読書の記録(2006年10月)

「溝鼠」 新堂 冬樹  2006.10.04 (2002.04.30 徳間書店)

☆☆

 鷹場英一が経営する「幸福企画」の仕事は復讐代行だった。人の不幸とカネが何より大好きな英一にとって,趣味と実益を兼ねたビジネスだ。今回の仕事は,ある銀行員から依頼された,デート嬢への復讐だった。仕事は順調に終了し,銀行員からの報酬も受け取った。しかしそれは罠だった。英一に罠を仕掛けたのは英一の実の父の源治で,彼を自分の企みに引き込む為のものだった。英一は嫌々ながらもヤクザ相手に大金をせしめる仕事に入り込んでいった。

 復讐代行を生業としている英一には,彼を子供の頃から虐待してきた父親の源治と,一人の女性として愛する姉の澪が居た。ひょんな事から英一は,大学助教授とヤクザの親玉を相手にして,2億円をふんだくる仕事に引き込まれます。ストーリーは面白いし,サスペンス溢れる展開も見事です。でもどうしても気になってしまうのが,3人の家族の関係です。英一,澪,源治の3人が家族では無かったら,もう少し単純に楽しめたと思います。実際のところ,源治と英一,源治と澪,そして英一と澪が,それぞれ親子とか姉弟だとか信じられません。ですので彼らの互いの不信感だとか裏切りだとかにウンザリさせられてしまいました。どうして腐れ縁のある3人の男女じゃいけなかったんでしょう。

 

「猫は引っ越しで顔あらう」 柴田 よしき  2006.10.05 (2006.06.20 光文社)

☆☆☆

@ 「正太郎と天ぷらそばの冒険」 ... 同居人の東京での新居探し。訪れる物件には,同じカップ麺のカップが置かれていた。
A 「正太郎と古本市の冒険」 ... 近所の神社で行われている古本市。そこに買ったばかりの本を置いて行った男が居た。
B 「正太郎と薄幸の美少女の冒険」 ... 正太郎の住む家には,前の住人が飼っていた犬の幽霊が出ると言う。
C 「祈鶴(いのりづる)」 ... 娘の恋人が通り魔に殺された。悲しみに暮れる娘の為に何とか犯人を捕まえたいと思う母。

 猫探偵・正太郎シリーズの6作目です。同居人である女性ミステリ作家の桜川ひとみが,東京に引っ越すことになり,正太郎の東京生活が始まります。神楽坂にある曰くつきの一軒家に住むことになり,隣に住むニンニンとフルフルと言う友達ができます。とにかくこの3匹の猫同士の会話が面白い。横断歩道の渡り方を考えたり,古本市の読み方を教えたり,結構いい加減な理解をしているのが楽しい。ですので,出てくる謎もその結末も,ほのぼのとした感じなのがいいと思います。その点から言うと,後半の2作はちょっと馴染めない感じがしました。このシリーズでは正太郎の視点によるものと,そうでない作品がありますが,断然前者の方がいいですね。さて次回はトマシーナとの再会でしょうか。

 

「忌品」 太田 忠司  2006.10.06 (2006.08.31 徳間書店)

☆☆

@ 「眼鏡」 ... 子供の頃には入る事の出来なかった父親の書斎。そこで亡き父が使っていた眼鏡を見つけた。
A 「口紅」 ... 子宮を切除して入院中の妻を見舞う夫。その看護婦は,自分と較べて彼女が羨ましく思えた。
B 「靴」 ... 娘に履かせる為に父親が買った小さな靴。娘はその靴を履くこともなく,交通事故で亡くなった。
C 「ホームページ」 ... 去年亡くなった同級生が作っていたホームページ。その日記が今も更新され続けていた。
D 「携帯電話」 ... 列車に飛び込んで自殺した男が持っていた携帯電話。一人の女性の写真が残されていた。
E 「スケッチブック」 ... 連続殺人事件の犯人は12歳の少女だった。そして犯人は警察の中で自殺してしまった。
F 「万華鏡」 ... 万華鏡作家だった叔母が作った万華鏡。彼女はパーティー会場で叔父からそれを貰った。
G 「手紙」 ... 老いて病に冒された作家が病室で書いた手紙。彼の最後の短編集を作ろうとしている編集者が居た。

