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■2002年11月16日〜11月30日


11月29日(金)
 乙一の短編「はじめ」を小畑健が漫画化というニュースを知って、あわてて未読だった『石ノ目』を読みはじめ、とりあえず「石ノ目」と「はじめ」を読み終えた。正直なところ、角川スニーカー文庫から出ている「せつない系」の作品は苦手で、ホラー色やミステリ色の強い作品にしても、登場人物の孤独や疎外感が前面に出てくると結構うっとうしく感じるんだけど、この作品集は(読み終えた2作品に限っていえば)そういった青臭い湿っぽさが希薄で、不思議な味わいの物語を素直に楽しめる。


 Mystery Laboratoryで知った「某作家の日記が読めるページです。」。
 今後、改善されるとは思うけど、それぞれのコンテンツ(掲示板以外)からトップページに戻る手段がないのはいかがなものか。


 会社帰りに立ち寄る飯田橋の書店の文庫本売上ランキングで、なぜか貫井徳郎『慟哭』が1位になっていた。なぜ、いまごろ?


 本日の購入本。山口雅也『奇偶』、法月綸太郎『ノーカット版密閉教室』、浦賀和宏『ファントムの夜明け』、東野圭吾『ゲームの名は誘拐』、あとは『ファンタシースターオンライン エピソード1&2 アルティメット クエスト×レアアイテム編』。店を出て地下鉄に乗ってから佐藤亜紀『天使』を買い忘れたことに気づいた。


 書店店頭の平積み状況や事前に情報を把握していそうなサイトの最近の読書傾向を見ながら「このミステリーがすごい!」のランキングを予想している今日このごろ。発表されたあとだと無意識に影響を受けそうなので、今のうちにとりあえず個人的なランキング(暫定版)を書いてしまおう。ちなみに、リンク先は私が読了時に書いた感想。

【1】小川勝己『まどろむベイビーキッス
【2】西尾維新『
クビシメロマンチスト
【3】古川日出男『アラビアの夜の種族
【4】西澤保彦『聯愁殺
【5】小川勝己『撓田村事件―iの遠近法的倒錯―
【6】歌野晶午『
世界の終わり、あるいは始まり

11月28日(木)
東川篤哉密室に向かって撃て!』★★★
「KAPPA-ONE」レーベル第1弾として出版された4作品のなかで「
一番おもしろかったのは、留保つきながら『密室の鍵貸します』かな」と書いた個人的に期待度No.1(あくまで「KAPPA-ONE」限定ですが)の東川篤哉の長編第2作。前作と同じ関東某県に存在するという設定の架空の都市「烏賊川市」を舞台にしており、刑事や探偵といった主要な登場人物も同じで、どうやら「密室」をタイトルに冠したシリーズになるみたい。結論を先にいってしまえば、なかなかおもしろかったので、続刊が出るなら読むつもり。

 今回の事件は「密室」とはいってもいわゆる開かれた密室で、衆人環視下の殺人を扱っている。タイトルの「撃て」の文字から予想されるとおり、凶器は拳銃が用いられる。架空の都市とはいえ、現代日本で拳銃を凶器とすることの不自然さを解消するため、さらには凶器の入手ルートから犯人が特定できない状況をつくりだすために、作者は冒頭で一丁の密造拳銃が紛失する経緯を描く。これは本筋とはまったく無関係で、あくまで事件のルールというか舞台づくりのための「言い訳」なのだが、作者はそのことを隠そうとしないどころか、むしろ開き直って「
これから先、一丁の拳銃が誰の手によってどこでどのような形で使用されたとしても、賢明な読者のみなさんは決して《リアリティがない》などという野暮はいわないはずである」(P.19)とあらかじめ釘をさしている。そういう語り口なのだ。個人的には気にならないわけではないんだけど、もともとふざけた作風なので、まあ、それもありか、という気分になってしまうのはもしかしたら作者の計算のうちなのかもしれない……というのは妄想か。

