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■2002年10月16日〜10月31日


10月31日(木)
 念のため、最後にもう1度、告知しておきます。本日でHighway Internetとの契約がきれるため、早ければ明日にでも、旧サーバのデータは消去されるはずです。


 蓮實重彦「知」的放蕩論序説』。なぜか第II部から読みはじめて、現在、第III部。名前を知っているだけで、著作を読んだこともなく、まったく知識のない固有名詞が頻出するにもかかわらず、するすると読めてしまうのは良いのか悪いのか。ページの下段に丁寧な脚注が付されているんだけど、ほとんど気にせずに読み進めている。


 というわけで、浦賀和宏地球平面委員会』はまったく進まず。


 小川勝己撓田村事件―iの遠近法的倒錯―』の感想はもうしばらくお待ちください。
 とりあえず、この作品にかんする評としては、「狂乱西葛西日記」(10/21)の「
横溝正史の世界を現代の日本でリアルに再現する試み。(中略)殊能将之で言うと『美濃牛』に相当するが、『撓田村』のほうが正攻法。小野不由美『屍鬼』の手法に近い」が的確。もっとも、私は『眩暈を愛して夢を見よ』より、『撓田村』を支持しますが。


 サイト開設から丸3年が経過。さて、いつまで続くことやら。

10月30日(水)
 蓮實重彦「知」的放蕩論序説』購入。「週刊読書人」に掲載されたインタビューをまとめたもの。なんだかんだいって、蓮實重彦の語ること/書くことはおもしろいなぁ、とぱらぱらと読んで思った。


 現在、浦賀和宏地球平面委員会』を読書中。
 きわめて個人的な話で恐縮だが、主人公が「地球平面委員会」を訪れ、主要キャラクタが登場する場面を読んで、ひどく気恥ずかしい気持ちになった。『記憶の果て』を読んだときにも感じたんだけど、とても他人が書いたものとは思えない。というのも、物語内容ではなく、語り口が、その昔に自分が書いた小説に非常によく似ているのだ。少なくとも、私にはそう感じる。
 証拠を見せろといわれても困るけど、浦賀和宏の作品に文句をいいつつ読み続けているのには、そんな理由があったりもする(もちろん、私の一方的な思い込みに過ぎない)。

10月28日(月)
 舞城王太郎『熊の場所』の感想に、再び加筆。一応、これで終わりです。

10月26日(土)
 小川勝己撓田(しおなだ)村事件―iの遠近法的倒錯―』読了。きわめて精密につくられたフェイク。しかし、フェイクであることをまったく隠そうとしていないのがいい。


 舞城王太郎『熊の場所』の感想は、若干、文章の表現を修正。もう少し手を加えるかも。

10月23日(水)
 昨日アップした舞城王太郎『熊の場所』の感想で、私は舞城王太郎の作話手法をさして「大雑把」などと書いたが、「オマエモナー」という声がどこからともなく聞こえてきたので、数日のうちに、もう少しましになるよう手を加えるかもしれない(あるいは、そのまま放置かもしれない)。


 さて、10/21の日記に書いた泥棒の話の続き(?)なのだが、今日になって、プラスティック製のバケツと、作業用のハサミがなくなっていることが判明した。先週末までは確かにあったので、これはやはり泥棒が持っていったとしか考えられない。なぜ、バケツとハサミ? 誰か合理的な説明をしてくれる人はいないだろうか?
 それから、前回、書き漏らしたことなのだが、現場には缶ビールの空き缶と煙草の吸い殻が残されていた。缶ビールはエビス。あいにく煙草の銘柄は確認できなかった(ちなみにフィルタは白だった)。ゴミくらいちゃんと捨てていけよ、と思った(←そういう問題か?)。

10月22日(火)
舞城王太郎熊の場所』★★★
未読の方はご注意ください。文字色を変更していない部分は、直接的なネタバレではありませんが、結末部分にかんする言及があります。
 著者初の短編集。「群像」に掲載された「熊の場所」「バット男」に書き下ろしの「ピコーン!」を加えた3篇を収録。黄色いポップな表紙が目印。
 率直にいって、おもしろかった。饒舌な一人称による怒濤の文体は気持ちいいし、ジャンクで一見するとドライなわりに、情感に訴える物語も個人的にはツボで、お気に入りの作家の新刊としては充分に満足できる作品集だった。