 ホラー(horror)と言うのは“恐怖”と言う意味で,転じて映画や小説などの娯楽作品で,観る者が恐怖感を味わって楽しむ事を想定して制作された作品を指します。この短編集もホラーと銘打たれています。でもぜんぜん怖くは無いんです。まあ怖くないホラー作品なんていくつもありますから,それはどうでもいいんです。でも書きようによってはもっと怖い作品になるだろうと思われるので,ちょっと残念な気がしました。この8作は死んだ者が残した“物”がモチーフとなっています。その“物”自体の怖さや不気味さを前面に出した方が良かった気がしました。それにしても論理性に拘るミステリ作家なのに,その対極にあるようなホラー作品を書く人って多いですね。

 

「カンニング少女」 黒田 研二  2006.10.08 (2006.04.25 文藝春秋社)

☆☆☆

 不慮の事故で亡くなった姉・芙美子の死の真相を調べるため,天童玲美は最難関私大の馳田大学に合格しなくてはならなかった。入試を4ヵ月後に控えた10月,彼女は猛勉強を開始したが,彼女の学力では到底無理だと思われた。そんな玲美を応援するのは,成績優秀な愛香,陸上選手の杜夫,機械オタクの隼人だった。彼らが出した結論は,カンニングによる入試の突破だった。

 カンニングをテーマにした作品って少ないと思いますが,書きようによっては結構スリリングで面白い作品になると思います。でもカンニング自体は悪い事ですから,如何に主人公に対する感情移入がし易い状況を作るかが大切に思えます。その点,玲美が馳田大学に合格しなくてはいけない理由が弱過ぎ。それは玲美だけではなくて,愛香らが玲美の応援に入る動機も,また鈴村女史があれ程までにカンニングに対する嫌悪感を持つのもピンときませんでした。それに第一,真相があまりにも馬鹿らしいと言うか,悲し過ぎると言うか,ちょっと唖然としてしまいました。シリアスな面を全て排除して,軽いエンターテイメントに徹した方が良かった感じです。ちなみにカンニングを扱った作品では,メインのテーマではないのですが五十嵐貴久さんの「Fake」が良かったですよ。

 

「風の墓碑銘(エピタフ)」 乃南 アサ  2006.10.11 (2006.08.30 新潮社)

☆☆☆☆

 下町の住宅解体工事現場から男女そして嬰児の3体の白骨死体が発見された。事情を聞こうと刑事の音道貴子は大家の下にむかったが,事情を知っているはずの大家は認知症で事情が聞けなかった。二ヶ月あまり事情を聞こうと試みたが結局何も判らず終い。そうこうしているうちに,この大家の老人が殺されてしまった。徘徊中,近くの公園で何者かに撲殺されたものだ。貴子はこちらの事件に回され,一緒にコンビを組む事になったのは,あの滝沢刑事だった。

 音道貴子シリーズの6作目です。彼女が出ると当然の様に登場するのが滝沢刑事。今回もコンビを組むのですが,この二人決して仲がいい訳ではありません。男社会の中で頑張る貴子に対して,男社会そのものの様な滝沢。今まではどちらかと言うと,貴子の頑張りや健気さが強調されてきたのですが,今回はちょっと様子が違います。滝沢が今までよりも優しいんです。それとは逆に貴子の方の,滝沢に対する意地や負けん気の強さが強調されている感じです。さて白骨死体発見の事件から老人の撲殺事件に回った貴子達ですが,地味な捜査の場面が続きます。老人ホームを何度も訪問し,気になった男の実家で聞き込みをし,毎日の捜査会議が続きます。丁度この事件の捜査をしているのが梅雨明けから真夏にあたる為,読んでいる方にも彼らが感じている暑苦しさが伝わってきます。暑い中,外で捜査する刑事さん達って大変でしょうね。そしてそれとともに,貴子と滝沢が抱えているプライベートな問題も描かれます。目の病気を抱える恋人の昴一のイタリア行きにいらつく貴子と,息子と娘とのすれ違い生活と身体の不調を感じる滝沢。みんな頑張っているんだなと思わせるところがいい。それがまた犯人に対する嫌悪感を倍加させますね。それにしても二人の仲は何とかならないんでしょうか。「鎖」とかでは互いに尊重し合う感じがしたのですが。

 

「流れ星の冬」 大沢 在昌  2006.10.13 (1994.09.10 双葉社)