 恐らく大半の読者は第二の事件が起こった段階で犯人のめぼしがついてしまうだろう。トリックを含めた犯行手順も、細部はともかく、おおまかな全体像は予想がつくと思う。しかし、この作品の魅力は、動機にまつわる巧妙な伏線のはりかたにある。なにしろ、記憶力にあまり自信がない私でも、真相解明において列挙される出来事をすべて覚えていたくらいなのだ。もちろん、その部分を読んでいるときにはそれが伏線だと感じさせるような不自然さはきわめて少ない。ドタバタコメディ的な作風を隠れ蓑にして、きっちりとミステリとして成立させているという意味では、前作よりもさらに良くなっている。劇的に化ける、というタイプの作家ではないと思うけど、今後も安定して軽い味わいのおもしろいミステリを書いてくれそう。


11月26日(火)
 某所でさらされて「
う〜む。。。これはぼくの桐璃じゃない・・・・(w」という微妙な反応があった舞奈桐璃のイラスト『夏と冬の奏鳴曲』のネタバレになっているので未読の方は注意)。
 Highwayのサーバではトップページからたどれる場所にこっそりと置いてあったんですが、こちらに引っ越してからはリンクをはずしてしまい、自分でもすっかり忘れていました。せっかくなので、ここで改めて公開します。全部で4点あります。


 愛蔵太さんが仮装日記で取り上げていた『遅刻の誕生』がおもしろそう。
「自明だと思い込んでいた概念をくつがえされる」ことに快感を覚えるのです。これは、ミステリの「意外な結末」にも通じるところがあると思います。柄谷行人『日本近代文学の起源』みたいなアクロバティックな論述が大好きなのです。


「書くことについて書く」というのは他人がやっているのを読むと非常にうざったい。しかし、話題がないのに文章を書こうとすると、ついつい自分でもやってしまう。しかも、その自家中毒めいた感覚が結構楽しかったりする。と書いているこの文章そのものが、すでに「書くことについて書」いているわけで、もうちょっとその手の誘惑に禁欲的にならなくてはなぁ、と思っている。
 それにしても、ここ数日書いているような文章を他の人が読んでおもしろいのだろうか? と冷静になって考えてみれば、書いている自分が楽しければそれでいいや、という気持ちもみるみる萎んできて、早くも800文字という分量を書くことに疲れてきたということもあって、ここらでなし崩しに以前のスタイルに戻してしまおうかと考えながらも、姑息に字数を数えている自分がいる。今回は半ば反則気味の複数トピックであわせ技でノルマ達成の予定(もっとも、最初に「800文字」という目標を掲げた時点ではこのような形式を想定していたんだけど)。緊張感のある文章を書くという目的はすでに意味がなくなっているような気もする。駄目だ。


 年末に向けて仕事が増量中につき、予告なく更新の間隔があいてしまう可能性があります。

11月25日(月)
 小説で登場人物の容姿の描写はどの程度必要なのかという設問に対する明確な答えなど当然なくて、容姿の描写などなくても小説は成り立つし、逆に容姿の描写だけで構成された小説を書くこともできるだろうし、あるいは非人称の語り手以外の登場人物が存在しない小説というのももちろんありうるだろうがそれはあまりに極端な例なので無視するとして、あくまで容姿に限定した場合、言葉による肖像画のような精緻な表現というものは可能なのかと考えてみると、情報量が増えたからといって必ずしも読み手に正確に伝わるわけではないのはわざわざ考えるまでもなく明白なことで、そもそも芸能人などであれば、(同じ文化を共有しているという前提のうえで)ただひと言名前を書き記すほうが髪型や顔の造形や細部について言葉をついやすよりもよほど正確に伝達できるわけで、とはいえ、有名人ばかり登場する実名小説というのも非常にレアなケースだと思われるのでこれも無視するとして、もう少し現実的には、登場人物の容姿を何か別のものに喩える、というのがわりとよく使われる手法で、たとえば「ゴリラみたいな大男」とか「女優の○○に似ている」とか、あるいは「典型的なサラリーマン」などという表現も同類だろうが、既知であることを前提とした具体的なものに依存することで、ついやす言葉数は少なくとも比較的容易に(多少の誤差を含みつつも)読み手に明確なイメージを喚起できる効率のよい手法ではあるのだが、前提となる基盤を共有していない読み手にはまったく意味をなさないのもまた確かで、もちろん、意図的に理解不能な比喩を用いるというのもまたひとつの手法ではあるけれどやはりそれもここでは無視するとして、髪型とか顔の造形であるとか目鼻立ちについて比喩を用いたり用いなかったりしつつ適度に描写するというのがごく一般的な手法で、作品の内容にもよるけれど大抵はそれで充分だろうし、かえって詳細すぎる描写は読み手に明確なイメージを喚起するのを阻害する場合が多いから、書き手にも読み手にも敬遠されるだろうし、そもそも、なんでこんなことを書いているのかというと、最近の文体遊びめいた文章の一環として、あえて比喩を用いず詳細に細部を描写した「文章による自画像」のようなものを書いてみたらおもしろいのではないかと思い、実際に少しばかり書いてみもしたのだが、結局アップするのをやめにして(恥ずかしいので)、かわりにこんな文章を書いているのだった。
(1,019文字)