 ところで、書き下ろし作品である「ピコーン!」は、作者としては「
フェラチオ」というタイトルにしたかったのに、編集者に却下されたのではないかと邪推してみる。というのも、この短編集に収録されている作品はどれも同じような物語の構造をしているんだけど、「ピコーン!」というタイトルだけが唯一、そのパターンに当てはまらないのだ。
 冒頭部で語り手の身近な出来事というか事件(「熊の場所」と「バット男」では、そのままタイトルにかんするエピソード)が語られ、次に、語り手と登場人物は共通だが別の物語として独自に成立するようなエピソードが語られるのだが、結末部に至って、再びタイトルに象徴されるエピソードが思い出したように呼び戻され、冒頭部と結末部をリンクして幕を閉じる、という構造がまったく同じで、まあ、タイトルであることにこだわらず、単に「キーワード」としてもいいんだけど、そういった物語の組み立て方が3作とも同じになってしまうというのは、なんだか作者の限界を感じさせるようでちょっと残念ではある。
 もっとも、ネタノートから適当に2つのネタをピックアップして、無理矢理ひとつの物語として仕上げてみました、みたいなわりと大雑把な印象の作話手法は、その語り口にいかにも似つかわしくて、結構、好きなんだけど。

 
以下、2002/10/28追記。ネタバレにつき、文字色を変えています。

 ここでは仮に冒頭部のエピソードをA、それ以降から終盤にかけてのエピソードをB、結末部をCとする。3作に共通しているのは、A→B→C(=A+B)という図式だ(記号の使い方は適当)。

「熊の場所」
の場合、B(まー君にかんするエピソード)の一部を前振りとしてA(熊の場所にかんする父親のエピソード=「恐怖の対象と向き合うこと」の象徴)が語られるので、Bの内側にAが内包される形になっており、A→Bのつながりが3作のなかでもっとも違和感なく行われている(上記の図式は、この作品の場合、厳密にいうとB1→A→B2→Cとなっている)。違和感がない、ということは、すでにBをメインとする物語において、Aが有効に機能しているということであり、その時点で役割を果たし終えているということでもある。だから、結末部において、再度、Aを呼び戻し物語を終えるために、作者はBにいささか強引とも思える付け足しを行わなければならず(まー君の死)、そのため、確かに物語の幕を閉じるために必要とはいえ、蛇足という印象が拭えない。

「バット男」
は、もっともこの図式に忠実な作品で、A(バット男にかんするエピソード=「虐げられる弱者」の象徴)からB(語り手の友人である一組のカップルにかんするエピソード)の展開が、唐突に行われる。とはいえ、Bにおいても、「バット男」に象徴される主題が繰り返し語られており、その意味では同じ物語としての一貫性は保たれている。さらに、それだけでは不足だと感じたのか、作者はまったく異なる2つのエピソードを、それぞれのエピソードに登場する人物同士の「肉体関係」を設定することによって、直接、結びつけている。しかし、主題の一貫性、その偏在ぶりを強調するためには、むしろ直接的なつながりなどないほうがより「純文学的」になったのではないかと思う(もちろん冗談だけど)。結末部分における主題のリフレインは、「熊の場所」と同様で、それなりに有効な手法であることは認めるものの、いささか唐突な印象を受けるわりに驚きはなく、それほど成功しているとは思えない。

 書き下ろし作品である「ピコーン!」
は、上記の2作とはいくつかの違いがある。女性が語り手であるというのもそうだし、この感想の冒頭でふれたとおり、タイトルのつけかたが「熊の場所」「バット男」とは異なっている。また、先の2作では(その分量はさておき)Aはあくまでサブプロット的な扱いで、メインプロットとなるのがBであるのに対し(もっとも、「バット男」はAとBはほとんど同じくらいの扱いだけど)、「ピコーン!」では逆にAがメインとなり、BがAに内包される形になっているというのも大きな違いだ(しかし、A→B→C(=A+B)という図式そのものは変わらない)。ちなみに、先の2作ではタイトルに冠せられている「熊の場所」「バット男」といった言葉に象徴される物語の主題は、「ピコーン!」の場合、「フェラチオ」=「幸福な生活、あるいは、前向きな行動の原動力の象徴」であるといえるだろう。
 この作品が優れているのは、他の2作におけるC(=A+B)がいわば後日談的な付け足しで、主題の再提示にとどまっているのに対して、完全にプロットと同化しており(なぜ恋人は笑っていたのか? という謎の答え=主題)、なおかつ、物語内容と一致した明確なメッセージを発している点にある(小説におけるメッセージ性の有無にかんする是非はここでは問わない)。思いきり単純化してしまえば、ここで発せられているメッセージは主題による悲劇(=死)の超克であり、語り手である主人公には恋人の死を乗り越える力を与え、死を目前にした被害者にはささやか救済を与える主題の肯定である。この作品は、ミステリ的なガジェットが無造作に物語に放り込まれているという意味で、講談社ノベルスの〈奈津川家サーガ〉シリーズにもっとも近いが、それ以上に、肯定的なメッセージの力強さにおいて、特に『煙か土か食い物』に近いと感じた。