☆☆☆

 大学教授をしている葉山英介は,甥の薫と二人暮らしをしていた。最愛の妻はすでに亡くなり,ひとりの子供も独立をしている。平穏な生活を送っていた葉山だったが,彼には他人に話す事のできない過去があった。40年も前の事だったが,彼は数人の仲間とともに「流星団」と言う強盗の一味だった。メンバーは全て足を洗っていたが,今になってその過去の清算に迫られた。

 主人公は短大で教授をしている65歳の男性です。ハードボイルドの主人公にしてはちょと異色ですが,とにかく格好いい。昔の仲間とは定期的に会ってはいるものの,カタギとして生きてきた40年。しかし最後の仕事となった時に盗んだ宝石の関係から,事件に巻き込まれていきます。いきなりかつての仲間の娘が現れて,彼が残した日記が出てきたりと,上手く行き過ぎるきらいはありますが,緊張感が途切れる事無く進んでいきます。最後の事件の真相は何なのか,かつての仲間は自分を裏切ったのか,そしてどの様に決着がつけられるのか。いろいろと興味が沸いてきますが,最後が少々期待外れでした。

 

「ブルータワー」 石田 衣良  2006.10.16 (2004.09.30 徳間書店)

☆☆

 父親が土地を持っていた事で,時価2億円を超える高層マンションに暮らしている瀬野周司。彼は悪性の脳腫瘍に冒されており,余命少ない車椅子生活を送っていた。そんな中,腫瘍による頭部の激しい痛みに襲われたと思ったら,知らない世界の知らない人物になっていた。しかし意識だけは瀬野周司のままだった。そこは200年後の東京で,「黄魔」と言うウィルスに怯える世界で,彼は「セノ・シュー」と言う名の支配層の人間になっていた。

 石田さんにしては珍しいSF作品です。200年後の世界は生物兵器に汚染され,世界は7つの巨大なタワーに別れています。その一つが日本の東京にあるブルータワー。タワーの中は完全なヒエラルキー社会が構築されていて,セノ・シューは特権階級の一人と言う設定です。まず手塚治虫さんの「火の鳥・未来編」を思い出してしまいました。まあそれだけではなく,過去に読んだり見たりした未来の世界がそこここに描かれていて,未来社会の新鮮さは無いですね。もっともこの様な設定だと,オリジナリティを要求するのは少々酷でしょうか。ですからSFの世界を楽しむと言うよりも,未来の世界で生きる希望を見出す,瀬野の活躍を単純に楽しめばいいんでしょう。読み易いので,そういう意味では楽しめる作品だと思います。

 

「中原の虹 第1巻」 浅田 次郎  2006.10.18 (2006.09.25 講談社)

☆☆☆☆

 たまたま助けた老婆から「汝,満州の覇王たれ」と託宣を授かった張作霖(チャンヅオリン)は,今や満州馬賊の大頭目・百虎張として名をはせていた。その子分となった李春雷(リイチュンレイ)は,かつて幼い弟妹を捨てて故郷を出た事をいまだに悔いていた。ある日二人は歴代王朝で皇帝の証として伝わる「龍玉」を探しに出掛ける。これは乾隆帝によって山の奥深くに封印されており,資格の無い者が手にするとその身体が砕け散ると言われている。乾隆帝はいつの日か民衆の飢餓を救う者が,この「龍玉」を手にする事を願っていたと言う。満州を覆う貧困と戦おうとする張作霖は,乾隆帝の願いをかなえる事ができるのか。

 あの「蒼穹の昴」の続編だそうです。「珍妃の井戸」はあくまでもサイド・ストーリーとしての性格が強いので,本作こそ待ちに待った続編。でも春児や梁文秀らのその後が描かれる訳ではありません。今回の主役は満州の馬賊・張作霖です。でもその子分である春雷は春児の兄だし,張作霖に予言を与えた老婆は白太太です。この張作霖と言う人物は,満州事変のきっかけとなった事件に係わる人物だと言う知識はありましたが,ここら辺の歴史は詳しくありません。でもそんな事は何の問題にもならないでしょう。と言うよりも知らない方がいいかもしれません。今回は第一部と言う事でしたので,巨大なプロローグと言った感じです。登場人物の過去等を含む,いくつかのストーリーが紹介されていきます。その人物一人一人,物語の一つ一つが実に魅力的なんです。本当に浅田さんは人物の描き方が上手いですね。全部で4巻まであるそうですが,今後どの様に展開して行くのかとても楽しみです。メインとなるであろう張作霖,春嵐,秀芳らの活躍,西太后と光緒帝の関係,そして間に挟まるアイシンギョロ・ヌルハチの話。スケールの大きさを感じます。一つ残念なのは,せっかくだったら一気に読みたかった事です。もっとも全部発刊されてから読めばいいのですが,待ちきれないですよね。