 東川篤哉密室に向かって撃て!』を読みはじめる。相変わらず微妙なギャグが連発されるのだが、それなりに楽しく読んでいる。

11月24日(日)
 2日も間をあけてしまい、文字どおり3日坊主に終わった。
 ちなみに、21日の日記で書いた私のペンと箸の持ち方の画像はこちら→ペン


蘇部健一木乃伊男』★★★
 この作品には、イラストで真相がわかるという趣向が織り込まれている。私は未読だが、前作『動かぬ証拠』でも同様の趣向が試みられたらしい。この作品でイラストを描くのは里中満智子で、作品内容と絵柄がそぐわないところが逆におもしろいといえないこともないのだが、個人的にはそのミスマッチのおもしろさよりも違和感のほうが先に立ってしまった。
 講談社ノベルスの企画本である「密室本」の1冊として刊行されており、袋とじを開封して、ページをめくるとまず「登場人物表」と題された登場人物の名前と顔のイラストが読者に示される。この作品における「謎」というのはいくつかあるけれど、そのうちのひとつがタイトルにもなっている「ミイラ男」のような顔に包帯を巻いた正体不明の人物の正体で、その正体があかされる場面で「イラストで真相がわかる」という趣向が活用される。しかし、実をいえば私はイラストを見てもすぐにその人物が誰であるのかわからなくて、冒頭の「登場人物表」を見直さなくてはならなかった。これは別に登場人物の顔の「描き分け」ができていないということではなくて、冒頭の「登場人物表」と、それぞれの登場人物が作中に登場する場面で挿入されるイラストだけでは、充分に顔を記号として認識するには至らずに名前と一致させることができなかったという私自身の問題ではあるのだけれど。ただ、この場合は少なくとも「情報を読者に伝える」という点に限ってみれば、普通に文字で名前を書き記したほうがシンプルかつストレートに読者に届くのは確かで、それをわざわざイラストにする意義は薄いのではないかと感じた(もっとも、イラストはそのためだけにあるわけではなくて、イラストでなければできない伏線などの趣向も用意はされている)。
 公平を期すため、私の読者としての読解力を記しておくと、私は最後のイラストの意味が自力ではわからなかった。

 私がこの作品でおもしろかったのは、イラストを用いた趣向や、いささか下品な細部ではなく、2つの事件における主人公のおかれた状況で、ちょっとだけ『
赤い右手』を思い出した。(874文字)