10月21日(月)
 チコタン勝手に普及委員会
 そもそも、私がこの曲を知ったのはこちらにあるPSOのFlash「リコタン」だったんですが、元ネタはわりと有名な曲らしくて、上記のサイトで聴くことができます(ネタ元:2ちゃんねるネットワークゲーム板GC版PSOスレ)。1〜4番まではほのぼのした幼い恋愛の歌なんですが、5番で急転直下、衝撃の展開を見せます。これはあんまりだ……。


 上記のサイトのディレクトリを遡っていくと、運営者の方は、角川版メフィスト賞ともいえる「カドカワエンタテインメントNEXT賞」に応募して落選したらしく、投稿作品の一部と、編集者による評価が記されたコメントシートがアップされています。なるほど、こういう形で評価されるのか〜、となかなか興味深いです。


 話はかわります。
 朝、会社についたら見なれない人たちが大勢いるのでなにかと思ったら、泥棒に入られて警察が来ていたのでした。
 私が勤めている会社は7階建ての雑居ビルの3階にあるんですが、エレベータは誰でも入れるようになっていて、会社との仕切りは針金の入ったガラスの扉があるだけなので、鍵のすぐ横のガラスが割られて侵入されました。同じビルの2階と4階の会社も被害にあったようです。
 大きな被害はなく、業務にも支障がなかったのは幸いでした。
 ミステリ好きとして不謹慎ながらも興味深かったのは、おそらく泥棒の指紋と関係者の指紋を判断するためだと思われるのですが指紋と掌紋を採取されたことと、小説では頻繁に見かける指紋を浮かび上がらせる銀色の粉が会社の備品にたくさんついていたことでした。指紋の採取については、不勉強ながら朱肉のようなものを想像していたんですが、いわゆる普通に事務で使用するスタンプ台より倍くらい大きくて厚さはもっと薄いスタンプ台のようものから、無色透明の液体というよりは固形の鑞のような薬品に指先を触れて(薬品がついているのかいないのかもわからない)、筆圧で文字が転写される複数枚綴りの用紙の2枚目以降のような紙に指を回転するように押しつけると、紙の上にうっすらと指紋が浮かび上がるという具合でした。あと、指紋採取用の銀の粉(アルミニウムでしたっけ?)は、台所用洗剤を使うとよく落ちるということも初めて知りました。あの粉って、紙魚を潰したときに付着する粉に似ているなぁ、とちょっと思いました。

10月19日(土)
 杉浦印字さん@鉄の靴(旧〒□)による「小説に関する100の質問」に対する回答、まだ空欄多数の状態なんですが、とりあえずアップしてみます(→こちら)。空欄は、随時、追記していくつもりです。
 しかし、この質問の回答を考えていてわかったのは、自分がいかに数を読んでいないか、ということと、いかに読んだ本の内容を覚えていないか、ということでした。う〜む。

10月16日(水)
 金井美恵子彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄』の文庫版を購入(ハードカバー版のときの感想はこちら)。いや、別に再読するつもりはなかったんだけど、解説を書いているのが丹生谷貴志だったので、思わず購入してしまったのだ。
 非常によい解説だと思う。何しろ、解説を読み終えて、そのまま本編を最初から読みはじめたくらい。むちゃくちゃおかしい。きっと、作者も喜んでいるんじゃないだろうか。久しぶりに丹生谷貴志の著作が読みたくなった。数冊、積読のままだし。

 まったくの余談なんだけど、解説の「
仕方ないよ」(P.328)という一文には、きわめて個人的な感情から思わず泣きそうになってしまった。


 杉浦印字さん@鉄の靴(旧〒□)による「小説に関する100の質問」。おもしろそうなので、答えてみようと書きはじめたんだけど、やっぱり100の質問は多すぎ! というわけで、どうにも書ききれないので、回答は後日アップするとして、今日は紹介のみ。駄目じゃん。

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