 

「縁切り神社」 田口 ランディ  2006.10.19 (2001.02.25 幻冬舎)

☆☆

@ 「再会」 ... 1年前に別れた男性との再会。この1年の間に彼女は中年の男性と付き合っていたのだが。
A 「悲しい夢」 ... テレビのニュースで流された悲惨な事件。彼女達はその事件の被害者になった夢を見た。
B 「アイシテル」 ... その女はエイズ等に罹った男性の性欲を満たすためのボランティア団体に所属していた。
C 「夜桜」 ... 夜行列車で故郷の駅に降り立った女性。昔通っていた小学校の校庭で,幼馴染の女性に出会った。
D 「夜と月と波」 ... 自分の方からから一方的に思いを寄せている女性。彼女から子供ができたと知らされた。
E 「縁切り神社」 ... 京都で訪れた神社で1枚の絵馬を見つけた。そこには自分の名前が書かれていた。
F 「世界中の男の子をお守りください」 ... 酔っ払って目覚めたのは,昨晩知り合ったばかりの男性の部屋だった。
G 「島の思い出」 ... 癌に苦しむ母を残して父が自殺した。私は恋人と別れ職も捨てて,母の看病にあたった。
H 「どぜう,泣く」 ... オフ会に出席するために訪れた店。出席者の一人は,かつて自分を一方的に捨てた男だった。
I 「恋人たち」 ... 明日はいよいよ彼の両親に逢いに行く日。準備をしていたら,昔の彼から電話が掛かってきた。
J 「エイプリルフールの女」 ... 彼から妻が死んだと知らされた。どんな女性だったのか知りたくて告別式に出掛けた。
K 「真実の死」 ... 姉が難産の末に産んだ子供は真実と名付けられたが,生まれて三日で亡くなってしまった。

 様々な男女の恋愛を描いた短編集。女性の視点で語られているからなのか,それとも私の感性とズレているのか,良く判りませんでした。女性の心理描写が中心になっているのですが,どうも彼女達の考え方,行動が唐突に思えてしまいます。表題作の「縁切り神社」にしても,この状況は普通に考えたら怖い話ですよね。でもそれが何故,悪縁が断ち切れた事として彼女は前向きに捉えるんでしょうか。さっぱり判りません。でも夜の情景を描いた「夜桜」とか「夜と月と波」なんかは綺麗でいいですね。また匂いと記憶の関係の強さについては全く同感です。私もちょっとした香りから,過去の記憶が引き出される事って,たまにあります。ちなみにこの「縁切り神社」と言うのは,実際に京都にあるんだそうです。

 

「僕の行く道」 新堂 冬樹  2006.10.19 (2005.02.15 双葉社)

☆☆

 小学校3年生の大志は母と会った記憶が無かった。家には2歳の時に母と一緒に撮った写真だけしか残っていなかった。父によれば,母はファッションデザイナーで,パリで勉強中との事だった。毎週土曜日にパリから届く,母からの手紙が待ち遠しかった。ある日大志は,父親の本棚から,ある写真と手紙を見つけた。それによれば,母はパリではなく小豆島にいると思われた。大志は母親に会うために,父に内緒で小豆島に向う事にした。

 読み始めてすぐに思うのは,大志の母が今実際どうしているかと言う事です。離婚しているのか,重い病気に罹っているのか,亡くなっているのか,それとも刑務所に入っているのか。それは読んで頂ければ判ります。母が今どうしているのか,と言うのは一つの謎には違いないのですが,こう言うのって最近流行りなんでしょうか。作品名をあげる訳にはいかないのですが,同じテーマを扱ったあの作品と較べると,感激度がちょっと落ちてしまいます。それは大志が母親に逢いに行く過程の描き方に問題があるんでしょう。静岡で降りた女性も,大阪の女の子も,岡山の老人も,あまりにもいい人ばかりです。ですので大志の成長物語と言う部分が弱過ぎるんでしょうか。それと3人から伝えられた電話番号って何の意味も無かったのは何故なんでしょうか。それにしても新堂さんって,ノワール小説しか読んだ事無かったので,本作は意外でした。

 

甘栗と金貨とエルム」 太田 忠司  2006.10.20 (2006.09.30 角川書店)

