勘弁してほしい。
 そらけいは、格ゲーは『バーチャ』から入ったので、『鉄拳』シリーズの操作系・操作性は苦手だったりする。何か、入力がえらくシビアに感じるのだ。単なるパンチの連打ですら、時々入力ミスしてしまう。て、自分がへたくそなだけなんだろうけど。
 次にDCで『バーチャファイター3tb』。うわっ、無茶苦茶、地味!

 で、久々にセガBBSのバーチャファイター掲示板を覗いてみて、『バーチャファイター4』に思いを馳せてみたりする。早く出ないかなぁ。というか、そもそも出るんでしょうか? 

4月22日(土)

 髪を染めてみた。微温的な茶色ですが。

 槇村さとるおいしい関係』16巻(完結)を読む。奇しくも、昨日の日記に書いた福田和也の言う「生動する状況の中で、登場人物がその条件と戦いながら自己の可能性を押し広げていくような小説」(マンガだけど)に見事に合致する作品。さすがベテランだけあって、そつなくまとめられている。おもしろかった。

4月21日(金)

 昨日、引用したインタビュー記事中、「中略」としていた部分の一部を追加した(紺色の部分)。文脈の意味を誤解されかねないと判断したため。

 本日の購入本。トマス・ハリスレッド・ドラゴン』(上・下)、『羊たちの沈黙』、『ハンニバル』(上・下)、阿部和重アブストラクトなゆーわく』(エッセイ集)、福田和也作家の値うち』、望月峯太郎ドラゴンヘッド』10巻(完結)、沙村広明無限の住人』10巻、井上雄彦バガボンド』10巻、加藤元浩Q.E.D.』6巻。
 まずはコミックを読む。感想はまた後ほど。

 というわけで、コミックの感想。
ドラゴン・ヘッド』。そうか、これは実は『漂流教室』だったんですね。それはともかく、この10巻に関して言えば、話をまとめにかかっているのが見え見えなのが難点。
無限の住人』。ああ、もう、恰好いいったらありゃしない。百琳姐さん、最高です。
バガボンド』。圧倒的な画力。おもしろいんだけど、どちらかというと全巻まとめて読んだほうが楽しめるような気がする。
Q.E.D.』。今回はいまいち。

 続いて、文章系の本。
アブストラクトなゆーわく』。目次を見た瞬間、高橋源一郎の本かと思いましたよ。「小泉今日子文学賞の設立を求む!」とか「『ドラえホン』の謎」とか「反町隆史 対 竹野内 豊」とか「くらもちマジック」なんてタイトルが並んでるんだもんなぁ。「ですます調」の文体も、何だかやっぱり高橋源一郎を思い起こさせる。同じ轍を踏んでほしくないのだが。
作家の値うち』。拾い読み。金井美恵子の小説で『岸辺のない海』が取り上げられてないのは現在入手不可能(たぶん。書店の棚に並んでないし)だから仕方ないけど、『文章教室』が入っていないのは納得いかない。
 まあ、それはともかく、福田和也と立場の異なる批評家、例えばすが(糸圭と書く)秀実などの各作家に対する評価などと比べてみると、評価がほぼ一致している作家(例えば、高評価では古井由吉、低評価では丸山健二)が結構いるのがおもしろい。
 コラム「『動機の不在』と『幼時のトラウマ』」についてはほぼ同感。しかし、個人的には「生動する状況の中で、登場人物がその条件と戦いながら自己の可能性を押し広げていくような小説が読みたい」とは積極的には思いませんが。

4月20日(木)

現代思想」1999年1月号(特集:ジェンダー・スタディーズ)を引っ張り出してきて、若桑みどりへのインタビュー記事「ジェンダー・スタディーズへの招待」を読む。以下、断片的な引用。