11月21日(木)
 私が鉛筆やペンで文字や絵を書いているのを見た人はたいてい「へんな持ち方だね」という。それから「昔からそうなの?」とか「習字やってた?」ときく。
 具体的には習字の筆の持ち方を思い浮かべて欲しい。親指とほかの4本の指先ではさむように軽く持つ。それが筆であれば手を浮かせたまま墨をふくませた筆先で紙に文字を書くところだがそこから手の側面を机の上におろして固定する。筆記用具の軸は親指とひとさし指のあいだでささえる。正しい持ち方であれば軸はちょうど真横を向くことになるが私の場合は利き手側のやや後方を向く。
 この持ち方の欠点は複数ある。鉛筆などで縦書きした場合に手の側面の汚れる範囲が大きく(小指から手首近くまで)紙が汚れやすいということ。筆記用具を持つ位置自体は正しい持ち方と変わらないのだがマジックなどを使った場合に中指の先端にインクがつきやすいというよりほぼ確実についてしまうということ。漫画を描くときに使うGペンやかぶらペンといった角度によって描線が変わる筆記用具が使いづらいということ。長時間続けて文字を書いていると親指が痛くなるということ。冒頭に書いたようにいちいち他人に持ち方がおかしいと指摘されること。などがある。逆にメリットといえるようなことは絶対にペンだこができないことくらいだろうか。
 ついでに書くと私は箸の持ち方も正しくない。こちらは言葉で説明するのがかなり難しいのだが一方の箸を小指を除く4本の指で持ってもう一方の箸を小指の先端と親指とひとさし指のあいだでささえるのだ。しかし箸の場合は筆記用具とは異なり他人から指摘されるという以外の目立った欠点はない。豆だってつまめる。
 矯正しようと思ったことがないわけではないのだが結局30歳になる今もそのままでもはや直す気はないし大きな問題は感じていない。もっとも口には出さないまでも内心では不愉快に思っている人も身近にいるかもしれないがそこまで気を使う性格であればとっくに矯正している。これは余計な開き直りか。
 おそらくこの説明だけで私の筆記用具と箸の持ち方を具体的に思い浮かべるのは難しいと思う。画像をアップすれば一目瞭然だが自分の書いた文章を無意味にするだけなのでせめて1日だけ時間をおく。(935文字)


 軽い小説を読みたいと思って積読だった蘇部健一木乃伊男』を読みはじめる。ちなみに、この作者の既読の作品は『六枚のとんかつ』(ノベルス版)のみ。
 なぜか「メフィスト学園・二年生です!」スレッドでは強力な萌えキャラとして殊能と舞城の板挟みになっているわけだが……。

11月20日(水)
 昨日の日記では、短く区切った文章で硬めの文体を意図して書いてみたけれど、どちらかといえば、この文章のようにだらだらと連なっているほうが書きやすい、というか、あまり神経を使わずに済む、というのが実感としてあって、しかし、そもそも、そういった句点に区切られることなく続く文章のおもしろさというのは、例えば小説であれば描写の対象や語りの主体がひとつづきの文章のなかで明確な境界がないまま移り変わっていったり、あるいは詳細な描写によって時間や空間が引き延ばされたり飛躍したりすることにあるわけで、この文章のように同じ主体が同じ対象について直線的な時間軸にそって語っていくのは似て非なるもので単なる独り言に過ぎず、安易であるがゆえにいくらでも続けようと思えば続けられる気もするのだが、天井のエアコンからはきだされる乾燥したなま暖かい風で先端が枯れ黄色く変色しはじめている観葉植物の尖った葉が揺れ、窓の外がすぐ隣のビルに面しているので常に下ろしているブラインドにあたってかちかちと絶え間なくごく小さいが耳障りな音を立て、出勤前に見た「めざましテレビ」の天気予報では最高気温は10度で日が落ちると冷えるのであたたかい格好をしてお出かけくださいと言っていたし、室内は禁煙なので煙草を吸うために狭いベランダに出ると長袖のシャツの上にパーカーをはおっていても肌寒いくらいだから、暖房は必要だとしても、いくらなんでも暑すぎるのではないだろうかと壁に備えつけのリモコンを見ると暖房は入っておらず、では、なぜ観葉植物の葉が揺れ、ブラインドにあたって絶え間なく音をたてているのだろうと考えつつ、細長い流線型をした名も知らない観葉植物の濃いというより暗い緑色の葉の先端は枯れ黄色く変色し指でつまめば容易に崩れそうで、実際に手を伸ばす誘惑に逆らいながらもキーボードをうつ手をとめてしまい、いくらでも続けられそうな気はするけれど、続けられるはずもない。(810文字)