☆☆☆☆

 私立探偵をしていた父を,交通事故で失ってしまった高校生の甘栗晃。母も兄弟もなく独りぼっちになってしまった甘栗は,高校を退学しようと考えていた。そんな彼が父の事務所を片付けていたところ,一人の少女が訪ねてきた。彼女は行方不明になってしまった母親探しを,甘栗の父に頼んでおり,父に代わって母親を探して欲しいと言う。断り切れなかった甘栗は,少女・淑子の依頼を受ける事になった。

 探偵になるきっかけと言うのは,色々あるんでしょうが,亡くなった父親の跡を継ぐパターンは何となく自然です。最初は嫌々ながら始めた仕事でしたが,何と藤森涼子さん達の協力を得て,見事解決。そして本格的な探偵の道へ,と言う感じなのですが,新たなシリーズ作の登場なんでしょう。まあ初めての仕事なんで,父親が残したメモだとか,色々な人の協力だとかがあって,探偵の仕事としての難度は低め。でもその中で,キラリと光る探偵としてのセンスを発揮しています。さてドラクエが入っていたり,名古屋の食文化の紹介が入ったりもしますが,興味の的は甘栗の友人達との関係。彼の事をテンシンと呼ぶ直哉,彼に仄かな想いを寄せる三ケ日。甘栗の高校生活を含めて,今後どうなっていくんでしょうか。

 

「運命の鎖」 北川 歩実  2006.10.21 (2006.07.28 東京創元社)

 理論物理学者の志方清吾は,自分の父親が不治の遺伝病に犯されていた事を知った。アキヤ・ヨーク病と言う奇病で,中年期に発病して死に至るが,遺伝して発病する可能性は50パーセント。彼は精子バンクに自分の精子を残したまま,失踪してしまった。そして20数年後,志方の血を引き継ぐ子供達は,受験,結婚,出産などを迎えようとしていた。子供達に志方の病気は遺伝しているのだろうか。

 不治の遺伝病に罹っていたかもしれない物理学者が残した精子によって,生まれたとされる男たち。彼らは本当にその科学者の血を引いているのか,科学者は発病していたのか,そして子供達の発病の可能性は。と言う事がらに対するいくつもの推理が連作短編風に描かれていきます。非常に論理的な考えが紹介されますが,人の考え方や行動って,そんなに論理的なのでしょうか。この人の作品は皆そうなのですが,あまりに論理的過ぎてついていけない部分があります。と言うよりも,読むのが苦痛に感じられてしまいます。この様な作風が好きという人もいるんでしょうが,私は駄目ですね。時間を掛けてじっくり読めば理解できるんでしょうが,作者の理屈を理解するのが,私にとっての読書の目的ではないので,そろそろこの作者の作品はパスしようっと。

 

「空飛ぶタイヤ」 池井戸 潤  2006.10.24 (2006.09.25 実業之日本社) お勧め

☆☆☆☆☆

 走行中の大型トレーラーのタイヤが外れ,通り掛かりの主婦を直撃し,主婦は即死。事故の原因は整備不良とされた。容疑者となった運送会社社長の赤松は,その結論に納得がいかず,事故の真相を調べ始める。事故車は財閥系の大手自動車会社ホープ自動車製のトレーラーだったが,調査は難航を極める。さらに銀行からの融資は切られ,得意先からの仕事は無くなり,従業員は去っていく。しかし赤松には,自分の会社の整備不良が原因では無いと言う自信があった。

 どこかで似た様な話を読んだなと思ったのですが,それは高任和夫さんの「偽装報告」でした。こちらも車の欠陥による事故の真相を暴く話でしたが,実際の話とかぶる部分が多いですね。そちらが記者の視点で描かれていたのに対し,こちらは事故の当事者の視点と言う違いのせいか,迫力が違います。読みどころとしては数々の苦難にもめげない,中小企業社長の赤松の頑張りでしょう。相手は全てにおいて力が上の大企業ですし,赤松の方には不利な状況ばかりです。でも父親から引き継いだ会社をつぶすわけにもいかず,社員や家族を守らなくてはいけない。自分の会社の車が原因で人が亡くなったのも事実ですが,自分の会社の潔白を信じる赤松の潔さ。それに対比される財閥系企業の方の醜さも,もう一つの見所なのでしょう。「コンプライアンス」と言いながらも事実を隠蔽しようとする体質,泥沼の様な社内の抗争,客を客とも思わない社員,系列の銀行を見下す幹部,不正を暴こうとするマスコミをも抑えてしまう企業。こう言ったところも,良く描かれています。そして赤松の息子が通う小学校で起こった現金盗難事件や,異常な子供やその両親。やや類型的で新鮮味には欠けますが,読み応えのある力作です。「オレたちバブル入行組」もそうですが,勧善懲悪の話が上手いですね。