 一方、『デジャ=ヴュ・ビス』誌上で行われている「荒木惟経とフェミニズム」という論争があります。ことの発端は、クリスチャン・クラヴァーナという(男性の)批評家が、ウィーンで展示された荒木惟経の写真を、非常にセクシスト(性差別主義者)的な身体的イメージであると批判したことです。それに対し、荒木惟経のような天才カメラマンのことを分析するにあたっては、イメージの世界の豊穣なミクロコスモスを、いわば美的分析以外のジェンダー的なイデオロギーで切って捨てているということへの反発がおそらくなされている。
(中略)
 というのは、荒木惟経のほうが分かりやすいから言ってしまうと、荒木惟経の作品世界は芸術的な価値が高いということがあたかも自明のことのようになっていますね。荒木惟経は天才であり、彼の写すものは同じヌードであってもたとえば篠山紀信とはレベルが違う。単なる女性差別やエロスなどを超えた作品である。その自明な評価に対して、フェミニストあるいはジェンダーの視点から見る人は、これは美しくない、芸術的価値はないと言っている訳です。
 しかし、たとえば小勝禮子さんの論評を見ると、荒木惟経の写真に対し「次々とサディスティックで女として恥ずかしいポーズの繰り返し」とあります。小勝さんは心から本当のことを言っているんでしょう。しかしそのつぶやきは小勝さんには悪いのですが無効です。彼女の言葉は男性からみるならば、「それはあなたの勝手な感想であって、作品の価値を傷つけるものではない」ということに多分なるでしょう。私なら、これは美しくない、芸術的ではない、そして価値がない、なぜならば、と言いますね。芸術的に美しくなく価値がないのであれば、当然、それは芸術作品について二つの価値評価が出た、ということになるでしょう。そこではじめて作品論という同じ土俵に立てるわけです。
 まず第一に、「異性愛の男性」にとって美しいとされたものが、まるで絶対的に価値があり、侵してはならない聖域のようになっていく。その一元的な価値観に対する反論が出されたわけです。神が美に価値を与えるのではなく、人間が与えるのです。美の基準というのは相対的なものです。美の価値とは、それを消費する人のジェンダー、セクシュアリティ、人種、階級、時には健康によってさえも左右されるものです。誰かが絶対的な天才であるとか、ある作品が絶対的な傑作であるという、いかなる客観的根拠もありません。これが科学的真理とは違う美の本質です。ですから、彼らが傑作だと言ったところで、こちらが傑作でないという権利があるんです。あなたが美だと言うものを、私は醜悪だと言っても構わない。これが前提です。すると、残るところは、彼らはどうしてそれを美というのか、あるいはどうして私はそれを美と言わないのか。では、人が美しさを感じるのは何かということになりませんか。
 ここで第二のことが問題になるわけです。作品の画面の中でその創作理論や価値論にのみ批評の中心をおいてきた方法論に対して、作品の作者と受容者の間に生じる政治学
ポリティクス/原文ルビ)を論じるという方法論です。(以下略)

 すでに言い尽くされている、という気がしなくもない。
 自分の意見として付け加えることは、特にない。

 金井美恵子彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄』。やっぱり「目白もの」はおもしろい。あせらずゆっくり読む予定。

4月19日(水)

 綾辻行人どんどん橋、落ちた』に収録されている「伊園家の崩壊」の育也に関する描写が差別的であるか否か、今もなお判断できずにいる。
 しかし、ひとつだけどうしても気になった点があるので、だから何なんだ、と言われるのを承知で指摘しておきたいと思う。