 そもそも、800文字の独立した短文を書く、という意図ではなかったんだけど、これはこれで書いているほうとしてはおもしろいので、あきるまで続けることにする(たぶん、すぐにあきる)。


 ウィリアム・フォークナー(加島祥造/訳)『』読了。なかなか読みやすくておもしろかった。しかし、思っていたよりも普通の小説で、それほど「すごい」という印象ではない。近いうちに『アブサロム、アブサロム!』を読むつもり。
 ところで、収録されている短編のひとつ「熊狩」は「しゃっくりが止まらなくなった男」の話で、具体的に作品名はすぐに思い浮かばないものの、特に長期連載のストーリーよりキャラクタ主体のマンガでいろいろなバリエーションを読んだ記憶が漠然とあって、そもそもこの話の原型は何だろう? と疑問に思っていろいろと検索してみたんだけど、残念ながらこれといったものは見つからなかった。
 何か情報があったら教えてください。

11月19日(火)
 私は長文を書くのが苦手で、文章量が増えるに従って加速度的に緊張感が薄れ弛緩した文章になっていく。しかも、最後はたいてい中途半端なところで唐突に終わる。書いているうちに、だんだん面倒くさくなってしまうのだ。薄っぺらいジャーゴンや安直なレトリックが頻出するときは、すでに息切れしている証拠だ。手直しするのも億劫で、そのままアップロードしてしまう。あまりに目に余るときは後で修正することもあるが、多少、文章の体裁を整える程度で、大幅に手を入れることはない。
 しかし、文章を書いているあいだは、頻繁に読み返し、すでに書いた部分に何度も手を入れる。一文書いては読み返し、改行しては読み返す。だから、書きはじめの部分は書き終えるまでに何度も繰り返し読み、手を入れることになる。逆に、文章が終わりに向かうにつれ、読み返す回数は少なくなり、はじめに書いた文章がそのままの形で残ることが多くなる。結果、できあがった文章は、後に進むほど弛緩していく。もっとも、これは私に限った話ではないだろう。
 とにかく終わりまで一息に書き進もうと思っても、returnキーを押した瞬間、視線が文章の冒頭に戻っている。冒頭から通して読み、気になる部分を直し、また続きを書き、さっき直したばかりの部分をまた直し、やがて疲れたので適当なところで妥協して終わらせる。そのくせ、何度も読み返したはずなのに、通して読むと、短い文章のなかで同じ言い回しを何度も使っていることに気づく。
 ちなみに、私の文章が弛緩してきたときにあらわれる症状として自覚しているものは、前述したもののほかに、()による注釈めいた挿入記述が増える、文体がくだけたものに変わる、唐突に結論めいたことを書く、といったものがある。
 もうちょっと安定して、あくまで主観的にではあるけれど、緊張感のある文章を書きたいと思っている。そのために、日記の文章量を増やすことを当面の目標に設定する。最低、原稿用紙2枚分、800文字以上を書く。(827文字)

11月18日(月)
恩田陸ロミオとロミオは永遠に』★★
 舞台は近未来の地球。人類は「新地球」に移住し、日本人だけが汚染物質や兵器を処理するために残されている。閉塞した未来のない世界でよりよい生活を送るためには、「大東京学園」の卒業総代となり、エリートとしての将来をつかみとるほかなかった。

「大東京学園」という名前からも察せられるように、世界観は決してシリアスではない。前世紀(つまり、20世紀)の社会や文化の名残が歪んだ形で学園の施設や試験に反映されており、まあ、そこが笑いどころでもあるのだろう。例えば、ほとんどバラエティ番組(「筋肉番付」みたいな感じ?)のゲームを思わせるような試験で成績が決められたり、試験監督をつとめる教師のノリがまるで「アメリカ横断ウルトラクイズ」(
「卒業総代になりたいかーっ!」)だったりする。もちろん、それは笑いどころであるだけでなく、同時にひどく残酷な側面を持っていて、そういったゲームめいた試験において生徒に死傷者が出ることも厭わないし、あるいは、遊園地にあるような牧歌的な観覧車が、ルールを破った生徒が収容される懲罰房として機能していたりもして、「笑い」と「恐怖」が背中合わせとなって歪な世界観を構築している。