 

「今日を忘れた明日の僕へ」 黒田 研二  2006.10.25 (2002.01.15 原書房)

☆☆☆☆

 数ヶ月前の事故によって脳に損傷を負い,新たな記憶を蓄積する事ができなくなってしまった一ノ瀬勇作。その日の出来事は覚えているものの,一旦眠ってしまうと,事故後の記憶は一切失われてしまう。毎朝,目を覚ました勇作に,その事情を説明する妻の奈々美。勇作は失われる記憶をとどめる為に,退院以来毎日日記をつけていた。そこには一番の親友である尚人が失踪してしまった事が書かれていた。そんなある日,尚人の死体が見つかったと言うニュースを聴いた。それとともに,血まみれで死んでいる友人の姿が蘇ってきた。

 この新たな記憶ができなくなる症状って,前向性健忘症と言い,北川歩実さんの「透明な一日」にも出てきます。それにしてもこれは残酷ですね。最初のほうで目が覚めて違和感を感じる勇作と,事情を説明する妻の奈々美の描写が現れます。慣れているので彼女の説明は判り易い。勇作は驚くとともに,大きな絶望感,そして妻への申し訳無さを感じます。しかしそれも明日になっては忘れてしまいます。まずこのシーンで惹きつけられ,勇作達に対する感情移入度が高まります。それとともにいくつかの謎が現れます。失踪した友人の死体発見,フラッシュバックする友人の姿,自分の事故と同じ日に亡くなった妻の友人,自殺した女子高生,雑誌の編集者を名乗る謎の女性,そして何より自分の事故の真相。後味の悪さは残るものの,上手く騙してくれています。日記の使い方が上手い,と言うかズルイと言うか。それにしても勇作の推理が,たった一日の出来事だと言うのが,ちょっと驚きでした。

 

「四度目の氷河期」 荻原 浩  2006.10.27 (2006.09.30 新潮社)

☆☆☆☆

 小学生のワタルにはお父さんが居なかった。遺伝子の研究をしている母と二人暮らしだった。ワタルは他の子供と自分が少し違っていると感じていた。じっとしている事ができず,大声を出して走り回ってしまう。絵を描けば,みんなと違った色使いをしてしまう。そして小学校の高学年になり,身体の変化に戸惑うようになった。そんなある日,母の部屋にあった雑誌の記事で,ロシアでクロマニヨン人のミイラが発見された事を知った。ワタルに突然ある事が閃いた。自分はクロマニヨン人の子供なんだと。

 子供の頃の,自分が他の子供とどこか違うって言う思い込みは,誰にでもあるんではないでしょうか。それは優越感であったり劣等感であったりします。優越感の方はともかくとしても,背が低い,足が短い,太っている,上手く言葉が喋れない。そう言った劣等感を感じる事柄って,他人からみれば些細な事なんでしょうが,本人にとっては深刻な悩みになります。本作は,他人との違いから自分がクロマニヨン人の子供だと勘違いしてしまった,ワタル少年の成長の物語です。小学生の頃は,来るべき氷河期に備えて石器作りに励んだりします。突拍子も無い事なんですが,自然な感じで読む事ができます。そんな中,転校してきたサチと言う少女に出会います。不幸な家庭に育ったサチですが,強くって優しくって,とても魅力的。彼女の存在が,この作品の好感度を,確実に☆一つ分高めています。そして中学生,高校生と進んでいきますが,ワタルは自分の存在を問い続けます。全般的に苛め,偏見,家庭内暴力と言った暗い内容が多いのですが,それらを重苦しく感じさせないのが荻原さんのいいところでしょうか。

 

「延長戦に入りました」 奥田 英朗  2006.10.29 (2002.08.10 幻冬舎)