 周知の通り、この作品はテレビアニメ「サザエさん」のパロディとして読まれることを意図して書かれている。ミステリとしての眼目はさておき、パロディとしての眼目はといえば、「サザエさん」の健康的な世界が、「真っ当に時間が流れはじめ」ることにより、暴力やセックスや死といった原作からは徹底して排除されていた世俗的な暗部に冒され、崩壊に至るという点にあるだろう。
 この視点から見れば、「伊園家の崩壊」は「サザエさん」の永続的な時間をあえて切断したその後日談ということになる。常=フネはいつまでも続く日常に耐えきれず町中で出刃包丁を手に暴れたすえ自ら命を絶ち、民平=波平は妻の死と事件の衝撃から酒とギャンブルに溺れ多額の借金を残して野垂れ死に、松夫=マスオは女遊びに耽り、笹枝=サザエは薬に浸り、和男=カツオは万引きや恐喝に手を染め、若菜=ワカメは事故で両脚を失い、樽夫=タラ夫は連日同級生から暴行を受け、タマは老衰で死ぬ……と、ここまでは確かに後日談として原作との間に齟齬は見られない。すべては「真っ当に時間が流れはじめ」たためだという一言で説明が可能である。問題は育也=イクラだ。
「『ばぶー』と『はーい』しか言葉が喋れない」のは「知能の発達に少なからぬ問題があるようだと聞いている」という設定は、それまで時間が静止していたため隠蔽されていた「事実」が明らかになっただけ、と解釈することもできるだろう。しかし、「人並み以上の加虐嗜好の持ち主」であるという設定はどうだろうか。これは、明らかに原作との間に齟齬をきたしている。「真っ当に時間が流れはじめ」たため、というだけでは説明が不可能である。
 この点に関して、作者は原作の設定に対して明白な「付け加え」を行っている。

4月18日(火)

 金井美恵子彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄』を購入。『小春日和』の続編。クリーム色のマット系の紙にニスでイラストが刷ってある装丁はなかなか凝っている。『小春日和』は河出文庫で刊行された際に再読しているので、『美濃牛』を中断してこちらを先に読むことにする。福田和也の『作家の値打ち』ではボロクソに書かれていて(ちなみに、立ち読み)、まあ、納得できる部分もないことはなかったのだが、やっぱり好きなんだよなぁ、この人の小説。

 他には「MACPOWER」、「MACLIFE」の5月号を購入。MacOS XにバンドルされるヒラギノのOpenTypeフォントに関する情報が少しずつ出てきている。出力解像度フリーという謳い文句が絵に描いた餅で終わらないことを祈る。しかし、モリサワのフォントではなくヒラギノを選択するあたりがいかにもAppleらしいと思うのは、そらけいだけではあるまい。

4月17日(月)

 さて、昨日の続き……といきたいところなのだが、例によってうまく文章にまとまらない。性急に結論めいたことを述べるとすれば、トラウマという主題は『夏と冬の奏鳴曲』によって息の根を止められた、ということになるだろうか。
 いや、ほんの思いつきで書いてみただけなんで、本気にされても困るのだが。

 かれこれ2時間近くも文章を書いたり消したりを繰り返しながら、結局残ったのは上記の分。コストパフォーマンス悪すぎだな。

4月16日(日)

 恩田陸月の裏側』の感想をこちらにアップ。いささか中途半端な内容ですが。

OK's Book Case」のOKさんの日記(4/15)以前の発言に対する言及があったので、ちょっと反応してみる。

 登場人物の構成要素としてのトラウマについて考える時、まっさきに思い浮かぶのは、実は漫画家の吉田秋生だったりする。短期間にいくつかの作品をまとめて読んだので余計に印象に残っているのかもしれないが、この人の作品では幼少期の「性的なトラウマ」が主要人物の人格を形成する重要なモチーフになっている(『櫻の園』『吉祥天女』『BANANA FISH』)。
 作話法としてあまりに安易じゃないだろうか、というのが、まず思ったことで、次に思ったのが、じゃあ、これらのキャラクタから「性的なトラウマ」を取り除いた時に、何が残るのだろうか、ということ。
 作中、登場人物が負った「性的なトラウマ」の原因として描かれるのは、男性の理不尽な暴力である。当然、それらは否定されるべきものとして描かれている。ところが、作者が登場人物のバックグラウンドとして「性的なトラウマ」を設定することにより、否定されるべき暴力によって負わされた「性的なトラウマ」そのものがキャラクタにとって必要不可欠な要素になってしまう、といういささか逆説的な状況が生じる。

 このあたりはもう少し詳細に書くつもり。

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