 以下は、この作品について気になった点を書いていく。

 まず、「前世紀の文化」の扱いにかんして統一がとられておらず、物語の構図がわかりづらくなっている、ということがある。上記のように、「前世紀の文化」は体制側の「恐怖」の戯画的な表出であるわけだが、同時に生徒たちにとっては禁じられているがゆえに「憧れ」の対象であり、また、「自由」の象徴でもあったりする。作者としては、そういった「両刃の剣」としてのサブカルチャーを描きたかったのかもしれないのかもしれないが、そのために、「閉塞状況における光明」として充分に機能しているとはいえなくなっている(そして、それは結末の説得力のなさにもつながっている)。

 次に、描写のバランスの悪さ。これは、先日
『伏線』をはるのがあまり得意ではない」と書いたことにもつながるんだけど、例えば主人公の1人であるアキラは「格闘家」で、「アンダーグラウンド」と呼ばれる地下の娯楽施設で見せ物としての「プロレス」をやっている、と書かれているにもかかわらず、実際にその場面をきちんと書かないのは納得がいかない。キャラクタの演出としても重要だし、愛すべき過去の遺物として「プロレス」を登場させたなら、言葉としてだけでなくきちんと細部として描写すべきだし、さらに、終盤でP.418のような回想を行うのなら、その場しのぎではなく、なおさら対応する場面の描写は不可欠だと思う。

 また、そういった事前の描写不足、情報提示の不足をおぎなうために、「神の視点」をもつ非人称の話者があからさまに姿をあらわすのも杜撰な印象を受ける(例えば、
洞窟の崩壊の場面)。
 だいたい、クライマックスの「競技」にはどう考えても「計画」の成立する余地は皆無だし、その後の展開はほとんど「何でもあり」といった感じで現象に対する納得のいく説明は皆無だし、そんなにたくさん書かなくてもいいから、もうちょっと丁寧に仕上げてくれといいたくもなる。

 もっとも、恩田陸という作家は良くも悪くも「天然」というか何というか、視点とか技法といったものにこだわらずともおもしろい「物語」が書けてしまう、という面が確かにあって、そこが魅力でもあるわけだし、実際、この作品もそれなりにおもしろく読めたことも事実なのだが、もっとおもしろくできるはず、という気がすることも確かで、100点を目指せとはいわないけれど、せめて80点くらいは目指してほしいなぁ、と思う。

11月17日(日)
 ウィリアム・フォークナー(高橋正雄/訳)『アブサロム、アブサロム!』を読みはじめてはみたものの、文章の流れを追うのに集中力を要する文体なので、とりあえず先に中編1編と短編3編が収録された「
フォークナー入門に最適の一冊」と謳われている『』(加島祥造/訳)を読むことにする。
 まだ冒頭に収録されている中編の「熊」を読み終えただけなんだけど、こちらはかなり文章が読みやすくて、おもしろい。少年を主人公とした狩猟の物語で、「オールド・ベン」と呼ばれる森のボス的な存在である大熊や、「ライオン」と名づけられた強靭な猟犬が登場して、読んでいるあいだ、ずっと高橋よしひろの『銀牙』を思い浮かべていた。
 収録されている各編の冒頭に、訳者による「登場人物と動物」一覧が付されているという非常に親切なつくり。


 リチャード・ブローティガンアメリカの鱒釣り』が復刊されてる! 知らなかった!

11月16日(土)
 恩田陸ロミオとロミオは永遠に』読了。終盤の、思いつきで書いたとしか思えない適当な展開には呆然とした。どうも恩田陸は「伏線」をはるのがあまり得意ではないらしい、ということに今さら気づいた。本人がそのことを認識しているかどうかはともかくとして。
 ツッコミ中心の詳細な感想はまた後日に書くかもしれない。

 ところで、あれの形状が「タコ」である理由って、もしかして最後の場面(P.478)で使うためなんでしょうか?(つまり、
見た目が御茶の水博士になるというネタ?) いや、まさかねぇ……。

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