☆☆☆

 1991年11月から1999年7月まで「モノ・マガジン」に連載された「スポーツ万華鏡」から抜粋されたエッセイ集だそうです。テーマはスポーツです。スポーツと言うものは,「他人がしているのを観る」と言うのと「自分がする」と言う二つの側面があります。ここでもこの二つの側面から書かれていますが,どちらも独特の視点が面白い。前者だったら,水球の帽子とか,ボブスレーの2番目の選手,後者だったら,故障自慢とか,初めての剣道の試合とか。まあ専門的なスポーツの評論家が書いている訳ではないので,かなり脱線している気もしますが,これもスポーツに対する見方,捉え方なんでしょう。私もスポーツ中継を見るのは好きですが,男子レスリングのユニフォームから出ている乳首や,いつも同じ席で観ている観客なんて気にならないですけどね。それにしても高校野球って言うと,甲子園での試合しか普通観ませんよね。でも,甲子園に行ける高校ってほんの一握りな訳ですから,高校野球の本質は違うところにあるんでしょう。その点には納得してしまいました。そしてそれは他の競技にも当てはまる事なんでしょうね。

 

「ボトルネック」 米澤 穂信  2006.10.30 (2006.08.30 新潮社)

☆☆☆

 2年前に事故死した恋人の諏訪ノゾミを弔う為に東尋坊を訪れた嵯峨野リョウ。事故で長い間寝たきりになっていた兄の死を,母親からの電話で知らされた。そんな時,強い眩暈に襲われ,リョウは崖下へ転落してしまった。しかし気が付くと見慣れた金沢の街中。自宅に戻ると,見知らぬ女性が出てきて,ここは自分の家だと主張する。サキと名乗るその女性と話をしているうち,リョウは自分が生まれなかった,もう一つの別の世界にやってきてしまったらしい事に気が付いた。

 米澤さんの作品を読むのは7作目ですが,今回は初めてのSF作品。いわゆるパラレルワールドを描いています。嵯峨野家の二人目の子供として生まれたのが,男である自分と女であるサキと言う違い。その違いによって,少しずつ周りの様子が違っています。リョウの世界では恋人であり事故で亡くなってしまったノゾミも,こちらの世界では元気にしています。そして当然の事ながら,彼女はリョウの事を知りません。この様な世界に紛れ込んでしまったリョウの気持ちは察するにあまりありますが,どうも冷静過ぎる感じがしてなりません。SF世界の事ですから,その設定に登場人物が驚いてばかりいてもしょうがないのは判ります。でも彼は省エネの古典部員でもなく,小市民の中学生でもありません。それらの探偵役ではなく当事者ですよね。何かサキのキャラクターを際立たせる為の存在になってしまった感じです。そして最後の結末の残酷さを際立たせているんでしょうか。それにしても後味は悪いですね。

 

夏と花火と私の死体」 乙一  2006.10.31 (1996.10.09 集英社)

☆☆☆☆

@ 「夏と花火と私の死体」 ... 花火大会を前にした9歳の夏休み。私と弥生ちゃんと弥生ちゃんのお兄さんの健くんの3人は,村の奥の一本の木で遊んでいた。いつもの様に私は弥生ちゃんと木に登って村を眺めていたら,突然弥生ちゃんから背中を押された。木から落ち,下にあった石にぶつかり,死体になってしまった私。弥生ちゃんと健くんは,何とか私の死体を隠そうとした。
A 「優子」 ... 清音が鳥越家に住み込みで働くようになって2週間が経った。鳥越家の主人は物書きをしている政義で,妻の優子との二人暮らしだった。しかしこの間,清音は一度も優子の姿を見ていなかった。身体を壊し寝て過ごしていると言う。清音は毎日,二人分の食事を用意していた。

 表題作は,乙一さんのデビュー作で,第6回ジャンプ小説ノンフィクション大賞の受賞作です。書いたのが16歳の時と言うのが驚きです。この作品の大きな特徴と言えば,その語り方でしょうか。主人公の五月ちゃんは冒頭で亡くなってしまいます。でも死体になっても五月ちゃんの視点で,物語は語られていきます。語る物語は,自分を殺した弥生ちゃん兄妹による,自分の死体隠しの話です。決して自分を殺した兄妹を恨む事無く,時にはスリリングに,時にはコミカルに語られていきます。物語は子供の無邪気さ,残酷さ,ずる賢さに溢れ,独特な世界が広がって行きます。でも最後の方がちょっとバタバタしてしまった感じが残念です。それと2作ともストーリー自体が単純なので,最後の驚きが少ないのが難でしょうか。でも特に「優子」はそうですが,描いている時代が今より少し前なのですが,その雰囲気の出し方が上手いですね